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Payaoとは:「可能性を追う」ということ

Payaoです。

この記事ではPayaoの経緯について語ります。

今でこそ楽曲のリリースや沢山の方にも聴いてもらえるようになりましたが、何度も諦めかけ、沢山の困難がありました。まだ何一つ満足のいく結果は出していません。でも続けてきた中で一つ確実に実感しているのは「可能性を追う」ことの大切さです。これだけは伝えたい。

音楽だけじゃなく、何かを成し遂げたい人、何か問題を抱えていてそれでも前に進みたいと思う人にとって、絶対に必要な考え方だと思います。自分の半生の中でずっと大切にしてきたこの「可能性を追う」ことについて書いていきます。

とても長いので、時間のない方は「レコード会社にデモテープを送る」あたりからが本軸なのでそのあたりからお読みください。

現在の活動状況、プロフィール

Payaoとは:フリーのアーティスト、普段は会社員。作詞作曲Vo。2018年5月に活動開始。編曲家にTaisho(嵐やJUJU等)、MV監督に仁宮裕(foxcapture plan等)、エンジニアに上原翔(Every Little thing等)、その他俳優・書道家まで様々な分野のアーティストとチームを作り、コラボレーションすることでハイクオリティな作品を作り上げる。Jazz・EDM・バンドサウンド等ジャンルに囚われない多様な音作りでありながら、独特のセンスで紡がれる言葉と、キャッチーなメロディーライン、色気のある歌声で放つ洗練されたモダンPOPS。またレコーディングや編曲制作現場の生Live配信。制作音源のデータのダウンロードなど常に新しい活動を行う。

では自分の半生を綴ります。

幼少期:音楽との出会い、シャ乱Qの影響


地方出身で、親は公務員と専業主婦の平凡な4人家族の家に生まれました。音楽を始めたのは4歳の頃。親に聞くと、ヤマハのエレクトーン幼児開発にたまたま参加したら、鍵盤を使って凄く楽しそうに遊んでいたらしいので通わせてみた、とのこと。

そこから中学に入るまで毎週エレクトーンを習うようになりました。でも練習がめんどくさくて嫌いで、毎週レッスンの直前になって慌てて宿題部分を練習するという劣等生でした。しかし、転機が起きたのは小学校3年生の時です。

作曲というレッスンがありました。作曲ってなんだろう?と不思議に思いながらエレクトーンに向かったのを覚えています。先生が言うにはどうやら楽譜通りではなく、何でも好きに弾いていいということらしい。

そこで初めて楽譜を置かずに、とにかくやってみるかと無心で鍵盤に向き合いました。すると自然と、勝手に手が動いて、一つのフレーズが出来ました。どことなくシャ乱Qを彷彿とさせるようなマイナー調POPSのサビのようなフレーズを弾き、「今の自分で作ったの?」と隣でテレビを見ながら聴いた親が驚いたのを覚えています。

その曲を音楽教室で発表した時も場がどよめきました。周りの子達は初めての作曲で「おもちゃの行進」や「赤とんぼ」の様な童謡のような曲を作る子がしかいない中、一人だけシャ乱Qだったので特に目立ったんです。物凄く嬉しかったのを覚えています。生まれて初めて自分に合っているモノを感じた瞬間でした。

この日から僕は作曲に病みつきになってしまった。将来は自分の曲が沢山の人に聴かれる様になって欲しい、そう思う人間になりました。

少年期:400曲を作るまで

小3で作曲に目覚めた僕は流行りのJ-POPをとにかく聴きまくるようになりました。Mr.children、小室ファミリー、宇多田ヒカル、サザンオールスターズ、とにかく毎月レンタルCD屋で売れているCDを借りまくり、MDにして車の中やMDプレイヤーで聴く日々。

楽譜を買うお金がなかったので、MDを聴きながらエレクトーンに向かい、曲と合わせて弾いてみて、合っている音を探します。そのまま伴奏も何となく探って付けられるようになり、次第に耳コピができるようになりました。

同時に「この曲とこの曲の伴奏って一緒じゃん」と売れている曲のコード進行を理解できるようになっていきました。

耳コピができるようになると、頭の中でオリジナルの曲をイメージして、それを耳コピして鍵盤に落とすことが出来るようになります。

この方法で学校へ通学する際に必ず作曲するようになりました。頭で鳴った曲をそのまま家まで鳴らし続けて持ち帰り、急いでエレクトーンに落とし、フロッピーディスクで録音する、というの高校の頃はほぼ毎日行い、高校3年間で400曲以上作曲しました。

高校は軽音部の雰囲気が嫌いで、バスケ部を選びました。だから作曲をしていることは誰も知らなかったし、恥ずかしくて言えなかった。

ただ世の中に出しても受け入れられるんじゃないか?と思える曲が出来た時に、初めて人に聴いてもらいたいと思うようになりました。

とても身近な友人数人にだけ、自信のあったピアノ音源を聴かせてみた所、とても不評で自信を無くて死にたくなるような想いもしました笑

青年期:全くバンドが組めない


大学ではこの400曲の楽曲を携えて、絶対バンドを組んで、メジャーデビューをする。そう息込んでバンドメンバーを必死で集めました。ただ地方の普通の大学なのでプロ志向の人がなかなかいなく、全くメンバーを集められません。

そもそも音楽性も合って、スキルも意志も合って、タイミングも合うメンバーを各パート分かれて4-5人見つけるってとても難しいことな気がする。

当時はSNSも今みたいに流行っていなかったから、スタジオの掲示板で募集したりしていました。何人も何人も当たって、ようやく集まってLiveまで漕ぎ着けたと思ったら仲違いが起きて解散。そんなことをして体制が整わないうちにすぐに1年以上が過ぎていきました。

「何にもなれないまま、音楽人生が終わってしまう‥」そう心の何処かで感じ始め、毎日毎日焦りを感じて過ごしていました。

そんな中、バンドが解散しても一緒にプロを目指してくれたドラマーが、「DTMでとにかくオリジナル音源だけ作ろう」と誘ってくれました。

その頃、丁度初音ミクによるニコニコ全盛期でDTMが急速に広がっていった時期でした。僕はLiveで活動するというイメージしかなく、DTMの存在も知らなかったのでまさに晴天の霹靂でした。

とにかくプロにも負けない音源を二人で作ること。そして出来たらレコード会社に送ってみる、というのが次のアクションになりました。

レコード会社にデモテープを送る

僕が作詞作曲ボーカル、相方が編曲し、デモテープを作るようになりました。

制作もレコーディングも本当に手探りで、今考えれば拙い音源だけど、魂を込めてミドルテンポの曲とアップテンポの曲2つが完成しました。

この2曲をネットで検索して出てくるレコード会社にとにかく送ってみようと、どれがメジャーでインディーズかもよくわからかったけど、大抵レコード会社のサイトはデモテープ係の住所が載ってるので、全部で40社くらい送りつけました。

送った時は本当に緊張した。「あぁ、今までの10年の評価が、答えが出てしまう。自分に才能があるのか無いのか、わかってしまう。」「そもそもデモテープって毎日たくさん来てるだろうし、一々聞くだろうか?」とか、不安に怯えながら寝たのを覚えています。

しかし、案外早く答えが出ました。
なんと幸運にも2〜3日の間に40社中10社ほどからメールや電話が掛かってきました。この反応は本当にびっくりで、内容としては「興味が湧いたので次のオーディションに受けないか」「定期的に曲を送ってみてくれ」というものなど様々でした。

即座に何かデビュー、という話は無かったのですが、自分の作曲がひとまず報われた、という点では天にも昇る気持ちになりました。

返事があった中で一番大きいレコード会社がソニーミュージックです。地方にも支社があったため、担当から直接会いたいと言ってくれました。

街のカフェで待ち合わせをして二人でガチガチに緊張しながら待っていたのを覚えています。待ち合わせ時間に遅れて、大柄のロン毛の男性が入ってきて、「見るからに業界人じゃん!絶対この人だ!!」と思ったのを覚えています。まさにその人でした。ソニーの新人発掘担当の方です。そこで言われたのが、色々デモテープは聴いてたけどなんとなく声が引っかかった。曲も悪く無いからもっと沢山曲を作ってくれとのこと。

内心僕は「キタキタキタ!これでいい曲作ればメジャーデビューで一気に有名に!」と意気揚々と考えました。この時点ではまだここから沢山の困難に見舞われることを想像できませんでした。

社内プレゼンに向けた音源作り

ソニーの担当がついたことにより他のレーベルとの話を断る事になりました。担当の方と一緒に楽曲を作り、ソニー内のプレゼンにかけてもらい、レーベルや事務所から手が上がればデビューが決まる、という流れです。

そこから1ヶ月に1〜2曲作っては担当に見せ、お蔵入り。作っては見せて、お蔵入り。というのを1年以上やっていました。

そもそも何度も同じアーティストがプレゼンにかかることはないそうです。僕達は二人でLiveもしていなかったため、動員数や物販の売上など数字的な根拠がなく、相当作り込んだ音源出ないとプレゼンには通らないだろうという状況でした。この曲を作ってはお蔵入りとなるサイクルが修行のようで、本当に苦しく、闇の中を藻がくような日々でした。

普通の学生であれば就職活動をするタイミングに差し掛かると、「ここまで来て就活するって馬鹿なんじゃないの?」という担当からの声もあり、確かにこのチャンスを逃すわけにはいかない、と大学は休学して、プレゼン用の楽曲を作り続ける事を選びました。

親にももちろん反対されましたが、関係なかった。今が人生で一番集中しなくてはならない時だと考えていました。そしてプレゼン用の3曲の楽曲が出来上がります。MVも撮影してもらい、遂にプレゼンを行ってもらう事になりました。

東日本大震災の余波


今でもよく覚えています。2011年3月11日東日本大震災が起きました。僕は東日本に住んでいなかったので実害はありませんでしたが、日本全体が緊張感に包まれていました。

そんな中、ソニーの社内プレゼンテーションの日が過ぎ、担当からの電話を待ちました。いてもたってもいられず、自分が知ってる神社とお寺を全て回って御賽銭して祈願して、絶対に通る、受かる、と信じ続けました。

そして担当からの電話が鳴ります。恐る恐る出ると「一応いくつか手は上がったよ」という第一声でした。
「ん?一応って何!なんでそんな嬉しそうじゃないんですか?」詳しく事情を聞くと、興味はあるけど東日本大震災が起きたせいで、アーティストのLiveなどが全てキャンセルになり、レコード会社全体の状況が悪く、新人発掘の件はすぐに動けないと告げられました。

なんとそのプレゼンにかかった十数組のアーティストからデビューが決まった人は1組もいなく前代未聞の結果となったそうです。

僕らの話も流れてしまい白紙に。休学までしたのに次の動きができずに、途方に暮れました。

白紙になったメジャーデビューとインターネットとの出逢い

メジャーデビューが白紙に。でもまだ時間があり、諦めきれずにいました。何か他の方法はないのか、何か数字で示せるものを用意すれば今からでも巻き返せるんじゃないか。Liveを2人でやれるような楽曲ではないし、弾き語りも違うから動員数は厳しい。そこで考えたのがダウンロード数です。

当時今のようにストリーミングがなかったし、回線も3GだったのでYouTubeの再生数よりも、ダウンロード数を追うことにしました。ソニーにサイトを作ってもらい、そこから無料で楽曲をダウンロードできるようにしました。

ちょうど震災後、急速にFacebookとTwitterが普及した時代でした。僕は当時本当にアナログ人間で、Wi-Fiってなに?状態。SNSもちんぷんかんぷんで全くわかりませんでしたが、一から本をたくさん読んで勉強し、どうやったら曲を聴いてもらえるか、ダウンロードしてもらえるか、毎日毎日試行錯誤しました。

すると少しずつダウンロードしてくれる人が増え、Naverまとめや、海外から記事にしていいか、などの声もかけてもらえるようになりました。当時Twitter上で活動をしていたアーティストがあまりいなく、珍しかったんだと思います。新しい音楽の広め方として認知されるようになっていきました。

半年で6曲リリースし、幸運もあり合計1万4000ダウンロードという数字を達成することができました。

僕にとってこの広がりはとても嬉しく、街の人のiPhoneの中に自分の楽曲が入っているという事実に感動していました。そして、音楽業界よりもインターネットの可能性に感動し、もっとインターネットについて学びたい、そう思うようになりました。

その時点では僕にとって楽曲を発表し聴いてもらえる環境が整ったため、レコード会社にこだわる必要がなくなりました。このままユニットとしてネット上で有名になればいい、そう決心をしました。

解散


この形態であれば働きながらでも音楽が続けられる、またインターネットに詳しい人間になりたい。そう思い休学をやめてインターネット系の会社に就活することにしました。

今までの経緯を話すと面白がってくれる会社があり、スムーズに就職することができました。そして東京に暮らすことになります。

相方も就職活動が終わり、今後どんな風に活動していくか話合おうとしたところ突然の一言。「‥解散したいんだよね」

「え、なんで、こんなに上手くいってるのに、なぜ!これからなのに!」と僕は驚きました。話を聴くと僕にはもう付いていけないと。楽曲の方向性、活動方針も全て勝手に決めてしまう。自分はただの使いっ走りのようにも感じ、音楽性も合わなくなってきた。一緒にやっていてストレスだとハッキリ言われました。

僕は言われた時はパニックになり、とっさに引き留めようとしました。でも後々考えるとそれすら本当に独りよがりだった。
しっかりと感謝したこともなければ、むしろきつく当たっていたことが多かったんだと思う。謝ることすらできていなかったかもしれない。

僕は夢を叶えるために必死になりすぎて周りが見えなくなり、大切なパートナーを失ってしまいました。

そして一人東京に住むことになりました。

音楽から遠ざかる日々

就職し、会社員になると毎日がとても大変でした。慣れない東京、慣れない社会、目上の上司、そこでの評価を気にしたり、周りの人に合わせて生きていくうちに音楽のことを考えなくなっていきました。

毎日に追われ、それをこなす日々。そこに少しの充実感を感じ始めてしまっている自分もいます。

働きながら音楽を作っていく、これは無理だ、時間がなさすぎる。中途半端な作品しかできない。協力してくれる人もいない。

同い年くらいの新しいアーティストがテレビに出たりすると、チャンネルを変えました。

音楽を遠ざけ、そして2年が経ちました。

起業した先輩からの誘い

働いて2年を過ぎたとき、自分の面倒をよく見てくれていた会社の先輩に話があると呼ばれました。「実は起業しようと思って、社会勉強だと思って一緒にちょっと手伝ってくれない?」

会社を辞める訳ではなく、副業としてまずは起業する。いろんな経験ができると思うから手伝ってくれないか、そう誘われたのです。僕は慕っていた先輩だったので協力する事にしました。今思えばそれが転機でした。

チームを組むという考え方

その先輩は副業としての起業だったので基本的に時間がない。これをどうやってこなしていくかというと、とにかく自分はこういう状況で、こんな事が将来したくて、一緒に手伝ってくれないか、という風に自分にない能力を持っている人にどんどん声をかけていき、人を巻き込んでいきました。
鋭い言葉、強い意志、ビジョンを明確に相手に伝えることによってどんどん人が加わっていきました。

それを間近でみているうちに気付きました。
「あれ、こうやって音楽もまたやれるかもしれない。」

深く考えました。自分に何ができて、何ができないか。誰に何を伝えれば協力してくれる人を増やしていけるのか。僕はピアノで曲を作って、歌詞を書き、歌うことができる。将来はいつまでにこうなりたい。自分に協力したいと人はどうしたら思うだろう?きっとこの熱意を伝えること、そして人をアっと言わせるような原曲を作らなきゃいけない。

そう考え、1年をかけて作った楽曲がPororocaです。

この原曲を知り合いだった編曲家のjimuno.kに聴いてもらい、自分の将来の夢、熱意、協力をして欲しい旨を伝えました。熱意が伝わったのか、是非やりたいと言ってくれました。

そして次にPororocaを完璧に仕上げるためにはプロのエンジニアにミックスとレコーディングを頼む必要がありました。ネットで調べ、繋がることができたプロエンジニアの上原さんにメールし、アポイントをとって楽曲を聴いてもらい直談判しました。そして快くOKをもらいます。

楽曲が完成したら、曲に合ったMVが必要です。上原さんの紹介でMV監督の仁宮さんにお会いし、そこでも楽曲や想いを伝えて、直談判し、快く引き受けてくれました。

こうして、自分に今できることに100%の力を注ぎ、一人ずつに熱意を伝えることで、Familyというチームを築きました。そしてPororocaで2018年Payaoとして活動を再開することができました。

音楽を再開すると決めてから2年の準備がかかりました。特にサイトは納得いくものができず、二度お蔵入りになって今の形になっています。

そしてFamilyも俳優、書道家、デザイナーなど徐々に増え、2020年には15人ほどになる予定です。それだけの多くの人が関わってPayaoは成り立っています。

アートワークの幾何学模様は人が繋がり、一つの模様を生み出していくことを示しています。

ひたすら可能性を追うということ

僕は常にあらゆる可能性を追ってきました。
バンドがどうしても組めなければ、DTMを学び、楽曲をレコード会社に送る。メジャーデビューが白紙になったら、サイトを立ち上げてSNSで自分の楽曲を広める。社会人が始まり時間がなく、一人で音楽ができないのであれば、チームを組んで作品を作る。

僕がやってきたことはただひたすらに可能性を追うということです。できないことがあれば、他の方法はないか、柔軟に考えを変え、意志を変えずに進むということ。これが僕の半生です。

これからは更に人が感動するいい曲をどうしたら作れるか、可能性を追います。どうしたら人は感動するのだろう、耳に残るのだろう。自分の声に合っている曲はなんだろう、届け方として何が正しいんだろう、音楽を行う上で、すべての観点に再度可能性を求めます。この姿勢だけは僕が絶対に一生変えないスタンスです。

感謝を忘れない

ようやく2ndアルバムもリリースが決まり、Payaoとしての1章が終わったと思います。今後はさらなるステップアップのためにどんどん新しい事に挑戦します。

まだ道半ばですが、ここまで来れたのはFamilyのメンバーや自分の曲を聴いてくれる方々のおかげでず。今でも音楽を続けていられること、ここまで記事を読んでくれる人がいること、本当に自分は運が良かったと思っています。
本当にありがとうございました。

これだけは絶対に忘れない、自分だけでうまくいくことはなかった、本当に運が良かったのだと思います。学生の頃の独りよがりな考え、解散したあの日から強く思うようになりました。

心から感謝してます。そしてこれから感謝し続けます。

長くなりました。

Payaoは常に新しい可能性を探しています。
何か新しい事、Payaoと何かしたい、という方は気軽に声をかけてください。

一緒に可能性を追いましょう。

では。

Payao

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