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もっと、理解されない生き方を。もっと、誰もやっていない生き方を。

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“自分を理解してもらいたい願望”が強い人ほど、他人に対して批評家のようなスタンスを取りたがる傾向がある。そんな人ほど、狭い世界でしか生きてこれなかった人生の軌跡を晒していることに気が付かない。

人は自分に足りないものを充足するのではなく、なぜか同じ境遇にあると思う人を嗅ぎ付け、つまらない争いを勝手に仕掛けようとする。いわゆる、奴隷の鎖自慢というやつである。

わたしが尊敬している、ある出版業界の方は引っ越しの際、自分の収入レベルより上の人しか住まないエリアを借金してでも選ぶと仰っていた。人は環境に左右される生き物なので、大多数のレベルに合わせて生きることしかできない。だから、自分より上のステージで生きる人しかいない環境に身を置くことで、自然と自分自身が現状の外側へ引っ張られていくのである。

身に降り掛かる嫌なこと、良いことすべてがたとえ納得できないレベルであろうと、結局自分で選んだ環境において起こっているという事実に言い訳は一切通用しないのだ。

感覚は、自分を守るためにある

人生の幸福度を上げるためには、やりたくないことを徐々に減らしていくのが不可欠だとわたしは思っている。けど、やりたくないことの選別って、やりたいことを探すのと同じくらい難しかったりする。だからこそ、体の声を聴くことが重要で、自分以外の誰かのことに嗅覚を研ぎすませている場合ではない。

ここ数日間、尾崎豊の『十七歳の地図』を寝る前に聴きまくっている。何故か、体が求めてしまうのだ。しかも、十代の頃よりあの生き様に共感できてしまう“いま”の自分に安心感を覚えてしまったりもする。

偶然にも、雑誌『Pen』の最新号では尾崎豊の特集が組まれていたので驚いた。それを近所の紀伊國屋書店で立ち読みしながら、わたしは感じていた。自分よりずっと下の世代が、想像だけで理解しようとしている時代をリアルに生きてきたという優越感を。

けど、それは口外してはいけない部類の感覚であり、語った時点で十代の頃の自分がいちばんなりたくなかったダッサイ大人の模範例になってしまう。

だから、誰もやってない生き方や、誰にも理解されない生き方を“自分で”貫いて本当の優越感に浸ってやろうとこころに決めた。

自分に対する評価なんて、他人に勝手にやらせておけばいいんだよね。どうせ、正しい評価なんて誰も出来ないんだからさ。大切なのは、自分の感覚に正直に生きることだと思う。その感覚は絶対に嘘をつかないはずだから。

Live your life !

(写真は在日米軍キャンプ座間で撮影したもの)

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