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まるごとの白菜

スーパーでまるごとの白菜を躊躇なく手にとれるようになったのは、家族ができてからだ。

いや、ちょっと強がった。正確に言うと今でも少し、躊躇はある。

我が家は3人家族で、ひとりはまだ1歳だし、そもそも持って帰るのが重いし、冷蔵庫を圧迫するし、新鮮なうちに美味しく飽きずに使い切れるか試されるし。悩んだ末、手軽に使い切れる1/4サイズを選ぶことも多い。

それでもその日、まるごとの白菜が安かったり、白菜をたくさん使う料理の予定があったりすれば、「まるごとの白菜を買う」という選択もできるようになった。ひとり暮らしのときにはありえなかった、その選択が。

そうして心を決めて「よし」と手にとり、ずしり、と両手にかかる重みを感じるとき。

ああ自分には、家族がいるんだなあと思う。

* * *

調味料や野菜の購入単位で、「暮らしの大きさ」を思うことってないだろうか。わたしは、よくある。

こどものころはもちろん、そんなことを考えたことは一度もなかった。

当時は家の中で見かけるそのもののサイズが、私にとっては「当たり前」であり、意識することすらなかったからだ。例えば醤油やみりんなら1リットルのペットボトル。キャベツや白菜なら、まるごと。

初めて意識したのは、おとなになってひとり暮らしをはじめたときだ。

自炊しようとスーパーの調味料売り場へ行ったはいいが、深く考えず、当然のように実家で見慣れたサイズの醤油を買った。家の台所にあるのは、このサイズの醤油。それ以外を検討するという知恵すら、最初はなかった。

1リットルの醤油は、当たり前だけれど、ひとりではなかなか使い切れなかった。数ヵ月が経ち、ボトルの口がかぴかぴに乾いてゆく醤油を見て、ああそうか、とわたしはようやく理解したのだ。

1リットルの醤油は、この暮らしのサイズではなかったのだと。いまの私の生活は、300ミリリットルとか、500ミリリットルとか、せいぜいそのくらいの醤油があれば十分だったのだ。

「家」というのは単なる空間ではなくて、そこへ住むひとたちで成る「暮らし」を含めて「家」というのだなあということを、ぼんやりと感じはじめたのも、きっとこのころだと思う。

門限もなくなり、すべて自分の思うようにできるひとり暮らしが、わたしは本当に心地よくてひたすら楽しかったのだけれど、そのとき初めて、ちょっとだけ違う感情をもった気がする。

乾いてキャップに固まってしまった醤油をポロポロとこそげ落としながら、そうか、ひとりで暮らすってこういうことなんだな、と思った。

* * *

ひとり暮らしも続けば調味料も小ぶりのものを選ぶようになり、最初は使いきれずにだめにしてしまった野菜も、バラ売りや1/2サイズ、1/4サイズを選ぶことでだんだんとうまく使えるようになっていった。

それはわたしが自分の「暮らしの大きさ」をようやく理解して、それに自分を適合させていく作業でもあった。

もちろん当時は、まるごとの白菜なんて目もくれなかった。

そもそもひとり用の冷蔵庫はおもちゃみたいに小さくて、まるごとの白菜なんて入れたらそれだけで定員オーバー、他の何も入りやしない。

別に買うこと自体はできるけれど、その後間違いなく一週間は、来る日も来る日も白菜だけを、必死に食べ続けることになるだろう。

まるごとの白菜は、そのころの私にとって選択肢にすら入らなかった。

違う世界を生きていた。

* * *

時が過ぎ、スーパーでまるごとの白菜を手にとるとき、だからわたしはいつもちょっと不思議な気持ちに包まれる。

ああ、君を、わたしが自分の意志で手にとる日がやってくるとはね。

ずしり。ひとりではとても消費しきれないそのカサと重量を腕に感じて、いまわたしは、これを消費してくれる家族がいるのだなあと思う。

まるごとの白菜は、また、わたしと近い世界の住人になった。

* * *

静かに思いを馳せると、台所の床に新聞紙を大きく広げて、まるごとの白菜の根元に包丁を入れ、そこから手でばりばりっと分けて、ラップにくるんでいた母の姿がぼんやりと目に浮かぶ。

今でも母は、そんな光景を繰り広げているだろうか。いや、父と2人暮らしの日々では、母ももう、まるごとの白菜をあまり買わないのかもしれない。1/4とか、せいぜい1/2サイズを買うのかな。

でもきっと、わたしたち家族や兄家族が遊びに行けば、そのときは迷いなく、まるごとの白菜を買うんだろう。まるごとなんてひさしぶりね、と、ちょっとわくわくしたりもするだろうか。

消費される量が多いということは、その料理を囲んで集うひとびとが多いということ。まるごとの白菜は、わたしにとって家族のだんらんの象徴でもあるのだろう。

なかなかフラッと遊びにゆくことはかなわない飛行機の距離だけれど、国内なんだから、言いわけせずにもっと遊びにいけるようになりたいな。

まるごとの白菜の根元に、「サクッ」と第一刀を入れるときの豪快さを、その先にある家族の笑顔を、母にもまだまだ感じていてほしい。

白菜のおいしい季節に、娘は自分の子に翻弄されながらも、時折そんなことを思っている。


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