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何事も「適材適所」で、そして休息を


真実は、残酷である。正しいことや優しいことの恩恵は、失敗しない人だけの特権なのかもしれない。例え、そうだったとしても、僕らは生きねばならない。そう、生きて生きて生き続けて、僕らは溢れるほどの幸福を持つ人々に間違っていることを証明し続けなければならない。



たくさん傷ついてたから、たくさん苦しんだから

そろそろ「向き不向き」を認められるようになってきた。

しかし、それでも僕の場合は、自分に合わない世界に縛られ続けなければならない。それは一種の呪いなのかもしれないけど。

さすがに、この仕事向いてないなって出来事があった。


「あれ?自分ってこんなに何もできないひとだったけ?」


って思うほど仕事がうまくいかない。単調なことの繰り返しは構わないが、そこに暗黙のルールやころころと変わるマイナールールのオンパレード。加えて、細々したことをネチネチと求められる仕事は追い付いていけない。

これまでは、人のサポートや管理側で全体を見ることが多かった。計画や調整、調査も外回りもイレギュラーなことは多発するし、細々よりもさらに細かいこともあったけれど、可動域のある真面目さでカバーできることがあった。

別に、辞めてしまえばいいことなのかもしれない。

諦められないことのための繋ぎなのだから。

この経験も僕は力になると思うし、知識や行動に生かすことができるだろう。やはり、人は能力の違いや向き不向きを適正に的確に評価し、短い期間でも様々な経験をさせて、自分の得意な仕事につくことが大切なのだと。もちろん、やりたいことと適性が違うこともあるだろう。その場合であっても、やりたいことも適性のあることも経験できれば自ら答えを導きだせるものだと思う。

自分は、楽しかったこともできたなーと思うこと自体、少ししか経験できなかった。まして、やりたかった仕事はしたことないし、適性のある仕事を見出してもらえなかった。

いつも遠回りで、別の視点から大切なことに気が付くのは「特性」なのかもしれないけれど、とても苦しくなってしまう。


合わない世界にいる限り、常にHPが減っていく異常状態になっているわけだ。それを回復させたり、止まらせるためには「休息」が必要になる。

世界を脱出するための準備は、その世界でしなければならない。

でも、僕は「環境からの縛り」がついてしまう。


甘えてはいけない、孤独な闘い、休んではいけない、頼ってはいけない


多くの人よりもハードモードは理解しているし、散々語ってきた。

でも、どうして僕は甘えてはいけないのだろうか。誰かに寄り掛かることも許されないのだろうか。誰もが誰かに支えられているのに、僕は自分の足で一人立っている。それは弱さの証拠なのだけど。

休息は、人に甘えること、愛されること、そして守られることが一番なのである。

それさえあれば、苦しみで溢れている世界でも生きられる。

自分自身が綺麗な湖のほとりにしか咲けない花でもあっても、砂漠の水のない寒暖の差が激しい場所でも生きていける。

辞めてしまえばいい。新しいことを見つければいい。

でも、何も揃ってないなかでの一からスタートは、とても力のいることである。孤独で愛されない僕には、地獄の苦痛が伴うため易々とは行動に移せない。


だから思うのだ。やはり真実はこうなのだと。

普通のレールを外れれば、己の適性や能力はないものになる。正しく自分を評価されることなくなるし、色々な道を試すことはできなくなってしまう。自分を守るために、正しい方法を使用できなくなる。傷ついた体や心は、差別の対象であること。そして、助けてもらえるのは子犬や子猫だけだということも。

そうなのだから、突発的に世界を変えなくてはならなくなる。

それが「人を傷つけるか、己を傷つけるか」の小さな違いなのである。


真実の適材適所は、可能性を無限に認めてもらえる空間。

でも現実は、レールから外れた者には与えられない夢の場所。


世界の残酷さに、ただ笑って、立ち尽くして、休むしかない。



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