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どこにもいない世界ー報われぬ・理解されぬ思いの矛先はー


川崎の事件は、犯行を行った当事者が亡くなっているため真実は分からない。しかし、その全貌が徐々に明らかになってきている。

あくまでも、「どのような人生を歩んできたのか」という視点である。

1番目を引くものは、家族構成である。そして、犯人自身が「引きこもりの傾向(家族や川崎市の意見)」であったこと。

ある報道では、手紙のやり取りをしているときに「ないもの」として扱われることに嫌悪感を抱いている節もあったと聞いた。

このどれにも正解があるわけではない。

事実としてそういう現象が起こっていた、ということしか言えない。

ただ確実に言えるのは


犯人自身が、社会から排除される側にいたということである。多分それは、自分の責任ではないのにも関わらずなってしまったということ。


どこにもいないとされてしまう感情や
大勢の人がいるのに存在が認知されていない感覚。

これらは、「経験」しないことにはわかるないものである。経験していたとしても、言語化できない、できても意味が通じないことが多い。

なんとなくわかっている人もいるが、僕も今似たような状況であるから理解したくないほどに理解してしまう。

つい先日、自分の人生の終わりが見えたときに、どこにもきっといないと感じた僕が、1番苦しかったときの文章を読んで欲しい。

事件の起きる数日前に書いたもので


どこにも存在してない僕
終わってしまった僕に未来を考える力はない。
ただ街を歩いていると、たくさんの気づきはある。
こんな人にはなりたくない
こういう生き方はしたくない
もっとはやく気が付いていればなんてことを思う人たちがいる。
変に僕はプライドだけが残ってしまったということか、いやそうじゃない。それさえを失ってしまったら、本当に終わってしまうことを知っているから。
図書館で喧嘩をする人
真昼間から軒先きで立ちションベンをする人
盲目的に生きて追われる人
この先に待ち受ける世界を先送りにする人
このままぼくも同じになるだろうか。
ある哲学者の思想背景に
「考えられなくなってしまったこと」とというのがある。
一歩でも社会に出れば考えられなくなってしまったことが溢れている。
僕はどこにもいない
僕はどこにもいない
この矛先は見て見ぬふりをする人たちに伝えないと。


だからこの事件が起こった時、そして、事件の背景が少しずつ見えるようになってくるとざわめきを覚えた。

矛先を向けるには、理解してくれない、助けてくれない人に向けるのが正しい行為だと思う。


ただ自分の幸せのみを追求し、弱い者をなき者にした人は幸福になり

様々な困難に合い、闘い続けて、挫けてしまったものには不幸しかない。


そんなふざけた社会や人ならいなくても構わない。

自分ができる最後の手段は、生きた証を残すために誰にもできないことをしよう。そう、これで最後だから、どうせ助けても、わかってもくれないのだから。

そう思う気持ちはとてもよくわかる。


ただ見ず知らずの人を殺めていいのか、という問いにはNOである。

仮に殺してもいいのは、直接的に苦しめた人間のみである。


この世界は、大人しくしていても、行動しても、何をしても人は助けてくれることはない。自分の人生は自分で切り開かなければならない。

しかし、うまくいっている人のほとんどは「必ず助けが入っている」

本当の意味で闘い続け、「ないもの」にされているほど、自分の力で生きている。

だからどうか助けを求めている人がいたら助けてあげて欲しい。

どうか、どうか、根気よく、自分が幸福になっているとき人に助けてもらったように。

どうか、どうか、お願いいたします。


夢はルポライターなどです。(/・ω・)/「声なき声を」届けることや草の根活動を頑張っている人や世に出せるように、そのために使えたらなと思います。