私が私であるうちに選べる権利
以前、下記のことを書いたけれど
再度考えてみたい事がでてきた。
突然、ふと何かの巡り合わせかのように出会ってしまうものがある。
そのドキュメンタリーを見たら、思いが溢れてしまった。
今更ながら「彼女は安楽死を選んだ」という番組を見た。
この時代では治癒できない病を背負いながらも、現時点で自分の意思で選択を行使できる間に、自分の人生を決められる手段(権利)は必要なことだと思う。
今の時点では、僕は幸いにも治癒できない病は持っていない。しかし、僕が選べる立場になれるのなら、今すぐにでも選びたいと正直に思ってしまった。
なぜかというと、それは僕が僕の人生を歩めないからである。死ぬ物狂いになっても、夢や希望、愛も全て得ることができない。そして、悪とされる人間だけが助けられてしまうからである。
僕が僕の人生を取り戻すために、あらゆることを講じても社会は許してくれない。助けてはくれない。あの時点で奪われてしまったから、そこから失敗し続けてしまったからと。
ギリギリの中で生きて、いつも底辺で戦って、それでも何かを見出し続けて、それでも僕の世界は変わらない。あの子たちだけが、幸せを手に入れてしまうと、僕だけ苦しんでいるのはおかしいだろうと思ってしまう。
冷静にグチャグチャな自分の人生を見てしまえば、それこそ選択肢や権利を行使できる前に壊れてしまう。その経験さえもよかったと思えるのは、その地獄から抜け出せた場合のみである。そして、その地獄から抜け出せる確率はほぼ皆無になりつつある。年齢制限や無意味な点数主義、幸福な経歴重視、ルッキズム、政権不安、当たり前や普通であることを最優先事項とする人間社会などから。
首の皮一枚で繋がる世界に、無理にしがみつき、自分のしたくないことをして、妥協して妥協して、孤独に戦い、最後に一人ぼっちで自分の人生を「よかった」と思えずに終わるぐらいなら
まだこの時点で「悪い夢が長かったな、早く元の世界に戻ろう」と眠りにつく方がいいと感じた。
それでも今は、僕は選ぶことができない立場である。
だから今は最悪な世界から、少しでも最良の世界にする為に行動している。もちろん確実ではないから、心の崩壊とのチキンレースかもしれない。
みんなが思うほど戦いは楽ではない。
安息もなく孤独に生き続けるのは言葉にならないものがある。
それでも僕は戦い続けなくてはならない。だから、もし選べるならば選びたいと思ってしまった。
自分のまま、自分があるまま、自分が自分として生きれる間に、死を選ぶことはいけないことなのだろうか。
五体満足に生きれても、社会から排除され、愛されず、自分の責任だけじゃなく苦しみ、自己実現ができないなかで生きていくのは幸福なことなのだろうか。
いくら助けてを求めてもダメなのならば
最後にそのような助けがあってもいいように思う。
選択肢も愛も叶える権利も、僕は平等に与えられるべきだと思う。しかし、それをどう行使するのか、それをどのように続けていくか、結果を残すかまでは保障するべきではない。
一見、平等に見えるような権利も、多くの前提条件を有していれば本当の平等ではない。
どこに逃げるにもお金は必要であるし、逃げれることにも恵まれが大きく関わる。
そう思うと僕はどうして生きれているのか。
多分、いつもの事ながら、信じているんだろう。
幸せになれるだろうと。
夢はルポライターなどです。(/・ω・)/「声なき声を」届けることや草の根活動を頑張っている人や世に出せるように、そのために使えたらなと思います。