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身体として生きる自由 ~運だけが味方(敵)~

唯物論がおかしいと思うのは競争原理に救いがなくなるから、というのもある。逆に言えば唯物論にさえ疑問を持てば、地球世界の現実というのも悪くないと思える。現実を否定して逃避するのもどうかと思うが、現実に埋もれすぎるのも現実的ではない。現実を物の世界だと思うことが一番非現実的なのだ。

物の世界とは物の関係だけで因果関係が閉じているということだ。そう言われたら疑問を持つ人も多いだろう。それでもクールに振舞いたい人の中には、精神や心の要素もまた物の動きに最終的には帰着すると主張するかもしれないが、証明されたわけでもないので信仰の域を出ない。…熱くならないでほしい。

私は信仰を否定しない。むしろ宇宙は信仰の塊だ。想像にしろ感覚にしろ認められるものは全て信じたことだけなのだから。論理の絶対性を標榜しない以上、別に矛盾を抱えたくらいで困惑したりはしないが、たいていの矛盾はそれより上位の概念で止揚できる。だからこそ世界は進化が可能になったのだが、唯物論だと進化の原理は淘汰しかない。

物から出発して、精神の精妙さを生みだす構造を創造するよりは、精神から出発して物を想起する構造を創造するほうがはるかに容易だ。機能を想定した設計図ができてから物を始めとした構造が決まる。物が(始原の)機能であるというのは非常に考えにくいが、精神が機能ならば言葉も意味も道理も物理も全てをひとつの想念で囲うことができる。全てがその機能のための構造と解釈される。(機能の方が始原であり、かつ目的なのだ。ケテルの上が世界の機能で、マルクトへ向かって構造化されている。止揚は機能に向かい、淘汰は構造化する。)


少し脱線するが、逆説的な話だがこの世界の住民であることを強く自覚していると、この世界の理想的な姿を思い描くのはほとんど不可能だ。この世界の住人になり得ることを深く認めたうえで、この世界の住人としてではなく、それを外から眺め得る立場にならないと世界の理想は描けない。これは作家系のクリエイターの仕事に近い。

実はこのことは世界に限らず、国、地方、家、私にもあてはまってしまう。私の本質(最小単位)が宇宙(最大単位)と等価であることに目覚めないと、世界の中、国の中、地方の中、家の中、私(肉体)の中という呪縛から自由にはなれない。そして~の中にいる限り、~の中で許される自由だけを享受し、~の中で設定される責任を枷だと感じてしまう。

実際には責任があるからこそ自由は素晴らしいのだし、その認識に達すことによって、本当の意味で自由を愛せるようになる。だから責任と自由の結ばれる構造の読み解きこそが、今縛られている内部から外部に飛び出すための鍵である。責任などわかってしまえばどうってことはない。むしろ責任の在処を自覚するから、自由に対して無自覚であることをやめられる。(自由を自覚できることが最も自由だ。カントの自由も同じように解釈すべきだ。)

物の中で生きることにほとんど自由はないが、そういう読み解きはしないですむので楽は楽だろう。そして、責任が押し寄せた時は、運が悪かった、で片付くのだから。(見る人が見れば自業自得、という現象は、俯瞰的に見ているときにはよくわかるものだが。俯瞰的に見られるのは自分ではなく、他人のことであることがほとんどだ。)

そして、それが身体として(物の中で)生きるということだ。

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