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安全工学者に要求されるのは大器晩成型能力なのです。

私が大学3年生のとき、4年次から所属する研究室を選ぶ際に、安全分野に取り組もうと考えたのは、社会においては「適切なブレーキ役」が必要だと思ったのが1つの理由だ。

安全を担う人間のことを「ブレーキ役」という言葉で表現すると、例えば新しい科学技術の推進側の立場に立つ人たちにとってはあまり良い気持ちがしないかもしれない。

新技術を社会に実装してどんどん面白いことをやりたい彼らにとってはきっと、既存の法規制であるとか、我々のようなスタンスを持つ人間たちのことを邪魔だと思う可能性もあるだろう。

しかし、例えば自動車にはアクセルと共にブレーキが必要になるように、新しい科学技術についても推進力と共に適切なコントロール機構が必要になるのは間違いのないことだ。

それは、科学技術が濫用されたときには、往々にしてある特定の人々を傷つけてしまう可能性があるからだ。

だから、それが濫用されないように、技術を適切にコントロール(マネジメントと言った方が良いかもしれない)する役割や仕組みが必要になるのだ。

ここで強調しておきたいことは、我々としては、そういう新しい科学技術を敵対視しているわけでは決してない、ということだ。

むしろ、より良い形で新しい科学技術を社会に実装していくために、その技術を社会実装する目的をも含めて、共に考え合う存在として関わっていきたいのである。

この社会を作り合う人々がより豊かに生きていけるように、そして、一部の人々の損害が無視され、一部の人々の利益だけが守られるようなことがないように、フェアな形で科学技術と付き合っていきたいのである。

こういう思想を大事にしたいと思いつつも、私が最近思うことは、そういうことを考えられる存在として生きていくためには、非常に高度な能力や資質が求められるのではないか、ということだ。

どんなに厳しい現実問題があったとしても、決して楽な方向に流されず、その問題と徹底的に向き合い考え続けられる知性と精神力、この社会に生きる全ての人々を守ろうと考えることができる人間性が要求されるような気がしている。

そういう力は、おそらく一朝一夕で身に付くものではない。しかも、個人的な感覚としては、学生時代から安全を学ぶにあたってはどうしても思想先行になりがちで、具体的な事物と触れながら経験を磨く機会を意識的につくらないと、自分の中でも腹落ちできないし、発言に説得力を持たせられない気もしている。

本当の意味で安全を担う安全工学者には、こうした大器晩成型の能力が求められるのだろう。

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