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【16ビートで命を刻む君と、空虚めな僕のこと。】#1


君がこの街に住んでいるのといないのとじゃ、世界の輝き方がまるでちがって映るのだろうなと、どこか確信的にそう思っている。

そうなったことがまだないから、憶測でしかないのだけれど。

たまに同じ路線を使っているだとか、気付かないうちに入れ違いで同じラーメン屋に入っているだとかの、そんな偶然も普通に起こってしまうようなこの狭い街のどこかに、今日も君がちゃんと生きていると思うだけで、なぜだか強くいられるような、そんな気がしている。

この街に住んでいるということだけがたったひとつの確証で、君は君で頑張っているから、僕は僕で頑張っていようと思えるから。

触れただけで壊れてしまうような、泡みたく脆い期待の中に、ずっと、身を委ねている。


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>>僕 #1

あーあ。また無駄な1日を過ごしてしまった。
土曜日はダメだ。明日も休みだと思った瞬間に、面倒くさいことの全てが「明日もあるし」「明日でいっか」という常套句に包まれて先伸ばしになっていく。遅めの起床。そのままベッドの上でSNSやYouTubeをテキトーに流し見る。なんにもやる気おきないくせにAVだけは眺めて、まだなんにもしていないはずなのに気付けば陽は西に傾いていて、早すぎかよって襲いかかってくる虚無感から逃亡するみたいに床に落ちてるゲーム機を手に取って。
「あれ、今日飯食ったっけ?」ってそんなことさえも忘れて、いつ買ったか覚えてもいないスナック菓子でカロリーを代用して。そんな、無駄と無駄をテトリスしながら送る日常を、また平気で更新してしまう。

例えば、本を読んだだけで終わってしまった日があったとしても、ある程度の充足感は得られていたりするんだから不思議だ。

アマプラとネトフリを行ったり来たりしながら、映画だけを観て終わってしまったような日ですら、そこまでの虚無感は感じない。いい映画に出会えてよかった、そんなふうに堕落した日常を肯定することができるからかもしれない。

それでも、寝るかスマホ眺めるかだけで終わってしまった今日みたいな日は、何一つ良い言い訳を自分にしてやることができない。

時間を確認するために手に馴染みすぎたそのスマホをもう一度開くと、さっき途中まで見て閉じたはずの「僕は、他人が寝てる間に努力して進んだだけですから」なんて言葉がまた流れてきて詰んだ。
どっかの若社長の自己啓発動画だ。
僕の自己肯定感ボルテージは順調に地の底へと堕ちていく。

昼間は「休日は休むための日だ!」なんて、身も心も休めていること自体に満足できていたはずなのに、夜になった途端に何もしなかったことへの虚無感でいっぱいになるこの感情にどうか名前を付けてやって下さい。

あー、誰に言ってんだって話。

それでも僕は、そんな僕でさえも肯定していたいくらいにはやっぱり自分が一番大切で、可愛くて、不幸になんかなりたくなくて、なんならできるだけ幸せでいたいとすら思っていて。
それなのに現実は逆向するように過ぎ去っていく。
この拭い切れない感情から脱却するために、ひとまず外に出ることにした。

いつもそうだ。

こんな日のこんな時間は、決まって外の空気を吸いたくなる。そうすることくらいでしか心の換気の方法を知らないことにもまた、虚しくなって少しの溜息を洩らす。



>>私 #1

昔からやめられない悪趣味がひとつある。

例えば原宿の表参道とか、渋谷のスクランブル交差点とか、銀座の中央通りとか、はたまた新宿アルタ前とか、そういう、どこから集まって来るのかわからない人がゴミのような場所で、前から歩いてくる適当な人と目を合わせることがそれだ。いや、正しく言うと、目が合った後も逸らさずに、通り過ぎるまでその人のことをジッと見続けることが、もはや習慣になってしまっている。

いつからだろう。

覚えていいないけれど、悪趣味すぎるのは自覚済み。視線に気付かずスタスタ通り過ぎていく人もいれば、相手も見つめ返してきてくれて、通り過ぎるまでの5秒間ほど目を合わせ続けた状態になる人もいる。中には「え!?」ってかんじで二度見してくる人もいたりして面白い。集団横並びで歩いてくる3人組は全員を見つめるのではなく、その中の1人だけをジッと見つめる。気付いてくれた時、通り過ぎるまでの5秒間、その人の意識はその集団からこちら側へと移動する。だからたまに、その人にしかわからないように「見て見て」って何もない方を当てずっぽうに指差してみたりする。そうすると、ちゃんとその指さした方向へ振り返るから「あはは、やっぱり目合ってたんだ。」って可笑しくなるんだ。

何もないほうを向いているのだから当然ではあるんだけど、振り返った後の「ん?何もないぞ?」っていう顔を横目に通りすぎるのが良い。

通りすぎた後、私は絶対に振り返らないことに決めているから、その人がその後でどうするのかは知らないんだけど。

一度だけ、外国人にこれをやったら「Oh!ドウシマシタ、ナニガアッタ?」と、不覚にも話しかけられてしまったことがあった。

あくまでもこれは、被験者とは視線を合わせる以上に関わらないというマニフェストの下実行している悪趣味なので、ニコッとした後に全速力で走り去るしかなかったけれど、あれはあれで非常にスリリングで、楽しかった。


東京という街は、ある種ゲームの中のように感じる時がある。

このゲームの肝である"通りすぎたらフルシカト"のポリシーに反する出来事は、その一度だけではなかった。

この悪趣味が加速度を増したのは、原宿を歩いていた時に、ファッション誌に「スナップを撮らせてくれませんか」って話しかけられた時のことだった。
ずっとやってみたかったことがあった。

一番好きな小説の中に、通りすがりの人に「すみません、今って西暦何年ですか?」と聞くシーンがあった。タイムワープごっこだ。中学生の時にその小説を読んでからというものの、いつか絶対にやってみたいと温めていたことだった。

「すみません、今ってお時間あったりします?わたくし〇〇という雑誌で夏のサンダル特集をしていて、スナップを」この手のお誘いにはいつもごめんなさいするのだけど、あれができる絶好のチャンスかもしれないと思った私は「あ、ちょうどよかった!今って西暦何年ですか?」と言い放った。

声をかけてきたカメラマンは、キョトンとしつつも「2021年です」って律儀に答えてくれる。

「あぁ…、やっぱり戻ってきちゃったか…」

悔しそうな顔芸をかまして、当然の如く「は?」って顔になっていくカメラマンを横目に、走り去る準備を整える。

「また失敗か…あ、ごめんなさい、こっちの話!ありがとう」
あとは全速力で走るだけだ。

この訳わかんない、東京というゲームの中を。

あー、こんなに面白いことってない。
一応法は犯してないし、誰にも迷惑はかけてないからいいんだけど、短気な人にやってナイフで後ろから刺されたりしたら痛そうだから、こういうのは人を選んでやらないといけない。

ちなみにこの前は銀座の大通りでこれと同じことをしたら鼻で笑われて終わったので、私の演技力はまだまだ足りなかったみたいで悔しい。

東京は人が多すぎる。

だから楽しい。
いつかひとりでミッションインポッシブルごっこを始めてしまいそうな自分がいて怖い。この、突如現れて人類を攻撃してきた未知のウイルスのせいで、密を避けてがんばるタクシー運転手さんに無駄な仕事をさせるわけにはいかないから思いとどまっているけれど。

いつか一度でいいから「前の車追ってください。」「え?」「シッ!静かに。あまり見ないで。」とかいうのをやってみたいと本気で思ってる自分がいる。まだ、妄想に留めておいている私は今日も偉い。

こんなふうにしていたら、いつか痛い目に遭うのだろうか?

人生が100年だったとして、70億人もいるこの世界では、1人1秒ずつ出会ったって全員には出会えないって、だから出会いを大切にしようって、UVERworldが言ってたよ。

だったらさ。

前から歩いてくる人と通り過ぎるまでの視線が交わる5秒間、ほんのちょっと遊ぶくらい許してよ、神様。



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