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記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
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月ノ美兎と"Death and All his friends" ーー人生が「ただの暇つぶし」で、全ては滅びるのだとして

人格があり、内面がある。それはどのVtuberも同じなのだが、彼女たち(月ノ美兎と樋口楓)にまつわるファンの言動(創作物よりも、むしろ言動である)については、現実における人物とファンの関係、マナーになぞらえた議論が特に目立つものだった。                                          内面があるとは、誰にも強制のできない、決める権利などない「謎」を心に持つということでもある。                                 泉信行「にじさんじ公式ライバーたちの実質的現実(バーチャルライブ)」より


逆に言えば、ミスターチルドレンの「しるし」の歌詞にもあるように、北村透谷のような日本の文学者が語ってきたように、内面という謎を持つことは、目の前にいる相手のことを全てわかるはずがないということである。

それがVtuberであろうとも、人間であろうとも。



始めに すきなことだけでいいです? ~「死」編~に代えて

飢えた子の前に文学は無力だといったサルトルに対して、リカルドゥはその悲惨を知って同情する想像力、何とかすべきと考える判断力を養う文化の一翼を文学が担っていると主張しました。                  読書猿『「文学なんて役に立たない」という人が知らない世界の本質』

この記事は、すきなことだけでいいです?~「愛」編~の次に続くものです。この「愛」編の冒頭では、心理学のレベルで「死」についての話をしています。ここから先に書くことはその先、かなり価値観に関わるものを含みますことをご了承ください。また、ネタバレ配慮なし、です。

あと、100000000億が1、委員長が見ていたら、どうか心が落ち着いている時に読んでくださいませ。ご無理は、なさらずに。


ユリイカの記事を半年以上前に買った時に、感じていたのは……この本が良くも悪くも「時間性」がない印象だった。確かに、Vtuberの技術や、そこにいるキズナアイさんや電脳少女シロさん、初期にじさんじのメンバーは人間的に素晴らしい人たちだったし、これから始まる新しい技術革新への希望が満ち溢れていた

今振り返ると、それは当時、ニコニコ動画の発表会が関係者もみんな失望するような出来になり、いよいよ日本のある、ネットカルチャーが終わるようなことを感じた人たちが、新しい居場所を求める祈り、も込められていたのかもしれない。

そんな中に現れたのが月ノ美兎委員長だった。ニコニコ動画が、画質などのアップデートに大失敗し、ニコ動が終わったと言われた後、のことだった。


デヴィッド・ケイジ ゲームには特別な性質があります。ゲームは、最終的な経験が、作者とプレイヤーの共同作業の結果である唯一の媒体なのです。観客が映画を見るとき、映画はすでにつくられています。見ることはできますが、変更することはできません。けれども、ゲーム、すなわちインタラクティブな物語は、作者とプレイヤーが一緒につくるものです。プレイヤーの物語がどんなものになるか作者にはわからない。それはプレイヤーの選択に基づいているからです。たしかに、わたしたち作者は「なにか」をつくりだします。けれども、わたしたちはそれをもとに、何千人、何百万人もの人々、わたしは彼らを知らないし彼らもわたしを知らない、そのような人々とともになにかをつくりだし、共有する。これはじつに驚くべきことです。見ず知らずの何百万人とともに、ひとつのものを創造すること。それはゲームという媒体だけが提供できることです。

デヴィッド・ケイジさんは、デトロイトの開発者である。

実は私自身はこれからギャルゲーの話をまとめようと考えていた。ギャルゲーは色々な可能世界(ここでこの選択を行ったから、こういう風に世界は動いた)を体感させることで、世界の認識を新たにさせる効果があった。このあるVtuberの持つある種の「ゲーム的な側面」は、黛灰くんが体現したものだった。

それ以前に、にじさんじの活動の多くはゲーム実況で成り立っているため、その前提となるゲームについては何か書けないかなー、勉強のためにまとめたいなーと思っていた(特にエクス君あたり)

ただ、その時に避けて通れないのが月ノ美兎委員長と「死」の話だった。月ノ委員長は、おそらくにじさんじで最もギャルゲー、あるいは選択肢で進むゲームをやっている人である。

ギャルゲーや、選択肢式ADVは自分がとることができる可能性を選択する。時間は基本的に単線的に進むが、ループ物や2周目、3周目繰り返すゲームプレイでは、プレイヤーはありえたかもしれない世界線を何回も見ることがある。ここに新しい文学の可能性があるのではないか?と考えた人たちがいた。これは気が向いた時にまた書くかもしれない。(委員長の占いの途中が、完全にアイマスの「お前がさんばかのプロデューサーになるんだよ!!!」的状態なのには笑っちゃった)

そして、「死」について書いておきたいのには、ひとつ理由がある。



バーチャルユーチューバー界では、「Vtuberの死とは何か?」という問いが繰り返し問われてきた。ひとつひとつの考察は本当に重要なものであるし、何より、百物語や黛灰の物語は、Vtuber側からのファンへの挑戦状ともとれる内容になっていた。



しかし、ちょっと立ち止まって考えてみてほしい。Vtuberの死を語る前に、そもそも人類の歴史を振り返ると、「死」というのはそれ自体が、人間という存在を考える上でいまだ解けていない謎である。

そして、割と生々しい話をすれば…Vtuberは中に人がいる存在である。そして、いくらメタバースなどかっこいい話題が出てこようとも、今のところ人間やVtuberのファンやVtuberご本人は不老不死じゃない

一回性の死はやってくる。実際、Vtuberの方や、にじさんじのファンの中にも亡くなった方はいらっしゃった。

だから、まず始める必要があるのは、これまで人間が「死」に対してどのように対してきたのか、あるいは「死」についてどのような物語を紡いできたのかのおおまかな整理である。そのうえで、もちろん、統一的な答えなどはありえないけれども、Vtuberの死について語ると、見えてくるものがあるかもしれない。


幽霊や妖怪は、死の世界と生の世界の間にある存在として語られることも多い。失敗をしたら全てを妖怪のせいにするのも、理解が出来ないことを説明して物語り、不安を避けるひとつのやり方だった。


これは、ただの「わかったつもり」の文章である。というよりも、「死」に対して本当に全てを分かるのは、生きている人間である以上難しいし、私にもわかるわけがない。一種の知識の「おすそわけ」にすぎない。その限界の上で、ここにざっくりまとめる。


洋楽の世界を知っていれば、神や死について考えることが普通に行われているのがわかるだろう。Beach Boysの"God Only Knows"は、ご存じハルヒのあの曲や、神のみぞ知るセカイの元ネタである。アメリカ大統領も、聖書に手を置いて宣誓を行う。また、ロックミュージックも、そもそもBlack Sabbathが「悪魔崇拝者」と言われたように、反キリスト教的なものとみなされることも往々にしてあった。日本の場合、オウム真理教の事件以後、宗教や死に関して触れることは怖いものとして語られやすい。

ただし、この時代の後には「自分探し」や「自己成長」が盛んにもてはやされるようになることも注目したい。


Virtual Insanityという曲では、「肌や皮膚の色もあっさり変えられるなんて自然なこと(Nature Way)じゃない!」という叫びが入っている。この曲は、札幌の地下鉄をみたJが思いついたもの。バーチャルに対する警戒心は、生の形が変わるところから始まっていた。ただJの場合、どこかその状況を楽しんでいる雰囲気もある


にじさんじライバーの死生観については、何故かリゼ様がデッキを繰り出している


宗教にまつわる事柄は、どうしても危険なカルト宗教が想起されたりするだろう。ただし、特に海外に渡航する際などは、むしろ宗教の一般的な知識は知っておかないと身に危険が迫ることすらある。これに関しては以前、文章にまとめている。なるべく大学の専門機関などの情報を中心に、探しておくことをお勧めはする。また、古いマンガ作品を読むときは、むしろキリスト教やユダヤ教など、各宗教の背景がわからないと、何を言っているかわからないこともある。



noteにも、死生観についての色々な人の想いが綴られている





推しの推しを追った時に ーーサブカルチャーとエログロナンセンスと不条理の世界


月ノ美兎が私の推しかどうかは秘密というか、他のひとに判断していただくとして、基本的に気になるアーティストが現れた時、私はわざと「その人の作品を全部見る前に、その人が影響を受けた作品を見に行く」ようにしている。これは大瀧詠一の系譜学のやり方を参考にしているが、そうしないと、あまりに「その人のファン」になりすぎるのである。

その人のファンになることが悪いわけではない。ただ、その人に目線を向けすぎると、盲目になりすぎることがありえる。そして、クリエイター志望がある人には、私は少なくとも一度、そういう歴史的な目線を入れることで、ほんの少し、その盲目さをやわらげるクセをつけている。

そうでないと、ちょっと申しわけない気持ちになるからだ。

wikiやリンクをざっくり拾ってみた結果が以下の通りである。


最初のあたりの数作を除けば、私が見たことがあるのも半分程度あって、すさまじくドロドロである。というか、最初表で見ている委員長の印象とズレすぎていて、まじ困惑したんよ。しかもJKがみちゃあかんはずのものも大量流入しとるし。私は対抗してBlack-Cyc(検索注意)とか、妖怪ハンターとかの話した方がいいんだろうか。

こうしたタイプの映画や演劇は、ネタバレを避ける意味であえてざっくり大枠で言えば「悲劇」、特に不条理ものと呼ばれそうなものが多かった。あとクズ出現率が異常に高い。めっちゃ人も死ぬ。

不条理ものでは、条理ではない、つまり、普通の常識の枠ではありえない、主人公たちでは避けられない悲劇や災厄が次々と襲ってきて、理性が正常に働かない時に、人間の本性が出てくる物語である。この悲劇性を逆向きにもっていくと、不条理ギャグ(赤塚不二夫など)になる。




そして、この並びを見て、これを好みにあげる人が、何等かの死生観について考えていることを想定するのは……おそらく変なことではあるまい。

フランスの小説家、哲学者、アルベール・カミュは「不条理」について考え続けた作家として知られている。第二次世界大戦に際し、ナチスドイツに占領されるパリの様子を見ながら『異邦人』『ペスト』と言った、運命に翻弄される人間の様子を描いた作品を書き続けた。

ポイントは、人間は全ての物事をわかりやすく理解したい「理性」と、それに対立する世界の「不合理」にいつも引き裂かれているということである。世界は一つの原理で理解することが難しい。(故に、なかなか簡単な要約がしにくい物語ばかりだ)

人間が明確な理性や判断能力を持ったまま、世界を見つめるとその世界は「不合理」なものとして映るだろう。不倫、嫉妬、才能……生きることを選べば、そこにはまた別の地獄が広がっている。

その不合理な世界に対して目を背けずに立ち向かい続ける姿勢を、カミュは「反抗」と呼んだ。いわゆる逆張りである。



そういえば、私の文学の友達が言っていたことがある。

もしも、ドフトエフスキーのような悪趣味や不条理の作品を好きな人がいるなら、ちょっとだけ警戒しなさい。もしかすると、そういう人の悲劇を笑う嫌な人かもしれないから。

でも、その人がもし、本気で人を救いたがっているような優しい子ならば、その子を大事にしなさい。

その人は、どんな残酷な現実でも、現実がその映画や小説のように見えたときでも、目に焼き付け、乗り越える大きなこころを持っているから。



ちなみに、タレントのセイン・カミュさんは、アルベール・カミュの遠い親戚にあたる


カミュの『ペスト』は、このコロナ禍にあって再び読み直されることになった作品である。Vtuberは、ネットカルチャーの終焉が語られ、京アニの事件があり、コロナ禍で人と人の繋がりが途切れ、SNSで皆が噂話を気にしている、そんな時代にVtuberの文化は生まれている。


noteでカミュを検索するとなんと一番上に出て来たのはシャニマスの記事だった。やはりアイマスは文学である




耽美主義とエロ・グロ・ナンセンス ーー日本のサブカルチャーの基底にあるもの?


にじさんじファンと話していた時に、「そもそもなぜ委員長は『ムカデ人間』とかいうえげつない映画の話をして、サブカルクソムカデとか言われて人気が出たんだ…?(今なら考えられない)」という疑問の声が上がっていた。

日本には、昭和期より「耽美派」と呼ばれる、反社会主義的、反進歩主義的で退廃的なものに惹かれる芸術の一派が存在している。日本だと「エロ・グロ・ナンセンス」を江戸川乱歩や夢野久作のような探偵小説家、永井荷風や谷崎潤一郎のような性愛をテーマに書く作家があたるとされている。

これらの作家は、今でこそ、その小説の価値を認められているが、その悪趣味で退廃的な様子から、検閲にあうことも少なくなかった。こうしたアンダーカルチャーの素地は、戦後のサブカルチャーにも続いている。


オタクくんたちの見た夢 ーー自分の加害者性と世間のつれなさと向き合うこと


人間である以上、生きる時には生き物を殺し、人と競争し、種の保存の欲求に抗えない。しかし、人間は美しい世界を求めてしまう。これも一つの「不条理」である。

現実を生きることを選んだとしても、そこにあるのは地獄のような現実である。以前の記事では、本田透やNHKにようこそ!を引用して、「あえて二次元に徹底的に引きこもることによって、他者を付き合わずに、人を傷つけない」という思想を紹介した。私は、この思想のある部分までは、京アニの作ってきたアニメにもその空気感が伝わっているように見える。


一方で絶望先生は、一話目でいきなり首つりをしようとするが、無理やりおろされる。仮死状態にある者だけが見える世界の話だった。

半分死にかけている糸色望が見た世界では、本物とパロディの境目もなく、ラジオと視聴者の境目もなかった。ヤフーニュースも、マガジンとサンデーの対立も全てがネタになっていた。本物と偽物、生きているものと死んでいるものの境目が無い場所。

そういえばマンガや本は、自分の知らない時代のことを覗くことができる場所だった。そして、キャラクターは、線のあつまりにも関わらず、人間よりも時に人間らしく見える存在だった。

絶望先生は、本田透のようなオタクに対して―—若干おせっかいめいたところがあったとしても―—表の世界に出てきてもいいんだぜ」「ちょっとだけ反逆してみようぜ」と囁き続ける物語だった。

なぜこう問い続けるのか?


私達は生まれながらにして、生命に対して業と責任を背負っているの。  他者の可能性を摘み取らずに生きていける人はいないわ。             植物を食べ、動物を食らう。キリストもおシャカ様もそれは同じ、他の生命の上に成り立っている。安易な生命賛美をする前にそういうことに向き合わないと。
だからこそ 私たちはその犠牲になってきた命の分までしっかり生きなくてはいけない。それが生きているものの責任。自分の命は自分だけのものではないのよ。自分の命を支えてきてくれた無数の生命の姿でもあるの。              あなたは好むと好まざるとにかかわらず、もうすでに生命の犠牲の上にある。                                                   だからそのことに感謝して、その犠牲の上にある自分を有効に使いなさい。鬼頭莫宏『ぼくらの(6)』小学館(p58,62 国防軍の田中美純の言葉)

『絶望先生』と『なるたる』『ぼくらの』については、この文章でも書いている。あくまで「作品」なので、この物語がそのまま何らかの思想を示しているとするのには留保はいる。

ただ、鬼頭先生は色々な作品中繰り返し「平等」という言葉の軽さについても疑問を投げかけており、さらに戦いが必要な時間があり得ることも説いている。トロッコ問題のような場面に出くわした時に、エゴから人は自らの好きな人や親密なものを選んでしまう

多くの人は、自らを選ばれた人間だと思ってハッピーエンドを探しに行く。しかし、自らに不幸が訪れた時に「自分は脇役だから」と逃げてしまう。

鬼頭さんは、一方で『ぼくらの』では人間が思わず自分の家族をかばってしまう弱さを持っていることを肯定しながらも、なるべく争いを回避する方向にぎりぎりまで思考をするべきだと述べている

ネタアニメ扱いされやすい2作品だし、正直変なところもいっぱいあるが、そこに浮かぶ運命に翻弄されるだけの姿は、色々な見方ができる。


鬼頭さんの考えはこちらの記事を参考にした。

こうした話に興味がある方は、是非『カタシロ』をご覧ください

ミスターチルドレンのHEROは、大勢の人の生死よりも、脇役になることを選んでしまった人の唄

私が月ノさんの記事を書くときに、星野源について度々言及しているのは、現代の音楽界でも特筆するべきレベルで絶望と死について考え続けている人だからだった



100年ルール ーー100年後にもその悩みは重要か?

読書猿『問題解決大全』の冒頭部には、イギリスの作家サミュエル・ジョンソンの教えを元に「100年ルール」というものを提唱した。自分の身に降りかかった災厄を見た時に「これは100年後にも重大か?」「30年後は?」「5年後は?」と時間を設定して、問題を見返すと、自分が問題にたいして抱えていた不安が、必要以上に大きかったことに気が付くことがある

時に、死や人生全体から問題を見返すことによって、不安や恐怖から距離を取ることができる。炎上や人生、配信の悩みを考える時に使える、スケールを広くとる思考法である。

大きな仕事をやる人の場合、小さな煩わしいことを気に掛ける余裕がなくなることがある。



森山直太朗の「生きとし生ける者へ」の歌詞の最後は「もはや僕は人間じゃない」というひとことでしめられている。自分をふと、違う目線で見て見ることで、死と生が違う相貌を呈してくることがある



水木しげると手塚治虫 ーーマンガの始まりは、生と死の世界からだった

「何百年生きる妖怪にとっては人間の悩みなど問題というに足りない」

これは問題解決大全を執筆した読書猿さんが、水木しげるさんの言葉として思い出したものだった(ただし、本の中では出典が思い出せず、大きく取り上げられてはいない)。

「死後何も持ってゆけないし、自分のカラダだけだ。この世は通過するだけのものだから、あまりきばる必要ないよ」                                                     カランコロン漂泊記:ゲゲゲの先生大いに語る(小学館)

水木しげるさんは、戦争で左腕をなくされた作家だった。生前は多くの戦地での体験をマンガに描いている。特に講談社文庫の『総員玉砕せよ!』では、「誰にみられることもなく ただ忘れ去られるだけ」になった兵士の様子を、生々しい筆致でえがいている。

みえんというからおらんというのが まちがいのもとじゃがナ               水木しげる『のんのんばあとオレ』

『のんのんばあとオレ』には、当時の水木しげるさんが猫や犬の骨を集めてきてしまう変な子だったこと、日常の災難や映画館の経営のような人間社会のいざこざがある一方で、妖怪がいることが当たり前に語られる世界があった。この物語の最後に、水木さんの好きだった美和ちゃんは、神戸の芸者の置屋に売られていった。茂は売人と大喧嘩をするが止めることができない。

売られていく船の上、茂とのんのんばあと美和ちゃんは、美和ちゃんの母親の霊が「神戸にいきなさい」と言った。それが運命だった。

何がつらいといって親しい友を救ってやれないほどつらいことはないんだ                   自分の苦しみなら耐えることもできるが 我慢のしようがないんだからな」    「そげだな」                                              「でもな茂 不幸の中にも幸せの芽はきっとあるはずだよ」            『のんのんばあとオレ』(p395 茂の父の言葉)

美和ちゃんが売られていき、落ち込む茂に、父親は油絵の道具を渡した。のんのんばあは「都会には妖怪の上前をはねるようなおそろしい人間がひしめいているけど、美和ちゃんみたいに妖怪がおとなしくなるほどやさしい子なら大丈夫」と慰めた。(「別れ」)

この物語の事実だけを取り出せば、救いはない。しかし、水木さんはその後、ゲゲゲの鬼太郎を生み出し、戦後の世界に戦争の記憶を語る物語を紡ぎ続けた。

この物語に救いがあるならば、茂の家族が、現実を前にしてなんとか言い訳をするために作り出したり、連れて来た妖怪たちだった。



水木しげると同世代であり、ライバルとして知られていたのが手塚治虫である。手塚治虫もまた、戦争について語ってきた人の一人であった。手塚治虫は、『ブッダ』のように仏教の話をする一方で、彼の興味はロボットや医学のように近代技術が、自然を人間の都合のよい形に変えていく様にもあった。

鉄腕アトムは、科学省長官・天馬博士が交通事故で死んだ息子をよみがえらせるため、科学のすいを集めて作ったロボット。しかし、天馬博士は人間のように成長しないアトムをサーカス団にうっぱらってしまう

人間が生きものの生き死にを自由にしようなんて                                           おこがましいとは思わんかね……………………

ブラックジャックが直面する「死」の現場で起こる出来事は、単純な一患者を診ている時でさえも、その人の人生や社会問題、人類の存在意義とつながっていく。ヤブ医者であるブラックジャックは時に超法規的手段に手を染めながら、苦悶しながらも患者をその凄腕で治していく

実は、月ノ美兎委員長のことを書き始めてから、手塚治虫を全力で紹介するチャンネルの方、三島由紀夫研究者の方など、様々な面白い人と出会うことが出来た。手塚先生に関しては、是非こちらのチャンネルをご覧ください


ここでは深く言及は出来ないが、米津玄師は「パプリカ」「死神」、さらにハチ時代の「リンネ」「結ンデ開イテ羅刹ト骸」といった曲を聞くに、やはり仏教的世界観との関わりは感じられる



先日、細木数子さんや瀬戸内寂聴さんのように、宗教的な部分を世に伝えながらも活躍された方々が亡くなられた。ここに、ご冥福をお祈りいたします。



先駆者の孤独 ーー創造主や王様は完璧じゃない

ColdplayのViva la Vida(生命万歳)は、一時代を築いた王様が実は運命の操り人形に過ぎず、転落していく様子を書いたもの。この曲はApple IpodのCMソングだった。この曲は、王様ですら運命の糸で操られていることを意味する

先駆者は、奇跡を起こした存在として語られがちだ。スティーヴ・ジョブスであれ、アレサ・フランクリンであれ。最近では『ボヘミアンラプソディー』『イエスタディ』のように、世界的バンドの物語も、どんどん映画となり伝記化している。


「王様は孤独だ」というのは、よく言われることである。それは、王様や先駆者は「王様である」「先駆者であるから」という『ポジション』だけで無条件に尊敬されてしまうからである。時に、そのポジションはあまりの重さで人を悩ませる。

王様になることや、先駆者になることは易しい。しかし問題は、王様であり続けることや、自分のあるべき大きさに還ることである。

王様であるということは、自分の発した言葉が力を持つ、その中心点になるということである。そして、当たり前だが「神から力を授かった(王権神授説)」と言われる王様も、そんな力は現実には持っていない。現代に直すと、この「王権」は「才能(gift)」になるのかもしれない。

そして、インフルエンサーは、自分の言葉によって起こってしまうことに自由であるように見えて、一方では束縛される存在だった。それは、世界にいるあらゆる人の言葉の影響を受ける可能性があることを意味する。


今や世界のトップとなったBTSのメンバーは、「時にきわどい言葉を言うこともあるが、それに対してお互いがお互いをケアしあう関係性」を維持していると、鳥羽和久さんは述べている。『ON』という曲では「狂わないでいるためには狂わなければ」「痛みを持ってこい!(Bring the pain!)」という過激な言葉が飛んでいる。鳥羽さんは、これを「だれも傷つかない世界なんて虚偽であり、言葉はそれ自体が傷跡であること、そして痛みを介さずに自分の言葉を紡ぐことなんてできないこと」の再認識へと結び付けた。


王の孤独は「優しさ」「破壊」「偽物」で出来ていました。                                  王は王でありながら、決して他人に厳しくすることができませんでした。つまり王様失格だったのです。また王は宮中の政治に巻き込まれて、心を病んでいました。その頃に抱えた虚無の周りに自分を再構築しました。だから王は、自分のことをなにか人工的な作り物、人間でないものののように感じていたのです。王の玉座が輝かしいものであるほど、王は自分の虚無を深く意識しました。最後に、王は偽物でした。王は本当の王様でなく、すり替えられた偽物でした。王は決してそれを他人に言うことができませんでした。 三宅陽一郎「王の孤独、3つの言葉。」より

王に関する専門書を見ると、王の奇跡的な能力は必ずしも立証されていない。古い西洋の物語を読むと、王の悲哀は良く伝わってくる



 サトシのピカチュウがサトシを石からよみがえらそうと、必死に電撃をサトシに加えるのは、サトシとピカチュウの間に生まれた友情や絆のためだけではない。
 サトシのピカチュウは、バトルに対して、無抵抗でいることでしか自分を表現しなかった。
 サトシは、バトル肯定の「ポケモン」世界の中で、しかもバトル至上のポケモントレーナーでありながら、バトルを否定してしまった。
 バトルに勝つことが価値観である世界を、本人が無意識であるにせよ変えてしまった存在なのである。
 自己存在への答えを、潜在意識の中で「戦いを止めさせること」だと見つけて行動してしまった存在がサトシなのだ。
 もちろん、サトシ本人は、それを分かってはいないだろうが……。
 サトシのピカチュウは、「ポケモン」の世界に、そんなサトシにいてほしかったのだ。
 黙って動かない石のままでいてほしくなかったのだ。            首藤剛志『シナリオえーだば創作術 だれでもできる脚本家』                 「第179回 『ミュウツーの逆襲』クライマックス」

おりコウ健屋さん西園さんあまみゃが同時視聴をしていたミュウツーの逆襲は、何がホンモノで何がニセモノかを争う戦いを描いたものだった。引用した文章は、『ミュウツーの逆襲』の脚本家首藤剛志さんのエッセイ。こういう争いは、今もVtuber界隈でも、あるいは世界中でも続いている。



終わりに 「死を忘れるな」「メメント・モリ」


Coldplayの"Death and All His Friends"はアルバム『Viva la Vida or Death and All His Friends』の最後の曲。このアルバムには、戦争に駆り出される兵士、「カートコバーンはオレの頭の中で生きている」と言い続ける人、神に祈っても赦しの来なかった人、孤独な王様、あらゆる報われない人々を群像劇のように歌にした。歴史を振り返れば、「生きる」ことはあらゆる角度でいろんな地獄を見ることに等しく、王も恋人のいる兵士も、誰もが天国を望んでいるからこそ地獄と惨劇が生まれ、そして「死」は必然なように見えた。そして最後のこの曲は、運命に翻弄される人間の叫びである。

この文章は、冒頭に引用した月ノさんの死生観に関する文章を見た時に「半年後あたりに書こう」と構想していたものだった。ユリイカの特集で、実質的な死について言及していたのは届木ウカ様、月ノ美兎委員長、万楽えねさんだった。そして、ウカ様と委員長の対談の扉絵を見れば、彼女たちがバーチャルユーチューバーという言葉に何を見ていたのか、そして当時のぐちゃぐちゃな世界に何故やってきたのか、そのはち切れそうな投げやりな気持ちが伝わってくる。


子どもとは不気味なもののことである。新生児の顔は実際に不気味である。子どもは、自分にとってもっとも親密でありながら、拡散し、増殖し、いつのまにか見知らぬ場所へたどりついてぼくたちの人生を内部から切り崩しにかかってくる、そのような存在である。                                     いつの時代でも哲学者は子どもが嫌いである。けれども、ぼくたちはみなかつて子どもだった。ぼくたちはみな不気味なものだった。偶然の子どもたちだった。ぼくたちはたしかに実存として死ぬ。死は必然である。けれども誕生は必然ではないし、ぼくたちのだれも生まれた時は実存ではなかった。だから、ぼくたちは、必然にたどり着く実存になるだけでなく、偶然に曝されつぎの世代を生み出す親にもならなければ、けっして生をまっとうすることができない。                                   東浩紀「第7章 ドフトエフスキーの最後の主体」『観光客の哲学』(p299-300)

この「子ども」「親」という表現はかなり比喩的だけれども、非常に大切なことを言っている。



なぜ、この子をプロデュースしようと思ったのか                           自分でもはっきりとはわからない                                「にちかWINGコミュ」より、プロデューサーのひとこと

アイドルをプロデュースするとき―—それがどんなオーディションを潜り抜けようとも―——そこにはひとつの非対称性がある。

マネージャー(親)の存在はアイドル(子)にとって「必然」だ。アイドルはマネージャーの所属している事務所に選ばれなければ、そもそも存在していない。一方で、アイドルを選ぶ事務所にとってアイドル(子)は「偶然」の存在だった。どんなすごい子が出てくるかは、偶然でしかない。だけど、この二つはほとんど運命共同体のレベルで繋がってしまう

しかも、アイドル達は無邪気で気分屋で、マネージャーの持っている目標ややり方を無視して動くだろう。不気味で、不安をあおってくる存在だ。マネージャーの考えを上回ってきようものなら、自分のメンツにも関わる。親も全知全能の存在じゃないはずなのに、子どもをかくまわなくてはいけない。

ここまでくると、批評家の方には、この文章が本田透氏に対する東浩紀からの返答になっていることにお気づきだろう。

親になること、経営をすること、マネージャーになること。その全ては襲ってくる偶然の子どもたちに囲まれることだった。親は、その場しのぎのギャグと虚勢と、言い訳と都合に、そして―—時には暴力に―—手をだすことになる。運営批判とか親は、どうしても批判の対象になりやすい。

でも『推しの子』を含めて思い出してほしい。人間は、不可解な「謎」や葛藤が心の中にあっていつもぶつかり合う存在だった。それは、事情や色んな悩みに囲まれた、複雑な感情を生み出す。

娘は拗ねて、渋々と渋々と本を抱えこみました。わたしによく似てしまった可哀想なこの娘を、雨に濡らさないように、傘をさしのべてあげる。娘よ。我が軛の、可愛くない娘よ。そこらへんの優しいお母さんのように、あなたが大人になることが、生きていることが、何よりも嬉しい―—という、すてきな母親でなくてはなくて、ごめんなさいね。                      生きていくことは苦痛の連続で。大人になっても退屈で。それをまだ知らないあなたを、わたしは哀れむことしかできない。本を読んで知識を蓄えて、どこへ向かうのでしょう。せめて転ばないように、それが母親の義務だそうなので、手をつないで歩いていきます。                     日日日『平安残酷物語』(p325)

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確証を持って言えるのは、マイケル・ジャクソンは今の「マイケル・ジャクソン」になるために生まれたのではなく、月ノ美兎も今の「月ノ美兎」になることなんて、誰も予想が出来なかったということだ

というか、彼女自身が予想できなくしていた。

元一期生の様子をつたえるわぐさんの記事にもあるように、にじさんじの始まりは苦難だった。そして、にじさんじの虚構性は、始まり壊れていた。色んなライバーさんのいろんな話を聞いたけれど……一般的な感覚で言えば「1人の人間には起こって欲しくないレベルのグロテスクなこと」が多発していた。

あちらが、こちらの秘密を知りたがっているなら、もっとわけがわからなくしてやればよかった。ヤバげな疑惑が出たのならば見方を変えて、ネタとして面白くできた。

人間の知覚なんて、少し声音を変えれば別人だと誤解するし、嫉妬やガチ恋やその反転だって、客観的に見れば面白くできるはずだった。

間違いつづければ、バグを起こし続ければ、クソみたいな現実もいつかひっくり返して笑っていられるはずだった。全てが終わる予感も振り払えるはずだった。

その魔法のことを、彼女は「演出」と呼んだ。




「わたし」が作った「月ノ美兎」という謎は、誰もわかるはずがなかった。Vtuberなんだから、目線を変えれば「わたし(親)」に「月ノ美兎(子)」がどうなるかなんてわかるはずなかった。「月ノ美兎(子)」は、どこかの新製品の宣材として、あるいはSNSの海を伝って、わけのわからないものを連れてくる。それをしばき倒したり、現実の事情にあれこれ対処するのは苦労する。

"本音なんてわざとらしい省略と言い落としと言葉遊びの間に挟んでいて"ちょうどよいものだった。本音を言うのなんて恥ずかしいし、やさしさだけで人が救えるはずがないからだ。


この文章はそもそも「わかったつもり」にしかなりえないし、月ノ美兎の文脈で妖怪の話を出している時点で、いろいろやらかしている。だからわたしはひとでなしでいい。

そういえば、そもそも「親」と「子」の関係も、「アイドル」と「プロデューサー」の関係も、いや、時に「ライバー」と「ファン」の関係も、不思議で怖いものだった。時に親は子に学ぶことになる。


ロボットは、規則通りに動く存在だった。ロボットに秘密や不思議はない。けれどもそれを観る人間は、ロボットにすら「鉄腕アトム」や「ドラえもん」のように感情を見出してしまう。でも、現実は、人間は見えるものだけを信じて、この世と人間の不合理さ自体を語る言葉と想像力を忘れ、人を束縛するための言葉が飛び交っている。人の気持ちは合理的に考えれば、「バグ」にしか見えない

読書猿さんが引用した、フランスの批評家リカルドゥ―は、哲学者サルトルが「飢えた子の前に文学は無力だ」と言ったのに対して、「もしも、文学が存在しなければ、子供の死は屠殺場での一動物の死以上の意味はほとんどなくなるだろう」と返した。

人間は思い込みがなければ、いくらでも残酷なことができる。


グノーシス主義は「肉体は魂の入れもの」と考えるキリスト教の一派。しかし、世界を見てみると色々な場面でこの考えは広まっており、日本だと特に「エヴァンゲリオン」に影響を与えていた。このモチーフは「なるたる」や「さよなら絶望先生」にも「依り代」という言葉で用いられている。

本当じゃない生徒                                   本当じゃない級友                                   本当じゃない先生                                       出身も年齢も違うゆかりのない者たちが                                 何かの力によりこの教室に集められた                                  最初は依り代として始めた 偽りの学園生活だったけど                           それはいつしか 私達自身の学園生活になり                                私達2のへは本当のクラスであり みんなは本当の級友でした                         久米田康治『さよなら絶望先生 第三十集』                              


月ノ美兎という人物は存在しません。

いや、バーチャルユーチューバーは全員この地上には本来存在しません。最初から、にじさんじの虚構は粉々に砕け散っていた。

それぞれの人が、自分の想いを持って初配信を始めていた。何かこの世に新しいことを起こしたいという欲望や、現実でうまくいかない憤り・衝動がなければ、配信ボタンをクリックすることはない。葛葉くんがめざましテレビに出た時代にもなると、この世の中はなかなか変な原理で回っているらしい。

バーチャルユーチューバーは元々技術やネットの力で、この世ではないような場所へと行くような思想から始まっている。

でも―—何故だかわからないけれど、その委員長に選ばれた一人は、どこかの一人部屋で「まるで普通の人間みたいに」、人間の一回しかない命について、そして襲ってくる問題に本気で考え続けて、こちらを妖怪みたいに化かし続けた、ただの一人の臆病な女の子だった。

そして、彼女たち、彼らにじさんじの人たちは、虚構のバーチャルユーチューバーたちは、人間よりも人間らしかった。

こんなにわけがわからなくて、おかしいことはないだろう。


オタクくんはそもそも「身勝手」で「厄介」で「キモい」もので、「無駄だと分かっていて」「勝手に杞憂」するものだった。だからわたしは「さらに罪を重ねて」「後方腕組みPの顔をして」「分かったような顔で」こう伝えよう。

私みたいなヤバいやつもいるとして―—アイドルや海外のスターの歴史を見て見ると、やはり暗い部分は否めないことはわかってきた。これから何をどうしたいかなんて、「わたくし」ではなくて「わたし」の気持ちは流石に読むことができない。というか、人間の気持ちなんて簡単に読めないであるべきだった。

ある人は「人間がキャラクターになることなんてできない」と言うこともあった。その答えは、私にはわからない。

ただ―—色々なファンの人と話してきて、あなたが下ネタやギャグの間に、こっそり色々な場所に隠してきたやさしさや、怯えや、みんなが大好きな「月ノ美兎」を守り抜くため死ぬほどの努力や―—人間らしい感情に勇気づけられてきたこともわかってきた。

だから、どうか自分の足が思わず向く方へ、迷ったらいくらでも考えていいから、笑うことができるほうに、進まれてください。

ソロライブ、頑張れ。

もう忘れるくらい昔 宇宙に行けなかった元委員長より。



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