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不登校のときこんな風に過ごしていたよ

最近ぱたりとnoteが書けなくなって、自分でお休みをとった。
お休みをとることには少々慣れている私。
小学5年生のとき学校に行けなくなり、丸々5年、中学3年生まで行っていなかった。

春休み中、友達との会話の中でふと私が不登校だった話になった。
私にとって不登校は過去だけど、誰かにとっては過去じゃない。
自分の経験が誰かの参考になるのかもという気持ちが湧いてきた。


しゃべれなくなる

「行けなくなった日」というのがあって、めざましテレビが映っている前でごはんを食べながらボロボロ泣き出した朝だった。金縛りみたいについに体が動かなくなった。
気がかりなことが体の中で、焦りや恐怖となって溜まっていく。
いつも肌がぞわぞわして息が苦しくなる。

大人になってもどの人になにを話すかみんな調節するみたいに、言いにくいことは言いたくない。
先生に理由を聞かれても私はだんまりを続けた。
口をつぐんだまま、同じ言葉だけがのどの奥で繰り返された。

そう。私には緘黙があって、ほかに語彙が足りないという理由も大きかった。
小学生当時、自分の複雑な気持ちを伝える言葉を知らなかったのだ。
ようやく話せる実感が湧いたのは高校生くらい。でも感じていた感情の重さは変わらなかった。

だんまり大魔神

マリオカートとボールペン画

さて、不登校というものが親戚一同初めてで、なにをしたらいいのか誰にもわからない。そうして当の本人は家の中でもしゃべらない。

私はひまなだけでなくなにかに没頭するくせがあって、家にいるあいだは特定のことをやり続けていた。

やっていたのはマリオカートとボールペン画。
母が仕事からただいまーと帰ってきたとき、出勤したときと同じ姿勢で絵を描き続ける私がいた。時間にして10時間近く。

お気づきかもしれないが、最近ASDの傾向があることがわかって、こだわりに対しても集中力が高いらしかった。
ノートが一冊あったら1ページも失敗したくないという無理ゲーなこだわりを持っていた。
新しいノートにボールペンで絵を描く。失敗する。一枚破る。ボールペンで描く…..。それを繰り返して、ノートが表紙だけになったことがある。何度も。
ボールペンで描くなよ…と思うけど、たぶんボールペンが好きだからやっかい。
今は当時の苦しみを解消する道具を持っている。フリクションである。

マリオカートの方はというと、全てのコーナーでターボドリフトができるまでに大成長。サン宝石で買ったドーナツのデコパーツを2つくっつけたDS Liteでぶっ飛ばしていた。グランプリを制覇したあとはバトルでバック走行を駆使。ミッションランまで行きついてなん週かボスどんけつを倒した。
小6女子にしてはハードな遊び方だな。

そして驚くべきことに、大学生になると社交の場でマリオカートをやる機会がけっこうある。
「学校に行かなかった時間で得たものを、甘く見るなよ」と言い放ち、私の強さは不動のものとなる。

中学デビュー、入院

小学6年生と中学1年生の二回、私は心療内科に入院した。
小さいころから眠るという切り替えがむずかしく、お昼の14時に起きて朝の6時に気絶する毎日を過ごしていた。なにより夜が本当に怖かった。
メルトダウンのような、激しく暴れる症状も出てきた。

学校に行っている人や働いている人だけではない、入院している人がいることを私は知った。
Perfume好きの看護師さんをつかまえて、病棟内でダンス部を発足させてしまった。みんな体の方は動くので、やる気さえあれば踊れる。
最初は3人だったのが、だんだんももクロもAKBも踊れる大所帯になった。

病院と渡り廊下で繋がっている特別支援学校にも通った。
入院中の経験についてはまたの機会に書きたい。

かんしゃく大魔王

ムーミン谷には学校がない

退院後は一度も教室に入らなかったので何組だったのかもわからない。
いよいよひきこもりも玄人になってくる。ゲームも絵も、アウトプットは十分できている。

中学生で新しく始めた過ごし方は、調べものをすること。
初めて誰かのファンになり、その人について調べ倒す。私がはまったのはムーミンの作者、トーヴェ・ヤンソンだった。

NHKで再放送をしていた『楽しいムーミン一家』を見た。
ニンニは姿が見えなくなってしまったキャラクター。いっしょに住んでいたおばさんにいじめられ、声も出せなくなってしまう。そんなニンニが回復していく姿を見てムーミンのとりこになった。学校も仕事も犯罪もないムーミン谷に入り浸り、ゆっくりゆっくり癒されていった。

そのうちフィンランドについて調べるようになり、北欧を知る。
理解できない校則が他の国にはない。違う文化、違う法律が存在することに衝撃を受けた。
北欧だけでなくもっと他の国ではどうか。自分の目で確かめたくなり、高校生で国際交流に参加するようになった。

もはや生き方

不登校が長くなるにつれ、学校に行けないことは、行かないことに変わっていった。
修学旅行の案内を受けて、ときすでに行かない方が自然になっていたので欠席に丸をつけた。調査票の前で先生たちも母も「本当に行かないの?」と驚いていた。母はそのとき、私がはっきりとした意思を持っていることを実感したらしい。

犬に散歩されるビビリ星人

私が不登校をやっていた当時は、やっぱり不登校に対する風当たりは厳しいなあと感じていた。知らない人に「なんで子どもがこんな時間に歩いているの?」と言われることもよくあったし、だんまりで周りの人をどれだけ困らせたのか自分なりに考えられる。

私は不登校を推奨するのではなく、その人の意思が尊重されてほしいと思う。
不登校になる前にも保健室登校や適応教室などを利用できるし、一つの選択肢になればいいのかなと思う。

そして不登校になったあとにもたくさんの選択肢があることを、私はあとになって知った。フリースクールのこともよく知らなかったけれど、外部支援や休む環境を整える工夫は以前より増えていてほしい。なにより不登校への偏見自体が減っていってほしいな。

私は今も自分がへんてこだなと思うけれど、へんてこな自分が好きだ。
こんなんでまあ大丈夫だったから、大丈夫なのだ。
次回は私が受けていた支援や高校以降の話を書いてみようかな。

つづく

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