音楽の花嫁_表紙

【長編小説】音楽の花嫁 15/19


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遠くからいろんな声が混じり合った、声ともつかない何かが聞こえて来た。それは技師のいた部屋で聞いたマルタの声にも似ていたが、声と言うより悲しみや絶望そのものに近い、素手で心臓に触れてくるような何かだった。バイタの棺の中身よりもっとひどいものを見るだろうという予感が走ったが、足を止めることは出来なかった。
 遠目に見るとボウリングのピンのように、頭部と下部の間にくびれがある肌色の物体がいくつも並べられているようだった。近付くにつれてそれはやはり人間だということが分かった。ただし、腕も脚ももがれ、髪も剃られ、裸で転がされ、それが何十体も延々と続いていた。涙が、この光景を見るのを拒否するようにびしゃびしゃと溢れて視界をぼやかした。あまりのむごさに歯や全身の骨が震えだし、まるで身体から逃げ出そうとしているようだった。どれも等しく棒のように痩せて髪も無いので性別さえすぐには分からない。しかし薄い乳房と、穴の空いたような虚ろな表情から、分かった。彼女らはマルタだ。オーケストラ軍の受付にいた女性の声が蘇る――髪は弦楽器の弓に、舌は木管楽器のリードに、全て絞り取られた後は腕と脚の筋を弦に張る。マルタと呼ばれている意味がやっと分かった。四肢を奪われ横たわる今の彼女らは確かに丸太そのものだった。
 そこへ私の背後から、荒っぽい男達の声がした。おそらく初めに出会った車座の男達が、どたどたとやって来るようだった。私はとっさに身を隠した。男達は雄叫びのように声を張り上げながらマルタ達に群がり、好きなものを見つくろい、めいめい跨った。男達は丸太の頬を引っ叩いたり首を絞めたりしながら
「もっと声を出せ!」
と罵り始めた。骨と皮だけで殆ど無い乳房を揉みしだき、そして、犯していた。
 怒りがかまいたちのように身体中の臓器を切り裂いて私をぼろぼろにしていった。舌も抜かれ、意識も奪われ、最後までこんなことをさせられるのだ、マルタは。男達の上げる絶叫がマルタのおぼろげな呻き声と重なり、最悪の音楽を奏でていた。先ほど聞いたのはこれだったのかもしれない。
 既に溶けかかっていた男達のいくつかは、咆哮を上げた後銃撃を受けたように女の腹の上に倒れ込むとそのまま溶け切り、まるで毛布のようにマルタに覆いかぶさって死んでいった。身体が溶けて死が近付いてもなお、こんな醜い欲望を満たそうと暴力的な行為にのぞむものなのだろうか。こんなむごたらしい音楽でも、最後に聞けて満足出来たのだろうか。まだ溶けていない男達は再び雄叫びを上げながら帰っていった。また来るかもしれない。
 こんな、こんな救いの無い場所で一番好きなものなんて見つけられるのだろうか。腐りかけの棺を背負って、どうすればいいのだろうか。涙を浴びた顔のまま、誰もいなくなったことを確認して出て行き、弔うようにマルタの顔をひとつひとつ見ていった。しかし勿論、一番好きなものの手がかりさえ見つからなかった。
 先ほどとは違う男達が別の方向からやって来たのを感じ、再び私は身を隠した。何人組かでやって来た男達はオケで死体を運んでいた男達と同じ作業着姿で、皆で浴槽ほどに大きな鍋を担いでいた。既に男の体液で汚れたマルタを適当に選び、首根っこを乱暴に掴んでは、鍋に放り込んでいく。そして手際良く木を組み火を起こし薪をくべ、鍋を火にかけた。
 手も無く脚も無く、舌を抜かれ言葉も喋れないマルタに出来るのはただ一つ呻き声を上げることだけだった。
「ジャンクだけど、音楽っちゃ音楽だろ」
「残りかすにしてはよく鳴るなあ」
「しかしあいつら、マルタとやるなんて、おかしいだろ」
「苛めたい気持ちは分かるけどな」
「ああ、娑婆に戻れば、手足のある女抱けるのに」
「無理だろ」
「まさか、運んで来ただけなのに、踊り食いされるとはなあ」
「災難だよなあ」
 そう話しながら男達はめいめい好きな体勢で快楽を味わっていた。
 まるで腹の底が抜けたように、虚無が私の胴体を吹き抜けた。猛烈な疲れを感じてその場にへたり込んだ。もう全てを絞り取られたマルタから更に音楽を絞り取っている。そこまでして快楽を貪りたいのか。いや、男達も絶望の中でこうもしないと気が狂ってしまうのかもしれない。男達も、果ての無い苦しみの中にいるのだ。本当に救いがたい憎しみの輪廻しか無い、どうやってここで「好き」という感情を見つけろというのだ。
 まるで阿片窟のように肢体をだらけさせて自慰にふける作業着の男達のポケットからむくむくした生き物が顔を覗かせているのに気付いた。子犬だろうか。あの、死体運びの手伝いをしていた犬を思い出した。これからあれに仕立て上げるのかもしれない。大きな黒目がこちらを見ている。目が合うと犬はポケットから滑り出て来て、よちよちと一心にこちらへ歩いてきた。男達は自分のことに夢中で気付かない。私は両手を差し延べて、子犬を抱きとめた。その時、女王の腹の中に来て、いや、この世界に来て初めてと言って良いくらい、胸の中に陽だまりが出来て一面花が咲き乱れるような幸福な気持ちを感じたのだった。この甘い匂いがする、温かくてむくむくした生き物は、私の胸にぴったりとくっついて、もう離れる気など無いといった様子だった。寝床に辿り着いたように安心しているように見えた。きっと今お互いにものすごく幸せだろう。
「よしよし、辛かったね」
 それは犬に言っているのか自分に言っているのか分からなかった。もう泣き尽くしていたのに、また別な種類の涙が出て来て、犬に舐められた。舌の感触は優しく、まるで子供の頃大人に頭を撫でられた時のような安堵を感じ、はっとした、これがネムルの言う「一番好きなもの」なんじゃないだろうか。そう、子犬と見つめ合っていた時から気付いていた、この犬はネムルに似ている。黒目がビー玉のようにまんまるで、まっ黒なのだ。
「ネムル?」
 私が子犬に呼び掛けると犬はぷいと横を向いて、それがまた「知ーらないっ」と言っているようでネムルっぽかった。そう思うと今まで見てきたネムルの様々な仕草や表情が思い浮かんで来て私を苦しめた。切なかった。なんで離れてしまったのだろうと思った。そう、ただ子犬のように私の頭を撫でてくれれば良かった。
「ネムル……私本当は……」
『それでいいのね?』
 棺から声がした。
 うん、いい、と心の中で唱えると、棺が開く音が内臓に響いた。腕の中の子犬はどんどん大きくなって、私が抱きかかえられなくなり手を離すと、眩い光を放ちながら私と同じくらいの背丈に膨らんでいった。そしていつのまにか、ネムルの姿となった。
「会いたかった……」
 感極まって私がネムルに飛びつこうとすると、何かが立ちはだかった。香水と腐臭と化粧品が混じった匂いが鼻を殴った。強烈なめまいと嘔吐感でくらくらする。
「出てこないで!」
 それが分身だと分かった瞬間、そう叫ばずにはいられなかった。あの女神のような凍りつくほどの美しさは面影も無かった。崩れかけた頬の肉を繕うためにこってり塗った白粉は醜くひび割れて象の皮膚のようだった。自然な血の赤みが失せた代わりに塗った頬紅と口紅はぼってりとわざとらしく、皺だらけの口元をかえってあさましく強調している。オーロラ色のドレスは裾が破け、胸元もしどけなく開いて赤黒い爛れた肌を自慢げに見せびらかしていた。それでにやにやとネムルに近付きながら、腰をくねらせ、髪を掻き上げ、今にも首元に齧りつこうとしている。
「しまって! 帰って!」
 分身に体当たりをしてもびくともせず、
『あら、帰っても何も、これこそあなたじゃない』
 相変わらずの自信満々な様子で言い放たれた。
「違う、私は、こんな風に思ってない、私はネムルを……」
 今すぐ分身を引きずり倒してネムルの目から隠したかった。全身の血が沸騰するような恥ずかしさで皮膚がびりびりと粟立つ。必死で分身とネムルの間に立ちはだかっていると、
「まー、木製の娘には興味無いやごめん」
 光り輝くネムルはそう言った。そしてそのまま顔だけが紺野に変わり
「お前になんか毛ほどの興味も無いわ、ごめん」
と言った。
「ああ」
 私は崩れ落ちた。恥ずかしさが私のエネルギーを全て吸い取って、このまま干からびてしまえばいいのにと思った。取り返しのつかないことをしてしまった。
『結局あなたは誰より自分が大事なんだよ』
 分身は勝ち誇るような口調でそう言い、棺の中に戻っていった。再び光に包まれ、紺野だったものは犬に戻っていった。しかし子犬ではなく立派な成犬で、
「ワンワン!」
とたくましい吠え声を上げた。
「お願い、黙って」
 青ざめながら犬の口を塞ごうとすると食いちぎる勢いで歯を剥かれ、手を引っ込めるしか無かった。子犬の時の面影も無い。
「何だ、何だ」
 事を終えて茫然としていた作業着の男達が吠え声で我に返り、こちらに寄って来る。
「あ、女がいるぞ!」
「ちょっと棺腐ってるけど」
「でも手足あるじゃん」
 いつの間にかあの車座の男達も戻って来ていた。
「お嬢ちゃん、こんなところにいたのか」
「出し惜しみするから」
「棺が腐って」
「こんな有り様」
「これはもうまさに」
「犬も食わないってわけさ」
 男達の下卑た笑いが沸いた。
「人形使いの成れの果て」
「ただの年増の売れ残り」
「これはもう」
「本体を」
「普通に」
「頂くしか」
 男達の何十個もの目が、コンコルドの羽根の灯に照らし出されてぬらぬらと光っていた。先ほどマルタを犯した男達なのだ。逃げろ、逃げろ、と足に命令するのにまるで釘で打ちつけられたようにその場から動けない。作業着の男達が裏返した巨大な鍋を持って襲いかかって来た。鍋の底にガンと頭を打たれ、崩れ落ちた私はそのまま裏返した鍋に閉じ込められてしまった。鍋の中は暗く、濃い鉄の匂いがした、いや、自分の血の匂いかもしれない。頭がぐわんぐわんと揺れて、緩くなった脳みそが滑り出そうだ。頭部を触るとうっすら血が滲んでいた。朦朧とする頭に、くぐもった男達の喧騒が聞こえて来た。
「捕まえたのは俺達だ」
「見つけたのは俺だ」
「いや、俺の犬が見つけたんだ」
「分かった、じゃあ順番でやろう」
「俺が先だ」
「いや、俺」
 どうやら私を犯す順番で揉めているようだった。鍋を介してだからか、あるいは私の頭がおかしくなっているのか、幾つもの男達の怒鳴り合う声は混じり合い、くぐもって、なんだか子守唄のように安らかに聞こえた。瞼が重くなってきてゆっくりと目を閉じる。ぬるぬるした胃の床に身体を横たえた。溶けてしまうかもしれないが構わない。もうここから動きたくない。生まれる前のように静かで、安らかで、温かかった。身体を緩めると、胃は私を受け入れるように私の凹凸に合わせて柔らかくくぼんだ。べったりと胃の床についている耳から、女王の心拍が伝わってきた。ネムルは私とよく似た音だと言っていた。自分の胸に手をあて、自分の心拍を聞きながら、ゆっくりと同調させていく。生まれる前にこんな遊びをしたことがある気がした。つまり、母の胎の中でだ。耳が血で濡れていく。あるいは胃液で溶けているのかもしれない。死期を知った耳の走馬灯だろうか、聞こえるはずの無い声が聞こえてきた。
「成り行きよ、成り行き。結婚も、妊娠も。タイミング。まあ、もうちょっと遊んでたかった気もするけどさあ。仕方無いよね」
 電話で誰かと話す、まだ若い母の声だ。幼い頃、いや、もしかしたらまだ生まれる前に聞いた声かもしれない。成り行き、タイミング。母がよく使う言葉で、私が絶対に使わない言葉だ。母がその言葉を使っているのを聞くたび、私は心の大事な柔らかい部分を少しずつ針で削られるように傷ついていった。母は自分の意思で子供を産んだんじゃないのかと。本当は自分を産みたくなかったんじゃないかと。
「子育てもあるしねえ」
「あの子がもう少し手がかからなくなったらねえ」
 もう少し年をとった母の声だ。また誰かに電話している。いつも又聞きした私を苦しめた言葉だ。電話。電話。そうやって見えない誰かを使って、恩着せがましく見せつけるのだ。子育てのために自分のやりたいことをやれずにいる自分を。ああ、こんなところにいるもんか。こんな女のところなんて抜け出してやる。
 その私の意思を読み取ったように、胃の床は冷たく硬くなり、私の身体を休ませることを拒絶した。望むところだ。
 鍋の上に誰かが乗って重しをしているのは把握していた。コンコルドの羽根を意思を込めて振るとそれはぐんと手ごたえのある重みを返してきた。それはバールに変わっていた。硬くなった胃の床を使い、鍋の縁にバールの先を押し当てて力いっぱい根元を押し下げた。
「うわあ」
と間抜けな声を出して鍋の上に乗っていた男が滑り落ちた。私は鍋から脱出した。そして男達の前に姿をさらけ出し、自分を見つめる全ての目を射抜こうとする勢いで睨み返した。
「出て来て」
 私は棺へ向かって唱えた。
『腐ってるよ?』
「構わない」
 棺が開き、分身が出て来た。
 それは先ほどとは見違える姿だった。化粧は全て剥がれ落ち、腐った頬の肉もそのまま露出していたが、ぎらぎらと光る瞳はオケの男達を全て倒した時と変わらない輝きを持っていた。今が一番、本当の私の顔に一番似ている気がした。オーロラ色のドレスは朽ちたように色が失せ、未開の地の部族が纏う布のようにぼろぼろだったがかえって簡素な力強さを感じた。肌は土色で、仁王立ちでそびえるその姿はまるで昔から生えている大樹のように揺るぎなかった。
「これからあなた方の望みをかなえます」
 私は押し寄せる男達全てに聞こえるように声を張り上げた。分身は一歩前へ進み出て、宣告するように言った。
『死にたいんでしょう? 音楽で』
 そして、歌を歌った。
 それは子守唄の逆の歌であるはずだった。育てるのではなく、殺す。しかしもしかしたらその間に大した違いは無いのかもしれない。分身の歌声は愛に満ちていると私は思った。愛、自分でも不用心にそんな言葉を持ち出していると思ったが、先ほどけばけばしく飾り立ててネムルを求めていた分身より今の方がずっと愛に満ちて、そして、美しいと思った。あの、ジョージと呼ばれた子供の元にいた母親が、呪いのように私に投げた言葉。「誰にも愛してもらえなくなるのよ」。そう、その通りなのだ。誰もこんな、大衆の目に晒されて汚れきった分身なんて引き取ろうとはしないだろう。でもこうやって歌を求める幾多の目がある。それは私を見ているようで、見ていなく、実は私の分身を見ている。ぎらつく欲望で光りながら。私のことは誰も見ていない。それはなんて気持ちの良いことなんだろう。ああ、どうせ人を愛せない娘だと言われて来たのだ。そう、どう思われてもいいのだ。どう思われてもいいと思うことは何て自由なんだろう。
 走馬灯のように思いが駆け巡り、全人生を過去にぶっ飛ばしたような爽快さが身体を突き抜けた。長い間考え事をしていた気がしたけれど、ほんの数秒だったようだ。男達は風になびくススキの群れのように、分身に近いところから順に静かに仰向けに倒れていった。何十人もいた男達が一人残らず胃液にさらわれ、ポタージュのようにとろけながらどこかへ行ってしまった。

唖然とする暇も無く、胃の床がまるで地震のように激しく波打ち出した。そして怒り狂った女王の声が降って来た。
「私の中で歌を歌うとは、不謹慎だね! 勝手はさせないよ」
 私が来た道から津波のように大量の胃液が押し寄せ、あっという間に私と分身に浴びせかかった。分身はところどころぼたぼたと溶け、無事だった皮膚にも月の表面のような醜い凸凹が浮かび上がってしまった。
 その胃液の波に乗って来たのか、はじめの車座になっていた男達のうち既に身体が崩れてまともに歩けない者達までがこの場に流れ着いてきた。
「どうか、私らにも、歌を、音楽を」
 分身の前にひざまづき、指の欠けた手を組んで祈る姿勢でそう言うのだった。
 分身はおもむろに頷き、今度は讃美歌のような歌を歌い始めた。
「ああ、ああ」
と呻き声をあげる男達は徐々に身体の色が薄くなり、蒸発するかのように空気に溶けていなくなってしまった。まるで天に召されるようだった。
「小癪な奴だね!」
 再び女王の声が降りかかり、激震と共に胃液が押し寄せた。分身は更に溶け、もはや骨の上にあやうく乗っているだけの崩れかけの肉はひと撫でしたら滑り落ちてしまいそうだった。悲しくて見ていられなかった。
 そしてまた、胃液の流れに乗ってもっと消化の進んだ男達――あのヘドロのように混じり合った物体――がやって来て、どこにあるかも分からない口で「オンガク、オンガク」とうわ言のごとく繰り返すのだった。
『どうやら女王が狙っているのは私だけのようね』
 淡々とした口調で分身は言った。確かにその通りだった。女の踊り食いは消化が悪いのかなんだか知らないが、私は胃液を受けてもびくともせず、分身だけが痛んでいた。喋りながらも分身の口の端から、かつて頬の肉だったものが滑り落ちて行く。もう見ていられなかった。
「ねえ、もう棺の中に隠れててよ。あとは私がやるから」
『何を言ってるの? 私を求めているのよ、皆』
「でも」
『忘れた? ネムルは棺を使えって言ってたじゃない』
「それは、『うまく』使え、でしょ。だから今は隠れてて、ここぞと言う時に出て来てくれた方が」
『大丈夫、その時はその時』
 分身は何かを知っているかのように微笑んだ。そしてずるずると近付いてくるヘドロ状の男達の元へ歩み寄り、もはやボロ切れと化して申し訳程度に纏わりついているだけになっていたドレスを勢いよくむしり取った。ドレスに守られていた二つの乳房と腰は、まだ白く輝く皮膚を保っていた。
「ホオ」
「メガミ、メガミ」
 ため息とともに言い立てる幾つもの口への返答するように、分身は再び歌った。それはレクイエムのように思われた。まるで全身で涙を流すように、どろどろのヘドロ状の物体は色が薄まり粘度も低くなっていき、最後はさらさらの透明な水へと変化し、どこかへ流れ去ってしまった。
 今度は速かった。危機を察知し棺へ分身を匿おうと構えていたのにそんな暇も無かった。まるで大砲で撃ったように分身の横っ腹を胃液が打ちつけた。私は咄嗟に分身を抱き締めたが、私の腕の中でみるみるうちに分身が細くなっていくのが分かった。分身の身体だったもので私の身体がべとべとになった。このまま、私は、かつて私の分身だったものがいたという証拠さえ手に握っていることが出来ずに、ただ一人、暗い胃の底に取り残されてしまうのではないかと思った。それは嫌だ。私の身体の全ての細胞が全員一致でそう叫んだ。そう、分身無しで生きるなんて、身体を半分もがれて生きるようなものだ。私の色、私の音楽、私の生命だ。でも、だったらどうする。絶対に失いたくないものを失わずにいるにはどうしたら良い。私は知っていた。簡単だ。
「そうでしょう、お母さん?」
 弱りゆく分身を抱く腕に力を込めると、ぱきぱきと骨が割れる音がした。あごが壊れるほど大きく口を開けて、息を止めた。そして手の中で骨を砕きながら、分身を口の中に押し込んでいく。
 分身のあげる断末魔は、ネムルの音楽で使われる女の叫びに似ていると思った。嫌悪と自責が耳を襲いかかり、まるで何羽もの鳥が寄ってたかって尖った嘴で鼓膜を突き刺すようだった。喉も、鼻も、舌も、これは人間の食べるものではないと拒絶反応を示している。でも私の身体中の細胞は分身を欲していた。だから私は生理的反応を押し切って分身の足の先まで食い尽くした。
 一体食ったのは自分なのか、食われたのは誰なのか、自分は誰の中にいるのか分からなかった。
「ああ」
 腹の底から声が聞こえてきた。それは自分が出した声なのか、それとも私の身体を乗っ取った分身の声なのか分からなかった。
「ああ」
 呼応するように私の声を重ねた。はじめ二つに聞こえていた、微妙に音程の違ったAの音はやがて完全にピッチが調和し、どうやっても二つに分けられない、完全に同一の音となった。
「大丈夫?」
 私は囁いた。
『大丈夫、今も生きてる』
 横隔膜の下、腹の一番柔らかく奥まったところから声が響いてきた。全ての細胞が熱狂とともに新しい客を迎えていた。胃の壁は喜び、消化液を沢山出して一刻も早くこの新しい客を全身に行き渡らせようと消化にいそしんでいた。今、おのおのの臓器の様子が手に取るように分かる。めいめいが喜びの歌を歌っていた。全身がひとつのオーケストラのようだった。
「棺を上手く使うんだっけ? ネムル、これで良かったの?」
 コンコルドの羽根に話しかけたが返事は無かった。ネムルのことを久々に考えた気がした。ネムルのギターを聴きたいと思った。そして、この、新しい私の身体が出す声と合わせてみたいと思った。それは突如感じた空腹のように、自覚した途端いてもたってもいられなくなる類の欲望だった。あの時、醜く飾り立てた分身を見せつけネムルに拒絶されてしまったけれど、今ならうまくやれるという確信があった。
 女王が私の業深い行為に絶句したかのように、あたりを静けさが支配していた。
「お母さんだって同じことをしたくせに」
 母は私のことを憎くて憎くて仕方無かったから食ったのだろうか、それとも愛して愛して仕方無かったから食ったのだろうか、でもどっちも同じようなことだろうと思った。


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