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会社を退職し、大学院に行きます。

新卒から約8年間在籍させていただいた会社を、辞めることになりました。

noteを始めたのは、体調を崩して休職し始めてからちょうど1ヶ月くらいの頃です。

がむしゃらに働いて働いて走り続けて、息切れを起こして、もう無理だ、と思って休むことになって。それからずっと、一人で考え続ける時間を過ごすことになりました。

考えていたのは、主に二つです。
どうしてこうなったのか、ということと、これからどうしようか、ということ。

どうしてこうなったのか、というのは、外から見えるほど単純な話ではありません。「働きすぎたから」とか「会社が・職場が・上司が合わなかったから」とか、簡単に言おうと思えば言える言葉だけれど、そんなことだけじゃないな、とずっと思ってました。きっと原因は、もっと根本的なところにあるな、と。これは、当事者である私にしか、わからないことです。

カウンセラーの方にヒントをいただきながら考えて考えて、本当に孤独に考え尽くして分かったことだけれど、私はたぶん、「自分で選ぶ」ということをことごとくサボってきた人なんだと思います。そして、サボってきたけれど、本当は「自分で選びたい」人なんだ、とも。

会社で過ごした時間は、かけがえのないものだったと思います。とてもよくしてもらっていたし、可愛がってもらっていたとも思う。たくさんのことを教えてもらった。けれど、その過ごしてきた時間や仕事の過程の中で、「どこに自分の意思があったのか」と振り返ると、疑問に思うところもあります。

とにかく「デキる子だ」と思われたくて、周囲が求めていることを考え尽くして、それを差し出して。目の前にいる上司が求めている答えをどうしても見つけたくて、想像して考えて探して、持っていって。物事をうまく進めたいから、あっちの部署とこっちの部署と、どっちとも仲良くして、飲みにも行って、調整しまくってなんとか進めて。

そうやって仕事をしていると、みんな褒めてくれます。「よくデキるね、頑張ってるね」って。「どこに行っても、溶け込めるよね」と。

その時は、自分の心の中にある空虚感にうっすらと気付きながらも、「いやいや、褒められているのだから、これが私の長所なんだ」と思っていました。でも多分、違ったんだと思います。

いや、違うというよりかは、それは「すっごく頑張ったらたまたま出来たこと」であって、「やりたいこと」でも「得意なこと」でも「目指したい姿」でもなんでもなかった。結局そこに、私の意思は、なかったから。

そうやって過ごしていると、本当に恐ろしいことに、自分の意思が見えなくなります。例えば上司に「きみはどう思うの?」と聞かれた時に、本当の意味での「私が思っていること」がわからなくなっちゃうのです。一応答えます。「〜〜と思います」と。でも、なんとなく気づいてしまうんです。これって、「私が本当に思っていること」ではなくて、「上司が『こう答えてほしい』と思ってそうなことを、私が言っている」だけだ、と。

「自分の意思がわからない」って、本当に怖い。怖かった。

人に合わせすぎて、人の顔色を伺いすぎて、人の目を見すぎて、自分のことが、わからない。

これは会社の中だけで醸成されたものではなくて、これまでの私の人生の中で、じわじわと作られてきたことなんだと思います。それこそ、友人関係だって、恋愛だって、就活だって、なんだって。「これっぽい」「それっぽい」「間違いないっぽい」と思うものを、全部手に入れるようにしてきた。それの結果が、これだ、って思った。今、全部のツケがきたんだ、と。

別に、自分を責めたわけじゃない。過去を責めたところで、意味はないと思ったから。だからこそ、真正面から「今のこの自分の性格を、どうしようか」と考えました。

ちゃんと、自分で生きる選択肢を見つめて、自分の頭で考えて、自分の意思で選びとる。そのことが、今の私にとって、何よりも重要だと思ったんです。

休職した約1年間、そうやって自分と向き合い過ごしていく中で出した結論は、「会社を辞めること」でした。そして、それと同時に、もはや全く同じ意味で、「組織の中で働くこと」は一旦お休みする、ということも決めました。

きっと今「会社」というハコの中にもう一度戻った時、同じことを繰り返してしまうだろう、と思ったから。てきとーに働くことができない性格だからこそ、多分めちゃくちゃ真面目に働いてしまう。ミッションを与えられ、上司や部下がいて。色々なところにお伺いをたてながら物事を進めて。

そういう中に今の私が戻ったら、きっとまた周囲の意思ばかりを尊重し、わがまま一つ言えず、人の顔色を伺いながら仕事をしてしまうんだろう、と。そしてそれは、会社という機能、社員という立場を考えた時に、今の会社だろうと他の会社だろうと、大して変わらないんじゃないか、とも思いました。


こうして文章を書き始めて、ようやく本当の自分の「意思」というものの輪郭をつかめたような気がしています。これは本当に、冗談でも誇張でもなく、本当のことです。

文章を書くって、本当にすごく楽しいことです。

何気なく始めたnoteだったけれど、毎日自分の好きなことを好きなようにこうして真っ白のパソコンの画面に書き連ねて、そしてそれを誰に許可を取る必要もなく、アップできるんです。すごいことでしょ。生み出すって、こんなに楽しい。

それまでの私は、部長に見せる資料1枚すら、自分の好きなように作れなかった。課長はこういう表現が好きだから。部長はこういう言葉遣いやフォントが好みだから。こういう言葉を使うと部長に突っ込まれるから。そんなことばかりを気にして、気づけば出来上がった紙ペラ1枚に、自分の意思やこだわりなんて、1ミリもこもっていなかった。

それが、今は全然違う。こうやって毎日自分の言葉で、自分の考えや思いを書いて、反応をもらえるなんて。こんな嬉しいことはなくて、私にとっては胸が踊るような経験だった。バカみたいでしょ。でも、本当なんです。私にも「意思」がある。「自分」がある。それが、本当にバカみたいに嬉しくて、もうこの「自分」、やっと出会えた「自分」を手放したくない、と思った。あぁ、私にはこんなに強い「自分」があって、それをこんな風に解放したかったんだ、と。

それくらい大事に思う、やっと手に入れたような気がするこの場だからこそ、一文字一文字心を込めて、こだわって「私」を伝えてきたつもりです。「美しい文章」「写実的な文章」なんて書けなかったと思うけれど、「私」として、読んでくださる方にまるで話しかけるように、おしゃべりするように、書いてきたんだと思います。それを受け止めてくれる方がこんなにいるなんて、思ってもみませんでした。


ちょっと脱線してしまいましたが・・・
そうしてやっと気づいた「自分」という個を育むには、どうすれば良いのだろう、と考えて考えて。そして出した結論が、「学び直しをする」ということでした。

4月からは、都内の大学院に通って、社会科学の勉強をします。「学生」を、もう一度やります。

大学では法学部に在籍していたので、正確には「学び直し」ではないけれど、大人になった今、世の中のことを、社会のことを、もう一度腰を据えて勉強してもいいんじゃないか、と思ったのです。

これまで書いた通り、「組織の中で見失ってしまう自分」じゃなくて、「組織の中でも意思を持ち主張できる自分」を持ち直したい。そういう自分に出会いたい。それが、一つ目の理由です。これまで押し殺していたものを表に出す、というのは、そんなに簡単なことじゃない。だからこそ、修士2年間という時間を使い、個人として学ぶことを通じて、「自分の頭で考え」「選び」「意見を持ち」「主張する」という訓練をしたいと思っています。

そして2つ目の理由は、自分があまりにも世の中について無知だと気づいたから、です。そして、無知のまま情報に溺れてしまう将来が、嫌だったから。

休職している間、たっくさんの情報に触れたと思います。こうしたnoteというプラットフォームに毎日触れることになったのもきっかけの一つだし、web上に山のように転がっている記事を読み、そしてTwitterなどのSNS上で繰り広げられるいろんな議論(誹謗中傷など、議論と言えるほどではないものもありますが)を観察し、「あぁ、このままじゃダメだ」と野生の勘で思いました。このままじゃ、溺れてしまう、自分で何も判断できない人になる、と。

正しいこともあるのだろうけれど、そうでないことやフェイクニュース、知らないこと、自分の耳に届かないけれど実際は起きていること、こう解釈していたのに実は違ったこと、そんなことが、山ほどあります。毎日、毎日。

これから情報が少なくなる世の中ってきっとないんだろう、と思っていて。どんどんアクセスできるものが増えていく。その中で、「自分で正しい情報にリーチする力」「情報をフラットに受け取る力」「どれが真実で、どれが真実でないのか、を見極める力」「それらの自分の判断に対して、責任を持つこと」、そういうことを身につけなければ、この先健全に生き抜いていけないんじゃないか、という危機感。そういうものを、ひしひしと感じるようになりました。与えられたものを受け取るだけじゃ、どこかで足元をすくわれる。そんな感覚です。

Twitterで何の気なしに「いいね」を押し、その5秒後に、「もしかしてこれ、フェイクニュースかもしれない、だってソースが明らかじゃないし、この発信者のプロフィールをみても信憑性が判断できないし、そもそも・・・」と色々考えて、「いいね」を取り消す、みたいなことも増えました。

こうした気持ちは単なる恐怖心ではなくて、知的好奇心ゆえに生まれた部分もあると思います。いつだって「真実」が知りたいから。「正しい情報」を受け取りたいから。フェイクニュースに踊らされる人も、傷つけられる人も、正しくない医療情報に騙されてしまう人も、みていてこんなにしんどいことはありません。

「情報」は、混乱のためではなくて、平和に健全に各方面において役に立つために使われるべきものだと思うのです。だからこそ、その「情報」について、もっと繊細にアプローチしていきたい。そして、自分なりに吸収した情報をしっかり咀嚼して、今の世の中、そして自分のこれからの人生に生かしていきたい。そう思った時に見えたのが、「学び直し」という道でした。

私が社会人になってから約8年がたちますが、その間に世の中ってめちゃくちゃ変わったな、と思います。シンプルに。

「働き方改革」なんて言葉は以前は聞こえてこなかったし、女性社員の数もメキメキと増えた。フェミニズムに代表されるような草の根運動のようなものもどんどん増えたし、家庭のあり方、家族のあり方みたいなものもどんどん多様になってきて。超高齢社会、少子化、貧困、格差、地球環境、いろんな問題もどんどん顕在化してきた。それこそ、TwitterやInstagramみたいなSNSも活発になり、こんなnoteみたいな場もできた。

これからどんな世の中になっていくかなんて、わたしにはわかりません。でも、変わっていく、ということだけはわかります。そして、こんなに世の中って変わっていくのに、「勉学」という意味では20歳そこそこで止まってしまっているのって、すごく勿体無いし怖いことだと思うのです。

私はいま、30歳です。何を大袈裟に、と思われるかもしれないけれど、これからの世の中を良くしていける世代の1員として生きていくことを考えると、自分自身が一つ二つ、バージョンアップしなければ、と思うところがあったのです。


大学院には23歳くらいの方や、私のように社会人経験を経て入学してくる方、いろんな人がいると思うけれど、その誰もとフラットに知り合い、フラットに接することができるのが楽しみで仕方ありません。

一般的には「大学まで行けば十分」とされてきた世の中で、大学院で学ぶことを決めた人たちが、どんな思いで勉強しているのか。たくさん話を聞きたいなと思っています。これからの「大人になってからの学び直し」「学問」には、これまで以上にたっくさんの可能性があると思うのです。

受験の過程においてだけでも、何のツテも情報もないところから始めて、すごく学びが多かったです。それこそ、自分で調べて、情報を取りに行って、判断して。誰の顔色を伺うでもなく、自分自身でそういう過程を一歩一歩進めたことが、一つの素晴らしい経験となりました。そういうことも、これからまたゆっくり、書いていけたらと思っています。

4月からの生活はきっと大変なこともたくさんあると思いますし、研究はきっと大変だし、ただただ居心地の良い環境になるとも思ってません。基本的にネガティブなので(笑)。ただその分、それなりの覚悟を持って決めたことです。自分で決めたことだから、目一杯楽しんで、どんどん新しいものを取り込んで、この場でもシェアしていきたいと思っています。


はー、やっと言えた!!!!スッキリ!!!笑

思うままに、書き殴ったような文章でごめんなさい。想いが伝わっていたなら、嬉しいです。

これからも「ねぇ、こんなことがあったんだけど、聞いてよ!!」「こんな面白い人がいたの!!」って、まるで友達に話しかけるように、色々な『30歳、大学院生』の日常を発信していくと思います。良いことも、悪いことも。

どうぞ、暖かい目で見守ってくださると嬉しいです。
こうして発信する場があったから、今の自分があります。
これまでも、これからも、たくさんの感謝を込めて。

Sae

「誰しもが生きやすい社会」をテーマに、論文を書きたいと思っています。いただいたサポートは、論文を書くための書籍購入費及び学費に使います:)必ず社会に還元します。