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旅について

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記事一覧

須賀敦子の背中を追う 1.

いとぐち「須賀敦子」という名前は、実はずいぶん前から知っていました。 古い記憶にあるのは『トリエステの坂道』という本の背表紙。この本、最初はみすず書房から1995年9月に出版されたようなので、たぶんみすず書房出版の他の本を探す時に目にしたのだと思います。例えば、中近世の絵画を見る時、いまだに参考にしているジャン=クロード・シュミットの『中世の身ぶり』という私の本。1996年3月にみすず書房出版から初版が出版されています。私は書店でこの本を手に取る時、近くに並んでいた須賀敦子

須賀敦子の背中を追う 2.

ミラノトリエステ、ヴェネツィア、ミラノ。 須賀敦子の背中を追って旅した三都市のうち、実はミラノは今年の春最後に訪れた場所なのです。でも、やはり私は彼女が長く住んでいたミラノから、書き始めたいと思います。 私が最も好きな須賀敦子のエッセイにの一つである『電車道』は、ミラノ中心部と彼女の自宅を真っ直ぐ結ぶ路面電車を一本の糸にして、そこに様々な色のビーズを繋いでいくように、小さな出来事が語られていくエッセイです。このエッセイはこんなふうに始まります。 本当に便利な世の中になった

須賀敦子の背中を追う 3.

ヴェネツィアザッテレ(Zattere)。 ヴェネツィアで須賀敦子の背中を追う場所は、ここと決めていました。 ヴェネツィアにも持参した本『地図のない道』はヴェネツィアに関するエッセイを集めた小さな本ですが、ここに収録されている『ザッテレの河岸で』というエッセイのなかで、ザッテレの河岸について須賀敦子はこんなふうに書いています。 須賀敦子の背中を追いかけるのなら、この場所。ヴェネツィアに行くと決めた瞬間から、私の心は決まっていました。 『ザッテレの河岸で』によると須賀敦子は

Rolleiflex、故郷に帰る

ドイツという国に関しては疎くても、Rolleiの二眼レフを持っている方ならブラウンシュヴァイク(Braunschweig)という地名には聞き覚えがあるのではないでしょうか。1927年、この地でRolleiflexのプロトタイプが完成しました。私の手元にあるRolleiflex Original(1929年)の前面プレートには、Franke & Heidecke Braunschweigと誇らしげに刻まれています。 ある時、Rolleiの二眼レフの歴史について書かれた本を読み

Xenotar、Kreuznachへ行く

新たにLeicaを買うたびにその都度それをWetzlarへ持って行き、Rolleiflex Standardのレンズ・TessarをJenaに里帰りさせ、Rolleiflex 2.8F PlanarをBraunschweigのかつてのFranke & Heidecke社屋の前に立たせたように、Rolleiflex 2.8F XenotarをKreuznachに連れて行ったことがあります。今日はその件について書こうと思います。 クロイツナッハKreuznach、正しくはBad

須賀敦子が歩いた街 1.

ウディネかつて須賀敦子が歩いた街のいくつかを、まだ須賀敦子を知らなかった私もやはり歩いています。彼女のエッセイを読みながら「あら、私もここへ行ったのよ。写真もたくさん撮った」と、遠いところにいる彼女に話しかけてみたり。須賀敦子に写真を見せるような気持ちで、彼女がかつて歩いた街の写真をここに並べていこうと思います。はるか彼方から「あら、やだ、イタリアって何百年経っても大して変わらないと思っていたのに、ここって、たかだか数十年でこんなになっちゃったのね」なんて彼女の声が聞こえてき

須賀敦子の背中を追う 4.

トリエステこの街に来ると、何故かいつも地の果てに来たような気分になります。最初に来た時は、「初めてトリエステに来たから、こんなふうに感じるんだ」と思いました。しかし、二度目に来た時も、やはり同じように感じました。「ああ、また私はこんなに遠くまで、はるばるやって来たのだ」と。 もちろん、トリエステの先にも「地」は続きます。山を東に越えればスロベニア、南に下ればクロアチアです。それでもなお、私がここに地の果てを感じるのは、ハプスブルク帝国の時代から周縁に位置し続けてきたという、

須賀敦子が歩いた街 2.

ローマ私たちがローマに着いた日にも、アクワッツォーネが降りました。ドイツの雨はしとしと少し降っては止み、またパラパラと降っては止むという雨がほとんどで、傘をささずに何とかやり過ごすこともできます。地面に落ちた雨粒が跳ね上がり足元まで濡らす激しい雨は、日本を出て以来、本当に久しぶりでした。この時、私たちはパンテオンにいたのですが、丸天井の真ん中に開いた穴からダバダバ雨が降り注いで神殿の床を容赦なく濡らしていました。「これで本当に大丈夫なのかしら」というのが、私のローマに対する第

須賀敦子が歩いた街 3.

続・ローマ数年前にローマを旅した時、私はまだ須賀敦子の本を一冊も読んだことがありませんでした。それでも、不思議な偶然から、彼女が歩いた道を、私も少なからず歩いています。ローマへの旅の記憶が少しずつ遠くに感じるようになってきた頃、須賀敦子のエッセイに出会い、忘れかけていたローマの風景や街の音、足の裏に感じた石畳の感触が蘇ってきました。 以下の3件の写真は、バチカン市国で撮影した写真です。実はバチカンに関しては、はるか昔、私の心に強く印象を残した映画があります。それは『オーメン

須賀敦子が歩いた街 4.

フィレンツェ『フィレンツェ ー 急がないで、歩く、街』というエッセイのなかで、須賀敦子はこんなことを書いています。 今日は、須賀敦子がフィレンツェからのお持ち帰りとして第一に言及しているボボリの庭園の写真をここに広げてみます。この庭園は同じく彼女が持ち帰りたいと言っているピッティ宮殿の背後にある広大な庭園です。 ところで、写真を見ながら、私だったらフィレンツェから何をお持ち帰りしたいかなあ...と考えてみました。絵画だったら、ウフィツィ美術館にあるアーニョロ・ブロンズィー

須賀敦子が歩いた街 5.

続・フィレンツェ『レー二街の家』という須賀敦子のエッセイは、東京に帰って15年経った頃、彼女が頑張ってきた自分自身をねぎらう意味もこめてフィレンツェで休暇を過ごすことを思い立ったことから始まります。そこで彼女はかつてミラノに住んでいた頃の知人とばったり出くわし、話の筋はそちらに流れていくのですが、それでも時折、このエッセイの合間合間にフィレンツェの街の情景が描かれます。 たとえば、こんなふうに書かれている箇所があります。ここには通りの名前は一切出てきませんが、ここがどこのこ

アルプスの谷 アルプスの村

約35年ぶりに新田次郎の『アルプスの谷 アルプスの村』を読み直しました。 この本は、あとがきによれば、最初『山と溪谷』誌上に「夢にみたアルプス」というタイトルで20回にわたって連載した文章を、改めて文庫本にまとめたものだそうです。彼が山岳地帯を含むヨーロッパを3ヶ月かけて旅したのは、昭和36年(1961年)、49歳の時でした。 この本を読んでいてまず私の気を引いたのは、この明治生まれの頑固オヤジである新田次郎が、「西洋人に侮られてはならん」と気を張って旅している様子が、直

須賀敦子が歩いた街 6.

ジェノヴァジェノヴァは、須賀敦子にとって特別な街であったに違いありません。まず、彼女が1954年の夏の日、最初にヨーロッパの土を踏んだ場所がここ、ジェノヴァであり、それからのちに夫になるペッピーノにはじめて会ったのも、ここジェノヴァだったからです。須賀敦子ほどドラマティックな要素はないものの、実は私にとってもジェノヴァは特別な場所です。ここで、私のイタリアに対する印象を変える小さな出来事が起こったからです。 今でこそ、イタリアにぞっこんの私ですが、実はこの国に対する私の第一

須賀敦子が歩いた街 7.

ペルージャ「ドイツに住んでいればさ、ドイツ語も自然と上手になっていくんでしょう?」 日本にいる友人に気軽にこう言われると、心外に思います。外国語の天才なら話は別かもしれませんが、凡人の私にとって、モノゴトはそんなに簡単に進みません。ドイツ語に関する知識ゼロのままドイツに移住して、なんとか「ドイツ語でやっていけそう」と思えるようになるまでの最初の2年間は、先が見えずに本当に大変でした。なんせ、一定レベルの試験に合格しなければ、ドイツ人の配偶者であっても無期限居住許可はおろか、