見出し画像

すべての命は尊い・・・とは言いたいけれど(中国への道㉔)


山中でこうも毎日まいにち殺す日々を送っていると、
(「すべての」とはちょっと言えないな・・・)
という気がしてくる。
いにしえのブッダだけではなく、現代でもたとえば気合の入ったジャイナ教の信者のかたがたなどはアヒンサー(非暴力/不殺)を貫いて生きておられるわけだが、本当にそれは尊敬するほかない。

私など、蚊を見つければ叩き殺し、小アブにたかられれば逆上するという心の狭さだ。
しかし、こうして自分にとっての害虫と関わらざるを得ない生活をしていると、アヒンサーの凄みが実感できるということはある。山中でさえないそのへんのヤブ蚊の多い茂みなどへ行くだけで、ブッダたちの偉大さを思い知ることができるのではないかとも思う。

博愛精神からアヒンサーを貫けるなら大したものだが、そうでなければ、今一度「どのぐらいの命から自分は尊く感じるか」ということを考えてみるのも悪くないと思う。

しかしよくよく考えると、むしろ尊く感じる命の持ち主である獣たちをバカスカと食べ、まったく尊く感じない害虫たちを食べないというのは何という逆説的なことだろうか・・・でもなあ、不味そうなんだよなあ、虫って。

いっちょう中国で蒙を開いてくれるような昆虫食に出会えればとも思うが、いかんせん見てくれがきつい。幼少のころから昆虫食に慣れ親しんでいれば話は別なのだが。早期英才教育ということでいうと、語学もそうだろうが、これからは昆虫食ではなかろうか。むろんコオロギ利権は論外だが、昆虫が食えるというのは得難いサバイバル能力になることは間違いない。

どうも命を論じると食う話になってしまう。

*写真はベトナムで食べたもの。手塚治虫先生の『火の鳥(宇宙編)』で牧村が食ったアレそのものだった。孵化しかけのアヒルの卵は美味そうとしか思わなかったが(そして実際に美味かった)、こっちは精神的にキた。いうまでもなく完食したが。そして美味かったが。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?