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万葉集と私

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万葉人にとって和歌は日常の表現のひとつ、生きた文芸だと思う。いや文芸というのではなく、生活のひとつの行為に過ぎない。どういうシチュエーションで作られたかが非常に気になる。学べば新… もっと読む
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万葉の歌 富士の柴原

万葉の歌 富士の柴原

富士山も、遠方の人にとって美しい山だが、そこに住む人にとっては全く別の思いがするようだ。万葉集の駿河国の東歌に富士の裾野の広さを歌ったものがある。

天の原富士の柴原木の暗の時移りなばあはずかもあらむ(巻14-3355)

富士の山麓に柴がしげれる広大な裾野が広かっていた。鬱蒼とした森の中は薄暗い。愛する人のもとに行くのも大変だった。まごまごしていると夕暮れが深くなって、会いに行くことができなくな

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万葉の歌「新しき年のはじめ」の三首

万葉の歌「新しき年のはじめ」の三首

年賀状の祝辞につい書きたくなるのが万葉集の最後の短歌「新しき年の始めの初春の今日降る雪のいや重け吉事」である。万葉集最後の歌であるとともに記録に残る大伴家持の最後の短歌である。雪は瑞祥で目出度いものとされるが、初雪を歌った「新しき年のはじめ」で始まる短歌が三首(746年、751年、759年)あり、政情の変化につれて、大伴家持の心情の推移が偲ばれて興味深い。

746年 
新しき年のはじめに豊の年し

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万葉の歌と勤労感謝の日

万葉の歌と勤労感謝の日

 にほどりの葛飾早稲を饗(にへ)すとも
 そのかなしきを外に立てめやも 
 (万葉集 巻14―3386)

勤労感謝の日は、古代から天皇が今年の収穫物を神々に供えて感謝する「新嘗祭」という祭事に由来するものであるらしい。この秋の収穫を祝い、氏神に捧げることは、何も天皇家だけの行事ではなく、古代から民衆が行ってきた。

神社への新米の奉納は、税金のはじまりで、稲穂料にその名残りがあると言われることが

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万葉の歌 夕闇は道たづたづし

万葉の歌 夕闇は道たづたづし

万葉集を紐解くと、人を思いやる歌に出会い心慰められる。当時は、交通が未整備だったので、旅をする時ばかりでなく、日常の通行も至難だった。そういうたどたどしい道を行く人を思いやる歌が多い。これもそのひとつ。

豊前国の娘子大宅女の歌
夕やみは路たづたづし 月待ちて行かせ吾背子 その間にも見む (巻4-709)

夕闇は真っ暗で道もたどたどしいですから、月が出るまで待って、それからお帰りなさい。その間に

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和歌の不得手な万葉人

和歌の不得手な万葉人

万葉の時代だからといって、誰もが和歌を作るのに秀でていたというわけではなさそうである。現代のわれわれにも、生れ育った環境のせいか、性に合わないためか、皆ができることをうまくできずに不器用に生きるしかないことがあるが、誰もが和歌を作ったと思われる万葉の時代でも和歌の不得手な人はいた。秦朝元のことである。

天平18(746)年正月、白雪がたくさん降って、地に積もること数寸に達した日、宮中では元明太上

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遣新羅使人に歌われた柿本人麻呂の古歌

遣新羅使人に歌われた柿本人麻呂の古歌

万葉の時代は、例えば旅路の時のように、時と所に当たり古歌を自由に使い、旅の心情を陳べることがあった。万葉集を開くと、巻15(遣新羅使人等の歌)の中に柿本人麻呂の歌らしき歌6首に添えて柿本人麻呂の歌に曰くの注記がある。その最初の歌を見てみると、

玉藻刈るを乎等女を過ぎて夏草の野島が崎にいほりす吾は (巻15-3606)
 柿本朝臣人麻呂の歌に曰く、敏馬(みねめ)を過ぎて、又曰く、船近づきぬ

敏馬

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「あをによし寧楽の京師は」平城京に帰りたい

「あをによし寧楽の京師は」平城京に帰りたい

万葉集巻3-328から始まる一連の歌には表題がないが、天平元(729)年に奈良から大宰府に着任したばかりの大宰少弐小野老の歓迎の宴と考えられ、小野老のあおによしの短歌から始まっている。宴会に参加した者たちの心情が述べられていて、その様子を自由に想像してみるのが楽しい。

大宰府に着いたばかりの小野老に大宰帥大伴旅人が「近頃の奈良の都の様子はいかがかな」と尋ねた。

「奈良の都は今はあちあちで花が咲

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大伴家持の鰻(むなぎ)の戯れ歌

大伴家持の鰻(むなぎ)の戯れ歌

7月30日は夏土用の丑の日だというので鰻重弁当がスーパーの食品売場に並んでいた。鰻と言えば、万葉集に大伴家持が鰻を読んだ短歌があったと思い、頁をパラパラとめくって探した。ウェブで検索すればすぐ見つかるとは思うが、見当をつけて時間をかけて探すのも楽しい。かつて書庫に入り膨大な本をブラウジングしたことが思い出される。検索は、目指すひとつのものしか見つからない。ブラウジングのように広く探す方法は、新たな

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万葉の歌 み熊野の浦の浜木綿

万葉の歌 み熊野の浦の浜木綿

紀伊半島の南端の串本に行ったとき、潮岬灯台の下に浜木綿の小さな群生があった。これが熊野灘の天然の浜木綿かと多少感動したのを覚えている。万葉集の柿本人麻呂の歌「み熊野の浦の浜木綿百重なす心は思へど直に逢わぬかも」が好きだったから、それを口ずさむでみたくなり「みくまのの〜うらのはまゆう ももえ〜なす こころはもえど〜 ただにあわぬかも」と小さくだがゆっくり詠った。暮のことだったが南国の太陽が温かく感じ

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万葉集の常套句

万葉集の常套句

万葉集を紐解くと常套句といえる語句が数多く散見される。著作権で身動きとれない文芸風土の現代と比べると和歌に対して大らかな万葉の人たちの姿が浮かんでくる。

例えば「見れど飽かぬ」が入った歌は、万葉集中に40首ほど散見され、常套的に使われている。
 見れど飽かぬ吉野の川の常なめの絶ゆることなくまた還り見む (柿本人麻呂)
 昼見れど飽かぬ田子の浦大王の命畏み夜見つるかも
 若狭なる三方の海の浜清みい

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万葉の歌 白崎は幸く在り待て

万葉の歌 白崎は幸く在り待て

白崎は幸くあり待て 大船に真梶繁貫き またかへり見む (万1668)

好きな万葉の歌のひとつだ。和歌山県の白崎海岸は、白亜の崖がうつくしい海岸として知られている。万葉の昔から風光明媚な海岸として名高かった。

万葉人は船からの景色を楽しんだのだろう。白崎よ、いつまでも今のまま無事であっておくれ、そうしたら大きな船に乗ってまた見に返ってくるよと歌う。

この白崎を擬人化して人に贈りたくなる。

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万葉の歌 桜田へ鶴鳴き渡る

万葉の歌 桜田へ鶴鳴き渡る

作良田(さくらだ)へ鶴鳴き渡る 年魚市(あゆち)潟 潮干にけらし 鶴鳴き渡る(万271)
作者高市黒人は、持統上皇・文武天皇期の官僚歌人で持統上皇の三河国行幸(702年)に従っている。

和歌だけ読めば、「桜田の方に鶴が鳴いて渡っていくよ 年魚市潟の潮が引いたみたいだ 鶴が鳴いて渡っていくよ」という意味だが、桜田と年魚市潟のふたつの地名と作者の位置関係が分かりにくいので、少し考えてみたい。

当時

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大学の宿題 万葉百選 我が背子を大和へ遣ると

大学の宿題 万葉百選 我が背子を大和へ遣ると

大学の夏休みの宿題に万葉集を100首選べというのがあった。4千数百首から100首を選べというのだ。それには、万葉集すべての歌を読まなくてはならない。ひと夏でやれる作業なのか、そう思った。

斎藤茂吉の万葉秀歌などから写してくればよかったのだろうが、そうしなかった。未提出のまま不可の点がついた。そのことがいつまでも心にあった。いつか百首を選ぼうと思いつつ、今となっている。

今日は、その宿題の一首で

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万葉集を朗詠する

万葉集を朗詠する

万葉集は散文的に読むよりは、声に出して朗詠する方が気持ちが伝わってきて好きだ。

もともと和歌は生活の歌であって、文芸作品ではない。和歌というのだからメロディとリズムがある。どのような場所で歌われたかが重要だ。挽歌は、文字通り棺を挽くときに歌う死者を弔うための歌である。国見歌は国土の繁栄を願って小高い丘に登り歌う歌だ。「うまし国ぞ、うまし国ぞ」と国土を褒めたたえる。言霊の力を信じて神々に歌により語

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