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生か、死か。

頭が凝り固まっていない? おとなになるにつれて。

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好きなものが多すぎる問題について、自分で少し整理してみたい。

私は今、非常に時間のたりない中で生活している。本当にギリギリだ。どうしてこれほど時間がたりないのか、自分でもわからない。気づけば、家を出る時間になっていて、それでも手元の作業が終わらなくて、次に気づくときには目的地へ到着していなくてはいけない5分前になっている。

まえに、朝は、ご飯たべたら一息ついて、後片付けしたら一息ついて、掃除して一息ついて、それから出社するの、と話していた同僚がいたが、本当だろうか、と思う。しゃべり口もおっとりしていたから、まさか嘘だとは思っていない。だが、朝などとくに、自分で自分に約束した時間を毎日裏切っては懺悔しながら走っている私からしてみれば、どこからそんなに時間を持ってこれるのか疑問でしかたない。金持ちだから、どこからか買ってきているのか? 私は時間を売っている店などみたことがない。

いや、私も一度は買おうとしたことがあった。たしかにあった。某掃除ロボットだ。絨毯のはしに絡まるだとか、埃が残っているだとか、機能性で人間とイーブンか超えるかしないロボットなら不要と思うが、機能面で十分と言える機種は、最新型でありけっこう良い値段だ、というところまで調べた。コロナ禍のせいで旅行好きの財布の中身は今、例年になく潤沢になっていると思うが私もその口で、ルンバに旅行予算を流用する胸算用だけはした。だがはたして、掃除機も必要としない部屋なのに、ルンバは必要だろうか。毎朝5分松井棒をかけている。それでたりればいいじゃないか。その5分でこの記事は書けない。その5分はおそらく睡眠の延長に使われるだろう。

考えれば考えるほど、ルンバは夢の奥にしまわれていく。

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好きなものの話をしよう、といった。私は眠るのが好きだ。日本人は睡眠時間が世界的にみて短めで、ヨーロッパなんか8時間がふつうだ、という説を聞いたことがあるが、それを論拠に睡眠重視を主張する政党があればぜったいに投票するし、事実、私も6時間ではとうてい昼間もたない。昼休憩でうつ伏せになれば、すぐに夢を見るレベルまで熟睡してしまう。どこでもすぐ眠くなるというのは、睡眠不足の現れだ、という説もどこかで聞いたことがあった。睡眠負債というおそろしい新語を見たときには、ああやっぱり、睡眠をなにより大事にしたい私の考えに、なんの間違いもなかった、と再認識した。

ただし、睡眠に必要なのは何時間かということと、実際にそれだけ眠る時間が用意できるかどうか、はまた別の話だ。休日はともかく平日に8時間寝ていては、本当になにか大きなものを引きかえにしなくてはならない。ゆっくり夕飯を食べながらドラマを見る時間や、お風呂につかる時間。髪をあらう時間や洗濯物を畳む時間は、短ければ短いほどいいが、必ずやらなければならない行動なので節約したとしても限界がある。そもそも初めからそんなに長い時間ではない。それに対して、ドラマを見る時間やお風呂につかる時間は、どこまでも際限なく節約できてしまう。つまり、しなければいいのだ。

いうなれば、生きるには不必要な時間だ。生命活動をするにあたっては、不要な時間。だがそれをしないで、いったいどんなふうに生きるのか、想像もしたくない。

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今のアパートに引っ越してきてから、一度も湯船に湯をはったことがない、と言っている友人がいたが、耳を疑った、というより、この人は幸せなのかを疑ってしまった。それくらい、私は風呂好きの部類に入る人間なのだと思う。沖縄県民じゃあるまいし。それじゃ何のために風呂がついた家に住むのか。

浸かるといっても、そこでただ手持無沙汰に温まっていたり、マインドフルネスをしたり、お湯の感触をたしかめたりするというのなら、それは真の風呂好きだろう。私の場合はちがう。風呂に湯をはったことのない人間とも長年友人をやっていられるのは、私たちにある共通点があるからだ。風呂に浸かっているとき、飽きてしまう。そこで友人は浸からないことを選択したし、私は本を読むことを選択した。分岐はあれど、私たちはかつて同じ出発点に立っていたのだ。

普段なら本に飽きてしまうこともあるので、本好きとは口が裂けても言わないが、風呂では飽きることがない。持ち込んだ本が一冊しかないからだ。選択肢がなければ、目移りすることもない。本屋でおちついて立ち読みができない人によくあるのが、浮気性だ。手元の本を読んでいる。でも視界の端では、別の本のタイトルを読んでいる。本が一冊しかなければ飽きないのだということを、百戦錬磨の長湯を経験してきた私は知っている。

と言っておきながら、その中でも、飽きる本と飽きない本があって、真に飽きない本というのは、自分がのぼせても湯船の淵に腰かけて読みつづけてしまう。そうすると、飲み水も持っていかないと脱水症状が危険だ。水をペットボトルに入れて、何時間でもマンガを読んでいる、といったのは、入院したとき向かいのベッドに来たお姉さんだった。その幸福を、彼女はまた享受することができているだろうか。自分で自分のために用意する幸せ。

ところがだ。

この強制浮気禁止制度をゆるがす道場破りが姿を現した。kindleだ。あいつが来てからは本に自分を縛るということができなくなった。資格勉強のテキストを入れておいても、すぐ、読みかけのマンガを出そうと勝手に指が動く。指一本で、本が無限にすり替わってしまう。それはつまり、テキストには飽きているってことだ。まあ、勉強に飽きるというのは古今東西老若男女普遍的な現象であってしかたのないことだし、風呂といういわば一日のうちで最上のリラックスタイムなのだから、資格の勉強というほうが無粋極まりないのだ、というのが何事にも一筋に一途に果たすことができなかった凡庸な自分の矜持もとい言い訳だが、反対にいえばそのマンガ、先が気になってるんじゃない? 本気で取り組めよ。ということなのだろう。

ただ、古本とちがって書籍データは新品の金額なんだ。そのうえ、古本屋に売ることもできない。これは、紙とくらべかなりのハンディキャップだ。しがない一労働者の私は月の冊数をきめて買っている。読み終わってしまったら、タイトルをチラチラちら見しながら資格のテキストをしかたなく読んでいる。

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ドラマも好きだがこれは元来の趣味ではない。そもそも私は、探偵役という存在が出てこないドラマなど見るに値せず、という多分に偏った偏見の持ち主であるが、そうでないドラマも強力にレコメンドされれば見なくはない。人々に讃え奉られているドラマというのは、それだけの価値があって、やはり面白いだけでなく、身になるストーリーというのが、ここ最近の感想だ。ことに某鬼系のアニメなんかは5話までで3回泣いた。ドラマじゃなくてアニメだけど。人間ドラマという意味では、同じ経験をしている。

そうだ、我々は人間ドラマ、ストーリーに飢えている。現実がリアリティを失い、フィクションにそれを求めるという、大矛盾。一連の起承転結、紆余曲折の末に、一定の結論が得られるという、無味乾燥な言葉で表せばこれほど無味乾燥なものはない事象を、なぜ我々は求めつづけるのか。それほど日常は平凡なのか。私の日常には鬼も剣士も現れないが、けっして平凡ではない。日々時間が足りなすぎて脳内駈けずり回って息を切らして、疲れて死んだように毎日ベッドでスコンと寝ているのに。まったく眠気も解消せられぬまま、無駄に本人だけがテンション高い無情なアラームの手により殴り起こされるのに。

だが、駈けずりまわっている事実が連日で続く以上、これは起承転結ではない。どれかと問われれば転転転転がいちばん近いように思う。そして結は、すなわち人生の終りを意味する。これでいいのだろうか三十路。

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我々にはストーリーが必要だ。それは、1時間という枠が定められたうえで起承転結を求められるドラマでなくていい。むしろ、もっとゆっくりなほうがいい。ゆっくりにしてくれ、頼むから。

そんなわけで、植物の成長にその時間軸の雄大さ、連綿とつづく生命の輪廻転生のうつくしさに感動を覚えるのが、苔だった。苔だったはずだ。

とある日、上司が苔を採りにいこう、と耳を疑う社内動議を発令した。机には100均の小瓶に詰めた土と、その上に緑のわしゃわしゃがモサモサしている。そう、これがコケリウムである。今巷で流行っている(のか?)癒しアイテムであり、水槽の水草や熱帯魚なんかより世話がかからず美しさもながく保てるので室内系女子および男子のあいだで流行っているらしい(情報が薄すぎる)。ああ、たしかに一地方都市の企業であり、都会に比べたら見た感じのんびりしている部類のわが社なのだろうが、内情は、ビジーネスの名の通りに、アクシデントの種は次から次へと持ちあがり、息をつく暇もない。そんな中での苔提案だったが、その指にとまったのはほぼ私一人であった。みんな忙しくないのか。逆か?

苔はたしかにどこにでも生えている。社内の土地にも繁茂していた。よく見れば面白い。遠目には似たような一様さでも形状や色のちがいで様々な種類がある。形状には、フラクタルに枝分かれしたものもあって、宇宙の神秘を禁じ得ない。趣味に一度嵌ればなかなか抜け出ないのが私の悪いところだ。はっきりいう。これは、欠点だ。貴重な休み時間に苔の種類について調べ、残業が終わってからホームセンターに土を買いに走り、毎朝苔たちに換気と水とを与えて、早2か月。

苔たちは、素人が育てているにしちゃ割と元気にしている。と思う。ただ、それをじっくり見ている時間が私にないだけで。

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昔から、清水の舞台から飛び降りるのが苦手だ。

まあ、清水の舞台からそう何度も飛び降りる人は奇特だろう。思い切ったことをするのが苦手なのだ。思い切ったといっても、自分一人でやる分にはまったく躊躇しない。道に迷っても平気で引きかえさず進む。だがこれが、人を巻き込んで思い切ったことをしようとすると、すぐに尻込みする。

音楽に日常的に触れている人は多いと思う。街には音楽が溢れていて、むしろ止めることのほうが難しい。流行りの歌はすぐに頭にこびりつくし、すぐに入れ替わる。けれど、日常的に演奏している人は、といったらどうだろう。たぶん、日常的に演奏している人は今自分を誇らしく思ったと思う。それくらい、日常的に演奏している人というのは希少なのだと私は思っている。

何を隠そう、十代の頃からRed Garland TrioのC Jam Bluesを聞きつづけている。こいつ、音楽一家なのか?と過大に勘違いされそうなので釈明するが、CDを捨てられないたちなのだ。祖母が一人暮らしていた家を離れるとき、このCDだけはなんとしても救出しなければ、と考えていたのは、たぶん家族のなかでも私一人だったと思う。勝手に持ち出してもそのCDのことを話題に出した家族はいなかった。家で流しても、祖母の家から持ってきたものかと指摘されなかった。そこまで重要視している人間がほかにいなかったのだ。

今日はjazzのジャムセッションについてワークショップを受け、C Jam Bluesも実践してきたというわけだ。セッションに参加してみたい! いや、それも不徳の致すところで、真面目に音楽をならってこなかったばっかりに、音楽サークルにいながらにしてオーディエンス代表の地位をつとめていたのが問題だったのだが……今になってもセッションが苦手です。

jazzを聞いたことがない、いや、耳を傾けて聞いたことがないという人は某山岳マンガを描いた作家のジャズマンガを読めば、その聞き方がわかると思う。本から音楽は流れてこないのだが、本物の音楽を聴く以上に感動する(おい)。音楽を聴くことで、我々はなにかを得ようとしている。音楽そのものが欲しいんじゃない、その後にある感情が欲しいのかもしれない。感情が、欲しい。感情こそは、店に売っていない。自分の好きでない感情が勝手に渦巻くし、ほしい感情を他人が得ていてこれまた悲しんだり妬んだりする。その感情が手に入るとは、こんな素敵なことはない。

はては、音楽をつかって感情を自由に表現できるようになれば、これほど気持ちのいいことはないだろう。思いきり笑ったり、泣いたりするときの解放感と同じだ。それをやるのがjazzなんだがね。ただし一定程度の技術がなければそれも成せないわけで、勉強中。

といいつつ、家に帰ってくればバッハの無伴奏チェロ組曲を練習している。あれはとある別の資格勉強のときに、パブロフの犬みたいに音楽を聞いたら勉強したくなるようにならんかと試しに勉強中ずっと聞いていたのだが、資格は取れたものの学習内容はすでに忘れたが、曲の美しさはあたまの引出しにちゃんと仕舞いこまれて、犬はどこかに逃げたがこればかりは成果だったと今でもうれしく思う。美しい旋律を体内に宿す人は見た目も凛と美しく、なればよいのだが、まあなるかそのままかのどちらかだろうと思うのでよしとする。

この曲に再度注目したのは最近で、今は亡き名女優が主演した某BBC名ドラマのパクリもといオマージュなのだが、探偵という名前のまま探偵役が活躍するこのドラマを私はよだれを垂らしながら2度見た。内容はまあ、シャーロキアンとしては言いたいことがいっぱいあるが、そもそも私はシャーロキアンではないので、これに関する発言は控えよう。

本家シャーロック・ホームズ大先生はバイオリンの名手であり、ワトソンが頼めば大抵の曲は弾いてみせたという。ドの音をならして思ったのとまったくちがう音程が出てくる私のサックスとは大違いだが、先生のことであるので格好つけるにはこうでなくてはならない。この特徴について竹内結子の方はといえば、これをバイオリンからチェロに挿げ替えた。その演奏する姿の美しさは、無伴奏チェロ組曲の麗しく豊かな旋律とあいまって倍増し、朝の光がその音楽をさらに明瞭に映しだしている……このように美しい探偵を、まあ、そこは認めよう。私はたしかに、たしかに見たことはなかった。このように美しい探偵を。

先生が推理術とともに音楽の才をも持ちあわせたのは、私が思うに、ひとつのことに集中する能力に長けていたからなのだ。ひとつの難事件に直面すれば、寝食も忘れて捜査にのめりこむのが、先生の常だった。もし私が探偵だったとして、はたして今夜の夕食のメニューを一閃も脳裏に生じさせず捜査に没入することなどできるだろうか。否。私はとうていコーヒーだけで朝食をすませられるほどの口の綺麗さをたもてはしないし、週末のビールを飲むためだったら嫌いな運動もする。夕飯をじゃがりこをお湯でとかした何らかの離乳食的食事ですませられる友人とは、元来できが違うのだ。食をも蔑ろにはできない人間なのだ。不公平ではないか、しっかり栄養バランスのとれた食事を時間と手間をかけて作って食べる人間と、じゃがりこにお湯を注いで食べて寝る人間の健康状態が同じだなんて…!

ただ、人は儚い。先生はライヘンバッハの滝で宿敵の凶悪犯罪者と闘い、相打ちのすえに命を落とした(ことになっていた)。世の中の平穏と引きかえに、命を落とすことも辞さない方なのだ。その点、さいきんのオマージュは探偵の性格の奇特性ばかりに目が行って、先生の最大の特徴のひとつである正義感の強さがなかなか取り上げられないのは残念な傾向だ(おっと、不用意な発言であった。私はシャーロキアンではないのに)。

だが。

この滝事件までの話数は、長きにわたるシャーロック・ホームズシリーズの、ほんの最初の1割に過ぎない。

願わくば、続編を、と願う貪欲で強欲な探偵ファンよ、君たちの願いはついえたのだ。これじゃまるで、モリアーティのセリフだな。

うそだと言ってほしいが、うそではないのだ。私はあなたの作品を愛していた。だから、あなたを愛する。願わくば、冥福を。

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さあ話を本題に戻そう。

私は料理を得意だと思ったことはないが、料理系YouTuberにはけっこう嵌る傾向にあり、それを見たあとは真似をして料理したくなるという厄介な性質がある。ドラマにおいても、某ゲイカップル料理ドラマや、某深夜のめしやドラマを見て、すぐに生姜焼きや豚汁を週1でルーティーンし始めた。だが今回困ったことには、その性質が斜め上方向にスライドした形で具現化したのだ。

きっかけは、自分の包丁を買ったことだった。

よく考えてみてくれ。犬を飼ったら、世話をするだろう? えさをやりトイレの後始末をし、毎日散歩につれていき運動不足に気を遣う。自分だって毎日なんか散歩しないのに。服だってそうだ。毎日のように洗濯をし、ウールなどの天然素材は専用洗剤で手洗いまでし、その美しさを保とうとする。

大事なものには手をかけてやる。当然だ。どうして料理の要である包丁様を、簡易シャープナーなんかで研ぐことでよしとしていられたのだろうか。いられるのだろうか、人々は!

というわけで私が包丁とともに買い物かごにいれたのは1000円前後のゴロゴロシャープナーではなく、総額5000円の3種の砥石であった。

砥石というものはほんとうに独特で、石を日常生活で使うなんてことはまずあまりないのだが(漬物を趣味にしている方は別だが)、包丁の研ぎ方をYouTubeで見ていたら、砥石は使っているうちに平らでなくなってきてしまうので、それを道端のブロックでも直せますよ、すこし恥ずかしいですが、という解説が出てきたときには感心した。もうどんなことでも道具、なんですね先生。

初めて包丁を研ぐときは、替えの包丁も買ってきておこうか、というくらい不安だった。使い物にならなくなったらどうしよう、誰がなおしてくれるんだろう、いや、やるんだ。やらなければこの包丁はだれが研ぐんだ、というなぞループで自分を鼓舞したら、案外簡単にできた。がこれがまたすぐに切れなくなるので、いまは練習に事欠かなくてちょうどいい。こんなど素人の私が研いでも、研いだ直後はほんとうにスッパスパだ。

そもそも包丁だって、料理のための道具であり、包丁そのものを食べたり触ったり眺めて楽しむわけではない(そういう人もいるけど)。

だがそれと同時に思うのだ。料理だって、美味しいと感じてそれで終わりではないと。美味しいと感じるのは、なにか進化の過程においてそれが有利に働く理由があったからなのだ。美味しいものは、たくさん食べれば強くなれるとか長生きできるとか。それ言うとじゃあ良薬は口に苦しという言葉はなんなんだと、まあ、私もいま思っているところだが、美味しさを舌で感じるのは、ほんの一瞬だ。小学校の先生には、30回噛みなさい、とか言われながら10回でむりーと飲みこんでいた記憶があるが、実際、美味しいものが味として認知されている時間は、生きている時間のなかで1%にも満たないだろう。それでも美味しいものを食べたいのは、そして、それを延々味わいつづけずとも幸せでいられるのは、美味しい記憶が残るせいだ。記憶はどこまでいっても、忘れるまで消えず、ずっと味わいつづけることができる。

そうやって、本も、ドラマも、苔の成長も、音楽も、記憶としてずっと味わいつづけることができる。それを味わっても、給料が上がるわけでもなんでもない。むしろお金を使ってしまう。それでもこうやって生きるのだ。こうやって、私は生きている。無駄ではないムダなものたちに囲まれ、記憶を味わいつづけながら生きるのだ。それが、生きるということなのだ。

そういうわけで、私には時間がない。

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時間がなくて少しこまったこともある。味わう時間がない。

これって根本のところで本末転倒なんじゃない?という疑問を抱えながら(これはもう10年くらいずっと抱えている悩みだ)、久々にいつものブックカフェへ行ったら、なんだか生まれ変わったみたいに看板が変わっていた。

かんたんにいうと、こうだ。古本屋だったものが、古本を買い取るうちに、売るに堪えない破れとか汚れとかのある本が溜まってしまい、でも燃やすほど非情にもなれず……というわけで、ちょっと売るに堪えなくともならべちゃうよ、というコンセプトの本屋に変わった、というわけ。

まあ前回の店のセンスの高さから信者となってしまっている私にその方向転換を評価せよといっても、もう無条件で好きなので土台無理な話なのだが、そもそも、「このレベルの本は売れない」というやつの、「このレベル」は誰がきめたんだろう。

相場感というのがある。これくらいなら、買い手も売り手も納得する。これから逸脱していれば、他へ客が流れる。買い手が納得しなくても、売り手全員で示し合わせて相場を出せば、客は買わざるをえない。

そうやって誰かの都合のために決まった基準が、長い時間がたち、理由もわからぬまま一般的相場として固まって、だれ得でもない基準だけが一人孤高で立っている。そんな感じを、この本屋はみごとに打ち砕いてくれた。子供っぽいのだ、いい意味で。

本の読者のなかには、単に文字の情報だけがそろっていれば問題ないという人間も多いと思う。物を集めるコレクターは、本の装丁の美しさなどもその本の評価につなげるが、小説というのはそもそも紙の価値ではない。そこに書いてある作家の名前は、その紙に糊をつけて繋げ、表紙を折って挟んだ人の名ではない。もちろん、製本という仕事は尊敬すべき神聖な仕事のひとつであるが、本の形をした真っ白の小説を売っていても私は買わないと思う。

やはり、最後は記憶なのだ。それなら、端っこがちょこっと折れていようと、水にぬれたあとがあろうと、本は本なのだ。

生きながらえさせてくれて、ありがとう。

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