「六角形の小部屋」 小川洋子 「薬指の標本」より
「ここまでたどり着けたことが大事なのよね」
「六角形の小部屋」 小川洋子 「薬指の標本」より
僕は、自分自身のことをどれだけ知っているんだろう? どれだけ解っているんだろう?
本当はおしゃべりが好きなのに、みんなといるとしゃべれなくなってしまう。
人から見るとおとなしい寡黙な人に見られてしまう。
自分から見る自分と、人から見る自分とでは大きな乖離がある。
では
どちらの自分が本当の自分なんだろう?
そんなことや
偶然起こったことが実は偶然なんかではなく、必然であるのではないか?
人生において、偶然起こったような出来事でも、実は必然の過程で偶然が引き起こされているのではないか?
偶然違う道を通ったことによって、事故に遭わなかったとか、いつもより早く電車に乗ったら好きな子が乗っていたとか。
でも
それは偶然のように見えて、はじめから違う道を通るようになっていたのかもしれないし、いつもより早く電車に乗るようになっていたのかもしれない。
そんなことを考えながらこの小説を読んだとき、それらの問に応えてくれたかのような心地よい風が、ふわっと通り過ぎたように感じたのです。
◇
「わたし」は医科大学の事務をしています。わたしがスポーツクラブのプールに通うようになったのは、ある朝目が覚めたときにひどく背骨が痛かったからなんです。
突然の痛み、「痛みの塊」が空から降ってきたみたいに痛み出したのです。
「骨に異常はない」と整骨院の医者は言いました。
「暖かくして安静にし、痛みが和らいできたら水泳をするとよい」そう言って、スポーツクラブを彼女(わたし)に紹介しました。
わたしはスポーツクラブの更衣室で、ミドリさんという女性に心を奪われます。なぜだかわかりません。
老婦人が髪を乾かしている間、お連れのミドリさんは待たされていました。わたしは普段なら絶対にしないような行動を、ミドリさんにしてしまうのです。
わたしは、老婦人より十くらい若く見えるミドリさんの隣に座り、話しかけました。ミドリさんに次から次へと質問しました。
その後もスポーツクラブで何度かミドリさんを見かけると、ミドリさんのことをターゲットスコープしました。
仕事帰りにスーパーマーケットに立ち寄ったとき、老婦人といっしょにミドリさんがいました。わたしは、衝動的に買い物帰りの2人を尾行します。
公園から暗い林に入り、しばらく歩いていると、突如目の前が開けました。2人は、そこにあった2階建ての少し大きな建物に入って行きます。
カーテンの隙間から建物の中を覗いてみると、誰かの手がわたしの背中に触れました。
若い男がそこに立っていました。
建物に招き入れられたわたしは、なんのことかわからずに不安になります。
ミドリさんはイスに座って編み物していた手を止め、驚きもしない様子でわたしに声を掛けました。
わたしは恐る恐る「空くって、どこに入るのですか?」と訊ねます。
ミドリさんと彼は顔を見合わせ
と言いました。
部屋の片隅には、六角柱の木製でこげ茶色の「カタリコベヤ」がありました。
部屋の中には、ベンチと天井から吊り下げられたランプしかありません。その他に余計な物は何もありませんでした。
2人はわたしにその部屋の中に入って語るだけだといいます。誰も聞いていません。ミドリさんもユズルさん(若い男、ミドリさんの息子)も誰も聞きません。盗聴器とかもありません。宗教のようなものでもありません。その部屋の中に入ってただ語るだけだと。
そんな部屋に客が来るのかと思うのですが、「カタリコベヤ」を必要としている人は結構いたのです。
わたしは「何のためにここでカタリコベヤを開いているのか?」とユズルさんに訊ねました。ユズルさんは、一番適切な表現では「商売」だと言いました。
語り終わった人が部屋から出てくると、机の上にあるガラスの器にお金を入れて行きました。
順番がきたわたしは、「カタリコベヤ」に入り、別れた彼のことを語ります。
同じ医科大の医師であった彼を、わたしはある出来事を境に振ってしまいました。急に彼のことが嫌いになってしまったのです。
彼はまだわたしのことをあきらめていません。なので、余計に彼のことが嫌いになっているといいます。また、彼と別れた後に起こった誰にも語ったことない秘密について「カタリコベヤ」の中で語るのでした。
わたしはどうして「カタリコベヤ」に導かれたのだろう?
ミドリさんは、わたしにこんなことを言ったのです。
わたしは「カタリコベヤ」に通ううちに、「カタリコベヤ」がなくてはならない場所になっていました。
ユズルさんは言いました。
語り小部屋が役に立つのは、その人の人生のほんのひとときでしかないんだ。
自分の人生で重要な時期に「カタリコベヤ」が必要になるときがやってくるのでしょうか?
「わたし」にとっては、結婚を決める重要な時期でありました。
でも
わたしは彼のことが本当に好きでなかったのかもしれない。 本当に必要でなかったのかもしれない。そのことについて深く考えたことがなかったのかもしれない
わたしは「カタリコベヤ」でこう言いました。
「自分の意識の沼にどこまでも深く降りて行きたかった」
わたしは人生のひととき、この「カタリコベヤ」の中に入って「意識の沼」に降りてゆきました。
深く深く自分の中に降りて行きました。
そのように
本当の自分を探るほんのひとときが、人生のあるタイミングでやってくるのかもしれません。
人生のほんのひととき
あなたなら「カタリコベヤ」で何を語りますか?
【出典】
「六角形の小部屋」 小川洋子 「薬指の標本」より
いつも読んでいただきまして、ありがとうございます。それだけで十分ありがたいです。