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ACT.105『偉人の道を伝った先』

鉄道王の力

 甲府から先は、食事を済ませて大月行きの列車に乗車する。
 この先の行き先には塩山行き・大月行き・高尾行きとあるが、この列車は中距離的に走行する列車の部類である。
 さて、乗車した大月行きの普通列車は酒折・石和温泉と駅に停車し、山梨市に停車した。
 この駅で後ろを走行する特急列車に道を譲る為の停車だ。この停車時間を活かして、乗車する大月行きの211系電車を撮影する。
 関東圏では既に主役を降りたものの、甲府や長野といった甲信越では現役の普通列車運用に入る車両だ。
 さて、列車の停車する山梨市というのは山梨県の県庁所在地が存在する駅ではなく、中央本線の駅としては郊外駅のような雰囲気を残している。
 駅は追い抜き・待ち合わせを想定したような運転上の要としての造りが感じられる駅で、列車はこの駅で一時的に休憩を挟むような感覚だ。
 山梨県の名産、桃と211系電車を撮影してから再び車内に戻る。
 車内に戻って荷物を置いた自席に戻ったところで、小さな音声で
『列車が通過します…』
との音声が聞こえた。
 そして後方から追い上げるような風切りの音が迫ってくる。
「バタバタバタン!!ヒュンヒュンヒュン!!」
追い上げる勢いで、特急列車が通過してきた。
 突風の勢いとはいかないが、特急列車は高速で通過するのでかなりの衝撃が窓に響いてくる。
 流れ星のように、矢のように過ぎ去っていく白色の蛍光灯。東京都心、新宿を目指してひたすら特急列車は駆け抜けてゆく。
「バタンっ!!ガタンっ!!」
と強烈な車体への衝撃が当たった通過までの時間が終了し、車掌が扉を閉める車内放送を入れる。
 列車は再び動き出した。
 そういえばこの山梨市、よく小中学生の頃に日本地理の問題でクラスメイトが引っかかっていたのを思い出した。
「山梨の県庁所在地は甲府やからな!」
今でも先生が笑っていたのを忘れていない。
 実際に山梨市と甲府の駅を見ると、間違っていた事実が恥ずかしく思えるのだった。

※中央本線の基礎とされる『甲武鉄道』や江ノ島電鉄の開業に大きく貢献した明治期の実業家、雨宮敬次郎。彼は中央本線の開業時に線路を塩山駅の周辺に捻じ曲げて甲府盆地の北側に線路を敷いたとされている。彼の功績に関してはいつか記していこう。

 山梨県と中央本線に関しては…この偉人を忘れてはならない。明治の鉄道王としてその名を刻み、弘化3年から明治44年までを生きた実業家、『雨宮敬次郎』だ。
 この人物の功績として、鉄道唱歌に登場する『豆相線路の別れ道』として歌われている『豆相人車鉄道』の開業があるのだが、その話は後に置いておこう。
 さて、この雨宮敬次郎。中央本線への建設に大きく携わった事には、『地形』で大きな関わりを残している。
 中央本線は途中。山梨市を出ると大きく迂回して塩山駅を経由し、笹子トンネルに向かう。甲府盆地の北側を大回りしているのだ。
 この『甲府盆地北側大回り』に雨宮敬次郎が大きく関係している。
 ことわざに『我田引水』という言葉があるのを皆さんはご存知だろうか。その中で、そうしたことわざに捻りをかけた『我田引鉄』というものがある。土地を所有している政治家や実業家、または会社の戦略などによって土地を引き寄せて鉄道を無理矢理通す事の言葉である。
 雨宮敬次郎はこの『我田引鉄』を中央本線で残したのだ。
 雨宮敬次郎は、現在の中央本線は塩山駅周辺の出身である。当時は牛奥村という村であった。
 彼は中央本線の開業時に、『わざと』生家のあった塩山駅方面に中央本線の線路を曲げ、塩山駅の開業にこじつけたのであった。
 この噂には諸説あるが、雨宮敬次郎は少なくとも『塩山駅開業』に力を発揮したとされており、後に雨宮敬次郎は塩山駅周辺の生家に中央本線の開業時。有力な政治家たちを招いて開業記念の祝賀宴を開催している。
 こうした背景に関しても、雨宮敬次郎による『我田引鉄』の背景として語られる証拠であり、この男が山梨県に大きな足跡を残した逸話として語り継がれているのである。

 車掌が放送を入れる。
「まもなく、塩山、塩山です…」
この時点で寝ようと思っていた体は眠りに付けず、空き始めた列車の車内を散歩して暇つぶしをしようとした。
 その中で、車両のトイレ横にこうした座席があるのを発見する。
 関西圏では近鉄がトイレ横にボックスの座席を設けているが、JRにもこうした座席があるのは初見であった。
「面白そうやし一応ここで座っとくかぁ」
乗車していたのはモハ車であったので、床下からはモーターの唸りを聴きつつ過ごしていたのだがトイレの設置されている車両・この座席のある車両はサハ車なのでモーターがない。(クハだったかな)
 なのでモーターの旋律は耳の遠くに、彼方に遠かったがこんな座席に座れるのも滅多にないのでこの場所で終着駅まで過ごした。
 そして列車は、甲斐大和・笹子・初狩…と中央本線を高尾に。立川に向かって走行していく。
 いよいよその時が来た。目を瞑った身体で迎える。
「まもなく、大月、大月です。この電車はこの駅までです…」
「おぉ、いよいよ着いたかっ…!」
しかし眠ろうとしていた中。眠気が回ってきた途端だったのであまりにも不意打ちであった。

予感

 荷物を抱えて、列車を降りる準備に向かう。扉横のボタンを押して降車だ。。
 駅に降りると
「ありがとうございました、大月、大月です…」
との駅員放送が流れている。瞼を上げた先の視界には痛い蛍光灯の光だ。
 そして大月の駅に降車すると外国語でのサインやポスター類がかなり目立った。
「おぉ、海外推しが目立つなぁ…」
この後、その底力を感じる事になるのだがまだ予想だにはしていなかった…
 しかし、薄々駅の中を歩いていると外国人の気配や聞き慣れない言語を耳にする。地元・京都で何度も感じた憂鬱を再び思った。急に自分の生活圏に戻されたような感覚だ。
 改札に向かって歩いていく。
「すいません、下車印を…」
改札で青春18きっぷを見せて降車。今回の分はここで終了だ。

 大月に降り立つと、多くの『東京』を感じさせるサインや文字を多く見かける。
「ここまで来たらもう関東やな…」
身体が感じていた。
 実際、この駅にも中央本線の直通電車として東京方面からオレンジ帯のE233系電車が入線し、更には後に記していくが富士急行にも乗り入れ大車輪の活躍を残している。
 さて、そんな大月駅から富士急行に乗り換えていこう。

 富士急行に乗り換える前に、先ずはこの大月駅の改札を。
 大月駅の改札は基本的にJRの自動改札機が並ぶ出口と富士急行の窓口・出札口がある方がある。
 自分が訪問した夜間でも、東京方面の玄関口として、富士登山の拠点駅として、多くの利用客が駅の周辺に流れていた。
 さて、ここから富士急行に乗車…となるのだが、先ずは青春18きっぷでこじ開けるようにして富士急行の改札に向かう。(ただし今回だけ)
 富士急行の路線内では、ICカードも使用できる。
 今回は大月から1駅程度の乗車だったので、敢えて料金は持っていたICカードで支払う事にした。
 富士急行に向かって改札内を進んでいくと、そこには懐かしい電車が自分を出迎えていた。

首都圏の顔

 富士急行の改札に移動し、ここからJRを離脱して富士急行線に乗車していく。
 富士急行では普通列車の他に特急が運転されているが、流石に夜中には運転していなかった。
 さて、改札内を移動して富士急行の電車を待ち受けていると…
 そこに停車していたのは見慣れた電車だった。
「すげぇな…本当に走ってるんだ…」
そこに停車していたのは、かつて東京都市圏で当たり前のように生活を支え走っていた205系電車であった。
 しかし、富士急行では車両形式を6000系・6700系に改名して活躍している。
 後にも記していくが、並んでいる左側。金色の富士山を描いた車両が6700系のトップナンバー編成で、かつて205系時代には埼玉県の八高線を走行していた。
 そして、水色に草原のラッピングがなされ、イギリスの人気鉄道アニメ『きかんしゃトーマス』のヘッドマークを装着している車両がは205系時代には埼玉県の川越と新宿を結び活躍していた埼京線で活躍した205系である。
 205系は大阪都市圏…JRは奈良線ではまだまだ現役の為、こうして中古に渡されている姿を見るとどうも違和感が拭えないが、そこは首都圏の車両代謝。あまりにも早い新天地に驚きつつ、車両を見ていき楽しんでいこう。

 そうこうしている間に、自分の乗車する予定の列車が入線してきた。
 こちらも205系電車。
 別に京王から譲渡されてきた車両も現在は在籍しているが、普通列車に関しては全ての列車が現在は205系…もとい6000系で運用されている。
 ただただこの顔の私鉄電車という事情には驚かされるばかりだ。
 すっかり夜も更けた大月の駅には、若干数の外国人観光客と地元の利用者の降車があった。
 富士急行はあくまでも私鉄とはいえ、乗客の出入りが非常に激しいイメージである。

 ちなみに。
 普通列車の時間帯が被ると、JRとの距離の近さからこうした211系・205系との共演も楽しむ事が可能である。
 しかしこの電車を、自分はどうしても『富士急行の6000系電車』と脳で認識できないのが非常に辛いところだ。
 どうしても幼少期からの刷り込みでJR東日本の『205系』と呼称してしまう。あまりにも致し方ない事なのだが。
 205系と211系の並ぶ光景。
 この場所はかつての東京都心で見られた京浜東北線と東海道本線ではない。
 山梨県の大月で広がっている光景だ。

 すっかりワンメイクしてしまった205系…もとい富士急行6000系だが、側面からは更に205系を感じる。
 往年の山手線を思わせるその側面は、富士急行に譲渡されても健在であった。むしろそのままの状態で活躍していること。
 そして活躍の屋号を変更してもJR時代の姿そのままの事実には改めての感動しかない。
「この田窓が本当に懐かしいんだよねぇ…」
おそらく闇夜の山梨県で勝手に幼少期に書籍で慣れ親しんだ姿との再会を喜んでいるのはこうして自分しかいないだろう。
 しかし本当に感覚の異変を起こしてくる異質な電車には変わりないのであった。

 なお。対面に停車している営業を終了したトーマスラッピングの電車に関しては、側面が異なっている。
 先ほどの写真の田の字のような窓に比較して、こちらは日の字を横にしたような窓だ。
 この形態に関しては京都でも奈良線で遭遇し、自分も京都府民なので伏見・宇治方面に用事のある際にはよく見かける窓である。
 先ほどの田の字窓との違いであるが、製造形態の差である。
 田の字の窓を持つ205系は初期製造の車両であり、103系や201系の隆盛を引き継ぐ首都圏・東京都心での通勤電車の語り部のような存在だ。
 ただ、この広窓の車両。トーマスラッピングの主張が激しいのはキズなのだが…

 初期に製造されたこの205系が現在も活躍しているのは鉄道趣味の感覚で見ると非常に奇跡なのだが、何処か見ていると懐かしさ…東京の発展に寄り添った歯車としての功績なども感じる。
 ただ、205系時代との比較差になってしまうのだが、車両としては扉閉ボタンの設置。そして車両外装の変更とこの2点だけである。
 205系時代には路線のラインカラーを背負って活躍した205系であったが、富士急行ではカラフルな水戸岡鋭治氏によるデザインを車体に纏っての活躍となっている。

 さて、いよいよ富士急行線を乗車していくとしよう。
 列車入線時、最初はそのまま開きっ放しの状態で開放していたが、車掌が乗車すると設定が変更され、乗客によって任意で開閉して乗車する方式に変更された。
 車体にはラッピングがされたり、建築家のデザインの手が入っているものの、こうして写真を切り取りを変えて見ていると本当に205系が降臨したかのような雰囲気になるのはやはり車両が残して成長した1つの部分と言えよう。

転職

 富士急行に乗り換え、いよいよ発車の時間がやってきた。
 しばらく山梨県に滞在はする…のだが、ここからしばらくは青春18きっぷを置いて富士急行の列車で旅をする。
 車両に乗車し、早速主張の激しいラッピングの圧力を受けた。
 内装は流石に205系時代の冷たい感じの内装ではなく、富士急行6000系として屋号を変更した事を車両自身が語っているような姿である。やはり水戸岡デザインは語りが濃い…。
 純真に『水戸岡鋭治』の安定的な力を発揮する。
 乗車するのは、大月から数えて2駅。田野倉である。
 車内放送の音声を聞いて乗車中、自分は思わず驚愕してしまった。
 車内放送は首都圏・JR東日本の自動放送で聴き馴染みのある三浦奈緒子氏によるものだったからである。
 この声を聞いてしまうと、思わず関東にきてしまった、引き寄せられてしまった…!と強力な主張に飲まれてしまう。
「お、おい…こんなん完全にJR東日本富士急行線やんけぇ…」
思わず笑いそうになりながらの乗車。
 おそらくはじめての乗車でこんな事を考えているのは自分くらいではないだろうか。

闇を進みし慣れた電車

 富士急行線の普通列車に乗車していく。
 といってもこの時間帯に富士急行で優等列車は走行していないので、必然的に205系メイクの6000系電車による普通列車ばかりがこの時間帯には走行しているので、実質『205系の王国』のような状態になっている。
 写真は、大月から乗車する予定の列車を撮影したものである。
 この時点で車両の写真を見てみると、完全に205系である。
 ただし違う事があるとすれば、205系時代には『普通』と表記する種別表示がなかった事だろうか。205系時代は快速運転をする際などに種別表示が稼働しており、この点が205系と富士急6000系では異なる。
 さて、列車は疎な乗客を受け入れて大月駅を発車した。
 中にはまだ現在の富士急行の稼ぎ頭である外国人観光客も混ざっていたが、それほど多い人数ではない。

 ガタン、ガタンゴトン、ガタンゴトトン…っとゆっくりゆっくりポイントを開けて進み、列車は次の駅である上大月に向かって進んでいく。
 車内放送が鳴動した。車窓はもう21時を回って闇夜に差し掛かっているので、現在の富士急行で楽しめるのはこの車内放送くらいだ。
「この電車は、普通、河口湖行きです。」
完全にJR東日本で聞きなれた三浦氏の放送が流れている。
 まさか205系も譲渡された先の会社で、古巣と同じ車内放送を当てがわれ営業に就くなんて考えもしなかっただろう。
「次は、上大月、上大月です。お出口は、左側です。」
三浦氏の放送の中に、いくつか車掌の放送も入ってくるがやはり三浦放送の主張が激しい。
 そして英語放送も付帯されており、この英語放送に関してもJR東日本でよく聞き慣れた自動放送が付帯されていた。
「こんなん完全に車内放送だけ聞いてしまったらJRの支線やな…」
あまりにもその感想しか出ない放送。
 そんな放送で楽しんでいたところ、いよいよ列車は次の駅である上大月に到着した。

 列車は更に先を進んでいく。この次の駅が、自分の今日宿泊する宿のある駅である田野倉である。
「次は、田野倉、田野倉です。」
完全に東日本聞き馴染みのあの放送の後に、英語放送が流れる。
 今日は短い旅であったが、翌日は本格的な富士急行の旅路に乗って先を目指していく。
 走行している感じに関しては、あまり205系と遜色のない走りであった。むしろ、富士急行とJR東日本時代との差を比較する方が難しいのではないだろうか。
「まもなく、田野倉、田野倉、お出口は、左側です。」
 韮崎から乗り続けた旅が終結しようとしている。
 列車がゆっくりと闇夜の中にある小さな駅に停車し、扉を開けた。
「え、えっらい暗い駅やなぁ…」
そこまで駅に大きな照明設備などはなく、照明と言える照明は列車の前照灯と室内灯くらいであった。
 降車して写真を撮影。
 その写真がこの掲載写真である。
「この駅で、列車の行き違いを行います。発車まで、しばらくお待ちください。」
 車掌の案内放送が聞こえる。前照灯の先にも見えたが、どうやら先で線路が分岐している。この駅で大月方面と河口湖方面の列車が交換をするようだ。
 折角なので行き違いを撮影してから駅を離れるとしよう。

田野倉駅(夜)

 しばらくすると、踏切が鳴動した。
 奥から同じような列車が顔を覗かせる。
 前照灯越しに対向の列車を光らせ、行き違いの様子を撮影した。
 車両自体は何度も示すように完全に205系なのでJR東日本の何処かで撮影したようにしか見えないが、車両に施されたメイクでようやく『富士急行』と視認できるくらいである。
『タタッ、ガタンっ、ガタンガタタンっ…』
 大月方面に向かう列車も田野倉に入線してきた。

 自分の腕が秀でていない、そしてカメラの腕が追いつかない状況なので恐縮な写真となってしまったのだが、
 列車が行き違う様子である。
 ここまで暗いと富士急行メイクは消えてしまうので、やはり205系同士の行き違いの展開に見えてしまうのは仕方ない。
 ただ、撮影して知った事がある。
 田野倉駅のホームはズレて設置されており、大月方面のホームと河口湖方面のホームが踏切を隔てて互いに置かれているのだ。
 撮影してから知った失態であった。
 行き違いと知らされて、自分は顔が2つ並んだあの様子を撮影できるとばかり勘違いしていた。
 ま、結果的に列車の顔同士が並んだのは良しにしますか。
 その後、大月方面の列車と。自分の乗車した河口湖方面の列車は互いに出発していった。
 田野倉駅は列車が来る前と同じ、静寂の空気に包まれた。
 しかし陽が出ていない時間にこうした無人の行き違い駅に降り立つと恐怖しか感じない。
 あまりにも不安を煽られるばかりである。

 駅舎に関しては夜中の更けた時間帯だったので撮影は出来ず…として、改札部分だけを記録した。
 木造のローカルな駅舎である。
 都心の鉄道とは違った、趣のある駅構内だ。
 改札には現代の交通手段らしく、ICカードのリーダーが設置されている。
 但し窓口に関しては完全休業状態であり、その点が駅の寂しさを強調させていた。
 ちなみに後の連載で登場するのだが、富士急行にはJRとの直通運転…東京・高尾方面との直通を行っている列車も存在する。
 東京から乗り換えなしでこうした場所に訪問できるなど、想像が付くだろうか。
 駅構内は埃を被った写真の展示などがある。
 しかし、そうした出迎えの装備も虚しい駅の状況は見ていて辛いものだった。
 そしてやはり思う事だが、人気がないので怖い。
「おいおい、大丈夫なんかコレ…」
田野倉駅は駅舎を一歩外に出ると、灯りがほとんどなかった。駅前のアパートも灯りが煌々と光っているわけではなく不気味だ。
 一応、初見の土地なので地図アプリを起動して宿に向かう。こんな調子で果たして到着するのだろうか。

恐怖の下見

 田野倉駅を出て歩き、宿に向かっての徒歩移動をしている最中だった。
 駅を少し曲りくねった後に、富士急行の線路沿いに出る。
 線路沿いを歩いている状況を利用して、宿をチェックアウトしてからの撮影地探しに目を向けていた。ある意味で下見である。
 灯のほとんど見えない場所を、ああでもないこうでもないと撮影地探しにあくせか動くのは少し楽しかった…が、その最中だった。
『ガサガサガサガサっ!!』
と線路際から生き物の去る音が聞こえるのである。
「ん??ま、まさか鹿…?猪…?」
富士急行線自体、決して都会の路線ではないので少しは覚悟していた事だったが、いきなりその洗礼を浴びるとは。
 一歩間違えればその姿を観測していただけに、自分では少し身の毛もよだつ体験であった。
 再び、宿探しを再開だ…
 果たして到着するのだろうか?

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