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夕陽が太平洋に沈む時 【第8話】

 夕陽が太平洋に沈む時 【第1話】

 剛史は、麻衣の問いに対して、数秒間考えを纏めているようであった。

 私は彼を困惑させるような質問をしたのかしら。随分と返答に窮しているようだわ。

 剛史は口を開いた。

「好みだ、好みじゃない、と単純に返答出来るような性分ならば楽なのだろうが」

「返答して下さらなくてもいいわ。貴方を困らせるつもりで言ったわけじゃないから」

「困っているわけではない。出来るだけ論理的に答えようとしているだけだ。そうだな、このような例がいいかな。この開発プロジェクト成功しそうですか?、と新人部下に問われるとする」

 何やら大袈裟な話になりそうな雰囲気を感じ、麻衣は質問をしたことを後悔した。

 剛史は続けた。

「そんな問いを受けた時も僕には即答は出来ない。その判断基準となる資料とデータが揃っていない場合が多いからだ。我が社の場合、残念ながら開発プロジェクトの6割は挫折しているからね」

「随分と難しいお話になってしまったようだけど、要するに判断を下せるほど貴方は私に関する知識を持っていないということね」

「今晩、君の翻訳した文章に目を通させてもらった。難解な原文であったに拘わらず、誤訳は見つからなかった。特許特有の語彙と言い回しに変換しなければいけない部分は多々あるが。また、誤字脱字も見当たらなかった」

 この人は、一体何を言おうとしているの?

「例によって理屈っぽくなってしまったが、結論から言ったら、君のことは信頼出来るということだ」

 信頼?それが、「私はあなたの好み?」という質問への返答なのかしら?私の質問を巧みかつ体裁よく回避したということね。

 得体の知れない寂寞感が次第に麻衣を支配し始めた。10年間の時を経て、ようやく別の男に深い感情を抱き始めた矢先であったが、その感情は受け入れられることはなく、一方通行のまま行き場を失ってしまった。

 今夜は最高に楽しかったクリスマス・イブだったわ。朝までこの人と一緒に過ごしてみたかった。

「部長、やっぱり私、家に帰ります。いろいろと準備をして頂いてお世話ををお掛けしました」

 麻衣は、時々利用するタクシー会社に電話を掛けようと、携帯電話を取り出した。

 剛史は、あたかも狐に包まれているかの表情で訊ねた。

「僕は何か気に障ることを言ってしまったのかい?」

「いいえ、私のことを業務上信頼して下さって有難いです」

「タクシーに乗るのは嫌だと言ってなかったかい?」

「部長にご迷惑をお掛けするよりはましです」

 剛史の表情は益々不可解そうに歪んだ。

「帰りたいならばそうすれば良い。しかし、僕は迷惑なんて言った覚えは無いが」

 そうね、迷惑とは言っていない、この人の言っていることは確かに正論なのだけど。

「ごめんなさい。今晩は人生で最高のクリスマス・イブだったの、誇張じゃなくて。だからいろいろと期待してしまって、そんな自分が悲愴に感じられて」

「フランス料理のような華麗な世界に浸っていた君が、場末の飲み屋と質素なマンションで過ごす晩を人生で最高のイブだと言うのかい?」

「華麗な世界に身を置く、イコール幸福、ということではなかったの。そのことに気付いたのは少し遅すぎてしまったのだけど」

「君が期待をしてしまったことって何だい?」

 剛史は麻衣に一歩近付いた。

 麻衣は心情を率直に告げることにした。気まずくなってしまったとしたら派遣先を替えて彼の前から去れば良い。

「今夜は貴方の胸の中でイブを過ごしたかった、ってこと」

「それなら帰らなくてもいい。その程度の期待ならは僕でも添える」

 麻衣の携帯電話を、剛史はそっと取り上げ、居間のテーブルの上に置いた。そして剛史は麻衣の背を抱き寄せその唇をいきなり貪った。唇を吸いながら麻衣の服を片手で丁寧に脱がせていった。

 麻衣は突然の彼の行動に驚嘆した。

 何?一体どうなっているの?拒絶されたわけではなかったの?それともこれは単なる同情?

 麻衣にはこの急な展開をすぐに咀嚼することは出来なかったが、身体の方は敏感に反応していた。

 剛史の唇が麻衣の肩を貪った時、麻衣は目眩がしてソファーに倒れこんだ。全裸になった麻衣はソファーの上で動かずに剛史を待っていた。剛史は感嘆を含めた瞳にて麻衣を見下ろしていた。

「何と清らかな肌なんだ」

 麻衣は「清らか」という言葉に反応した。

 その言葉は、記憶の奥隅に押し込めてあった叶との悪夢の晩を髣髴させた。その他の名前さえも覚えていない男たち。とっくに薄汚れてしまったものと思い込んでいた自分を清らかと形容してくれる人がここに居た。

 叶から乱暴を受け、コニーが消え、男に関しては自暴自棄になっていた時期もあり、なりゆきで抱かれることも数回あった。しかし、そのつど、トラウマとも罪悪感ともいえない悪寒が走り、ひたすら行為が早く終わってくれることを祈っていた。

 叶の時と同様、爬虫類動物が麻衣の身体中を這い回っている、そのような錯覚と嫌悪感を起こしたことも数回あった。

 しかし、この晩は違った。行為が始まるのがひたすら待ち遠しかった。

 そこは豪華なホテルの一室でもない。技術書しかない殺風景なマンションの一室であった。

 剛史は壊れ物を運ぶように麻衣を寝室に運び、ベッドに横たえると布団を掛けてヒーターのスイッチを入れた。

「すぐに温まるからね」

 なんて優しい人、今までそんなこと気に掛けてくれた人がいたかしら。私の関わった男達の多くは、私の気が変わらないうちにやってしまおう、という勢いで急いていた。

「部屋が温まるまで貴方の温かみを感じたいわ」

 剛史は柔和に微笑むと、ゆっくりとシャツのボタンを外し始めた。

「いきなり誰かが鍵を開けて入ってきて、この様子を見て、泣きながら出て行ってしまうなんてリスクは無いのかしら?」

「そんな心配があったら君にはソファに寝てもらうよ、服を着たままね」

 剛史は服を全てを脱いで椅子の上に掛けた。隣の部署の部長である彼の体躯を仔細に見つめたことはなかった。引き締まった上半身であったが、着痩せをするタイプであるようであった。

 その裸身が麻衣の横にそっと滑り込んだ。

「僕はね、妥協ということが出来ない人間なんだ。仕事でも人間関係でも女性でも。僕の目から見て最高の女性にしか触れたいと思わない。容姿端麗という意味ではない。ただ本物にしか興味が持てないんだ」

 そう言いながら剛史は麻衣の身体を愛撫し始めた。

「私は本物?」

「僕はそう信じている。正確な翻訳をする人だということは君の部署の人から聞いていた。君は他の社員たちと交わってゴシップで騒いだりもしないようだな」

 剛史は言葉を続けた。

「君のことが最初に気になり始めたのは、君が寂しそうな表情で窓の外を見ている時からだった。いや、これ以上回りくどいことを垂れて、また帰ると言われても困るな。今回だけは単刀直入に述べるよ。一目惚れだった」

「え?」

「そうだな、確かに全く論理が通ってないなあ、おいどうしたんだ?」

 麻衣の頬からは涙が伝い始めていた。

「ごめんなさい、白けさせちゃうわね。なんだか今まで張り詰めていたものが一挙に解凍したように感じられて」

 麻衣は剛史の、鼻筋の通った顔を改めて凝視した。その表情には多少狼狽の色が見えた。
 
「貴方が私を好きになってくれていたなんて、どうやって信じればいいの?毎朝、挨拶しか交わさなかったじゃない。とても現実味がなくて。本当に私でいいの?」

「僕は技術馬鹿で女性を楽しませる術なんて知らない。後悔しないかい?」

 麻衣は首を振った。剛史が愛しかった。麻衣にとっても剛史は、ついに巡り会えた「本物」のように感じられた。

 技術馬鹿だと卑下していたわりには、剛史の指先は麻衣の身体を把握していた。その動きは決して乱暴ではなく激しくもなかった。

 麻衣は何度も失神しそうになった。

「部長、襲わないって約束したのに、気が遠くなりそうだわ」

「誘ったのは君だ。部長なんて呼ばないでくれ、剛史でいい」

 それは長く甘い夜の始まりであった。


 窓の外から流れてきたホワイトクリスマスの音楽で目が覚めた。見慣れないシーツの色、無機質な部屋。麻衣は、自分がどこに居場所を思い出すのに数秒を要した。ベッドの中に剛史の姿は無かった。

 ヒーターは心地よい暖かさに調節してあり、床も温かかった。キッチンからはコーヒーの香りが漂ってきた。

「ああそうだわ。外資系企業だから今日はクリスマスでお休みだったわ」

 その時、玄関のドアが開く音がした。

 しばらく経ってから剛史が寝室に入ってきた。落ち着いた大人趣味の良いベージュのセーターにジーパンを穿いていた。

 麻衣は、背広とネクタイを着こなしている剛史しか知らなかったので、彼の普段着姿がとても新鮮に感じられた。

「メリークリスマス」

 そういって剛史はベッドの脇に腰を下ろした。

 まだ服を着ていなかった麻衣は、ブランケットを身体に巻き付け、ベッドの上で身体を起こした。

「メリークリスマス、何処かに行ってたの?」

「クリスマスプレゼントを持って来たんだ」

「プレゼント、私に?」

「そうだ、開けてみて決めてくれよ」

 剛史は麻衣の手のひらに、赤いシルク張りの小箱を置いた。ピアスの箱のように感じられた。

「決めるって何を?」

「受け取るかどうか」

 質問の意味はわからなかったが、麻衣は取りあえず箱を開けた。

 中には果たして指輪が入っていた。中石は大粒のアメジスト、麻衣の誕生石であった。そして、脇石はダイアモンド、腕の部分はホワイトゴールドであった。モデル時代の経験から麻衣には宝石に関する薀蓄があり、それが相当高価なものであることは理解出来た。

「こんな高価な指輪、受け取れるわけないじゃない!どういう意味なの?」

 麻衣は困惑した。

 ほとんど面識もない男から、このように高価なクリスマスプレゼントを戴く理由はない。

「また説明不足だったね。逃げないで聞いてくれるかい?」

「こんな姿じゃ逃げようがないわ」

 剛史は麻衣の着ていたブラウスを彼女の肩に掛けた。

「僕は本当に技術馬鹿で、女性なんて滅多に好きになったことはない。しかし、昨夜も言ったが、僕にとっての本物の女性とはどのような人かはわかっているつもりだ。一晩一緒に過ごしただけでこんなことを言い出したら気が違ったと思われるかもしれない。また、君にとってはただの遊びだったのかもしれない。だが、僕には君が僕に適合する女性であるような気がしてならない、というか僕は自分の判断力を信じている」

 剛史はよどみなく一気にそう言い切った。

「適合する、とか、貴方の言っていることは、特許申請書よりも難解だわ。結局、何が言いたいの?」

 剛史はベッドから下りて、床に跪いた。

「笠島麻衣さん、僕と結婚してくれませんか?」


 麻衣は絶句した。

 10年前自分がコニーに向かって唐突に切り出したその一言は、この日、一晩を一緒に過ごしただけの男の口から発せられている。


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