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死と向き合うことで、本気で必死になれる

「死を思うと生が輝く」ということを、禅僧の藤田一照さんの記事をもとに昨日書きました。その続きです。

タイムリミットがある生を生きているからこそ、覚悟や気迫が生まれるということ。私たちは、死の自覚がないとなかなか「本気」になれません。

この気持ちになるためには、一皮剥ける必要があると思うのは私だけでしょうか。「本気になる」という言葉が先ほどの引用文にあります。あなたはこれまで何かに本気になったことはあるでしょうか?

「本気で必死になる」というくらい何かに没頭し、のめり込んだ経験がある人なら、分かることがある、と藤田さんは言います。

僕は本気で生きた人だけがちゃんと安心して死ねる、あるいは後悔なく死ねると思います。本気の瞬間なら、死んでも大丈夫な気がしませんか。

本気になる対象はなんでもいいわけではないと思う。自分の「要求」にかなったものでないといけない。「欲望」ではなくてね。欲望はどこかでほかのだれかから注入されたものです。それに対して、要求は自分の内側から湧いてくるものです。

深い言葉ですね。欲望ではなく、要求だそうです。

僕はこの「本気」や「愉快」を、羅針盤のように使っています。お料理で味見をしていると「もう少し塩味が……」みたいなことがありますよね。そんなふうに「いま本気の方向に向かっているかな」「いま愉快の方向に向かっているかな」と考える。「愉快」とか「本気」を理想状態としては描かないわけですね。

ますます哲学的になってきて、ややこしくなってきました。整理してみましょう。

「本気になる対象は、欲望ではなく、要求にかなったものだ」と藤田さんは言います。その例を料理に例えられているわけです。ようするに、目指すべきゴールが見えていなければ、その違いが分かりません。

味見をして、もう少し塩が欲しいと思うということは、完成した味と比べて違いを感じたわけです。それが要求だということです。

欲望のままに味付けをしていけば、完成形との比較がありません。しかし完成形との比較をしながら進むことで、現在の位置を確認することができます。

だから「羅針盤」とも例えられているのでしょう。羅針盤は自分が行くべき方向を示すものです。やみくもに「欲望」のまま進んでいてはどこへ行く着くか分かりません。自分の今いるところが分かった上で、どの方向へ進み、どこを目指すのかがハッキリしていると、どうすれば良いのかという「要求」が出てくるということです。しかも「本気」で、ということです。

死という「嫌なもの」から逃げ、それを直視するのを避けても、人生はぼんやりするばかりです。大事なのは、勇気を出してそれに触れ、理解しようとすること。それによって生は輝く。

これまでは例え話で説明されています。本題に戻ると、人は必ずいつかは死にます。それが死をゴールだと考えれば、今いる位置、ようするに年齢に応じて、今からどの方向へ向かえばいいのか、しっかり自分なりに考えて生きていく必要があるということです。

「勇気を出して」

という言葉が印象的です。それは・・・
①勇気を出して、死と向き合う
②勇気を出して、本気で実行する

すべては後悔しないために、すべては生あるうちに。

さて、今日、何をしますか?

明日、どこへ向かって生きますか?


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