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読書することは夢をみること

『プラットフォーム』。2周目の読書。僕は過去に読んだ本をあまり読み返さない。

読み返したいなとは思うんだけど。実際読み返すことはまれ。

とは言っても最近は2冊立て続けに再読している。『プラットフォーム』と宮本輝『錦繍』。『プラットフォーム』の再読はタイ旅行が契機になっている。宮本輝『錦繍』は草津旅行が契機になっている(『錦繍』の冒頭で描かれるのは蔵王。僕は蔵王旅行をするつもりだった。しかし、急遽行き先は草津に変更になった)。

小説のなかで描かれている場所。読者がそこに訪れたことがない場合、地名はただの記号になる。読者は、筆者の描写だけを頼りに、行ったこともない街の風景を思い浮かべる。そう考えると、小説を読むという行為はひじょうに奥深い。脳内でどのような処理がおこなわれているのだろう。どうして私たちは行ったことも見たこともない場所をイメージすることができるのだろう。

それは夢をみることと限りなく近いのかもしれない。没頭して小説を読むことは、起きながら夢をみることとよく似ているのかもしれない。



僕が小説(物語)を書こうとするとき、プロットはつくらない。でもプロットがないわけではない。頭のなかに物語がしまわれている。だいたいの展開が、だいたいのかたちで、保存されてある。

でも、あらゆる記憶が失われる前提にあるのと同様に、頭のなかに保存されているプロットもまた、忘却の窮地に立たされている。そのとき、僕は次のような光景を思い浮かべる。

断崖に立たされているプロット(物語の断片)の数々。彼らはなんらかの理由で座ることが許されていない。身を寄り掛けるためのなにかも、付近には存在しない。彼らは立つことを余儀なくされている。

やがて体力のないプロットからふらふらと揺れ始める。立ち続けていることに耐えられなくなった者は断崖の下に吸い込まれていく。音もなく。風もなく。



今朝は珍しく、夢を憶えていた。僕は寝室で眠っていた。すると、寝室の扉が開いて、何者かが僕のベッドに近づいてくる。僕は目をつむったまま。

恐怖に怯えているためではない。僕の眠りはとても深かった。僕はへとへとに疲れきっていた。なぜか。

だから、いったん眠りが浅くなって、扉が開く音と床が軋む音を聞いてもまぶたは閉じたままだった。

自分の身に、もしかすると危険が及ぶかもしれない。そのことは感知していた。だけれども僕のまぶたは開かなかった。



あるいは、それは夢ではなかったのかもしれない。

夢じゃなかったとしたら、それは現実だったのかもしれない。もしも、夢でも現実でもないとしたら、それはいったいなんだろう?



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