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メメント・モリ故か?エンディングノートを片手にお坊さんに会いに行きたい

生きるか死ぬかなんて。

最近エンディングノートというものを買ったんです。買ってはみたもののまだ日付と名前以外に1文字も書けずしばらくの間ずっと放置しておりました。

この投稿をきっかけに1行でも多く書けたら幸いです。

そのエンディングノートには「あなたにとって大切な人に残しておきたい言葉」という欄があります。

親なのか兄弟姉妹なのか果たしてパートナーさんだったりするのか?

私にとって一番大切な人とはなんてこった抑圧されていたもうひとりの私というか?我慢していた私ということに気がついてしまいました。

ずっと隠しておいた無意識レベルの私の気持ちに対して日記にもなるし読み手にとってはお手紙みたいもなるかのような今日の投稿は実にとりとめのない話です。

もちろん親にしろ、兄弟姉妹にしろ、大切なパートナーさんにせよ、もしも残して先に別の世界に旅立った場合は残しておきたいメッセージもあるでしょう。

ところが自分自身との対話をおろそかにしてきたツケが今回ってきたように思えてならないのです。

死の結末という究極の目標に向かって生きる私たち。

そして気がついたら最近になって小さなお葬式のパンフレットを請求していたんです。

死とお葬式とお墓。この3つの言葉はすぐに連想できます。
そしてメメント・モリという用語を(≒死を想えというような直訳がありますね)を見かけます。

メメント・モリという言葉をいつも胸の中にいれるように心がけるようになりました。

話はそれます。私の先祖は実家からあまり遠くないとあるお寺に永代供養されてると聞いています。

私が死んでも親が死んでもそのお墓に入れる可能性は高い(費用こそ高いかもしれません)。

お坊さんと死とお葬式とお墓の話を相談したらストンと腑に落ちる答えをもらえるかどうかは謎です。

さて、今を私は生きているんでしょうか?生きるとは何かの逆をいろいろと考え込んでしまい頭から離れません。

逆という表現をしてしまいました。

私の愛読してる小説で村上春樹のノルウェイの森(上)では「死は生の一部として存在している」という太字で強調されてる箇所がありましたね。

生きていく中の4つの大きな資源として、健康とモノとお金と時間。いくら大金持ちになっても、たくさんのお金を残したまま自分の人生を終えてしまったら実はもったいないかもしれませんよね。

だったら今使えるお金の蓄えることばかり夢中になったりし過ぎないで適度に遊ぶことも大事になってきます。

私が調べた限りですが死ぬ前に後悔することでもっとも悔やまれることはもっと冒険をしておけば良かったという思いだそうです。

冒険といっても軽装で山を登るようなことはただ軽率で無謀なことだけで命を粗末にすることだと思います。

冒険したい気持ちにもきちんと向かい合って綿密な計画や準備をしたいですね。

どんなに深く死について考えてみたところで、死はとにかく自分の可能性の最大の範囲内で生きてみるより理解できないものかと。

「今日が一番若い日です」というキャッチフレーズは著書「お金の大学」やリベシティのオンラインサロン等で有名な両学長のお言葉です。

書きかけのエンディングノートを少しでも埋めつつ、それを持参しながら今度の連休でお墓参りをして可能であればその寺院のお坊さんとお話をして自分の祖先を偲べるような小旅行をしたいなんて思います。

それは私にとって大きな冒険のような気がしてなりません。

ここまで読んでくださりありがとうございます!
皆様におかれましては冒険したい気持ちに蓋をしない一日でありますように。

そしてまたの機会にお会いできますように。

P.S. 私が入手したエンディングノートの一例です。たくさん書き込めて足りなくなったらページをダウンロードして追加することもできるようになっています。


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