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夕陽が太平洋に沈む時  【第4話】

 夕陽が太平洋に沈む時 【第1話】

「結婚したからって何も複雑に考えることはないよ。君は、今までの仕事やライフスタイルを続けたければ続ければいい。僕よりも早く起きて飯を炊いて待っていろなんて言わないよ」

「わかってるわ。そんな人だったら結婚しなかった」

「その代わり僕が浮気をしてもガタガタ言うなよ、とも言わないよ。浮気したくなるほど僕達の気持ちが離れてしまったら別れよう」

「ハネムーンなのにもう別れ話?」

 麻衣は軽く苦笑する。

 剛史が本気でそう言っているのか否かは、彼の表情からは計りかねた。彼バルコニーに寄り掛かり、ひたすら黒い海を凝視しているように見える。

「貴方の論理からすると、結婚生活ってとてもシンプルに思えるわ」

「本来シンプルであるべきだと思う。毎日繰り返すことなんだから、肩肘張ったりいろいろなルールに縛り付けられて過ごすようになってしまったら、苦痛になるだけだ。しかし、浮気をしたくなるほど気持ちが離れてしまわない様にする努力はお互い必要だ」

 剛史は麻衣を振り向き、彼女の細い手を力強く握る。

「僕が君に頼みたいことは一つだけだ。嘘は付かないでくれ、僕も嘘は付かない。嘘を付くという行為は人間関係において一番醜いことだと思う」

 剛史はそう述べると表情を和らげ、麻衣を抱き寄せる。剛史からは新品シャツ独特の香りがする。
 
 貴方をもっと好きになるようにするわ。失踪した男の事が脳裏から一度も消えたことはないけれど。

 たとえ11年間を経た現在でも、ハワイで体験した2日間の出来事は鮮明に回顧される。

 最初の夫、すなわちハワイで知り合った法医学者の男について、知っていたのは名前のみであるが、それさえも本名かどうかはわからない。11年前は、現在のようにインターネットにて全てを検索出来る時代ではなかった。その気になったら手掛かりを掴む手だてはあったかもしれない。しかしもう時効だ。

 コニーは自分の意志で麻衣の前から姿を消したのだ。今となっては恨み言を述べるつもりもない。しかし麻衣はせめて知りたかった、何故なのか?

 彼が姿を消した後、麻衣の手元には、ウェディングドレスとリングが残された。コニーが購入したものだ。リングもドレスも決して安いものではない。さらに、彼は短時間に教会と神父を手配した。それほど大掛かりなことを成し遂げた末、消えたのだ。

 一体あれは、彼にとって何の意味があったのだろう。あんなことをして彼には、何の得があったというのだろう。からかうにしては大掛かりすぎる。

 剛史の胸の中で、小鳥のごとく庇護されていながら、胸中では昔の追憶を巡らせている。麻衣は罪悪感に苛まれた。

「剛史、貴方のような人が私を拾ってくれて良かったわ」

「貴方のような人と一般化しないで、貴方、といって欲しいね」

 剛史は、麻衣の細い身体を軽々と持ち上げ、キングサイズのベッドへと運ぶ。あたかも壊れ物を扱うように彼女の身体を降ろし、その側に腰を降ろした。

「麻衣、君を大切にするよ。一目惚れだったんだ」

 彼は、麻衣のカクテルドレスを肩から丁寧に下ろし始める。

「君が今、僕の腕の中に居るなんてまるで夢のようだな」 

「だとしたら醒めては欲しくない夢だわ」

 麻衣は、これから起こり得る甘い行為を想像し、目を閉じる。

 突如、サイドテーブルの上にある電話が鳴り始めた。剛史は溜め息を付くと受話器を持ち上げる。

「ハロー、母さんか。どうしたんだい、タイまで国際電話なんて?」

 受話器の中からは、剛史の母が早口で何かを話している。取り乱しているようにも聞こえた。

 受話器を握る剛史の顔色が徐々に変わってゆく。麻衣は尋常ではない雰囲気を感じ取り、ベッドの上に脱がされていたカクテルドレスに手を延ばした。

「わかった、すぐにあちらに向かうよ」

 そう言い放ち受話器を置くと剛史は麻衣を振り返った。表情が強ばっている。

「どうしたの一体?」

「どうやら本当に夢に終わりそうだ、僕らの新婚旅行は」

 麻衣は次の言葉を待つ。

「僕の弟がタイに駐在していることは以前話したよね?」

「ええ、覚えているわ。彼に何か遭ったの?」

「交通事故に遭ったらしい。詳細は分りかねる。行って見ないと実際にどんな状況かはわからないが、場合に依っては輸血の必要もあるかもしれん」

「何てこと」

「君には申し訳ないが今からバンコクに向かうよ。明日電話する」

 と、早口に言い放つと、剛史はお金とパスポートの入ったアタッシュケースにスーツの上着を入れ、足早に部屋のドアに向かう。
 
 麻衣は慌てて彼を呼び止める。

「ちょっと待って、私も行く。3分で着替えられるわ」

「気持ちは有難いが、君には関係の無いことだ。このホテルで待っていてくれ」

 彼は麻衣の額に短い接吻をすると、ドアを開く。

「あ、そうだ。念のためにクレジットカードを一枚置いておくから」

 と、カードをテーブルの上に置き、部屋のドアを閉めた。

 予行練習もなく、新婚旅行の晩に、突然部屋に一人残された麻衣は孤独感に襲われた。それは恐怖感をも伴う孤独感である。

 君には関係の無いこと。弟さんの事故は私には関係の無いこと、なのね。彼の弟は私にとっても親戚になるはずなのに。

 最初の夫は結婚式の夜に失踪、二度目の夫は新婚旅行の最初の夜に、たとえ理由がやむを得ないものであれ、麻衣を残して出掛けてしまった。

 私は、つくづく結婚という人生のビッグイベントに呪われているんだわ。

「剛史の馬鹿、たとえ病院の廊下で一夜を過ごすことになろうとも、このふかふかのベッドに一人残されるよりも、ずっとましだってことがわからないの?」

 弟さんが異国で事故、突然のことで彼も気が動転していたのかもしれない、やむを得ない、ということね。でも、私は何の役にも立てなかったの?

 麻衣は、テーブルの上に置かれたアメリカン・エキスプレスのプラチナカードに視線を落とした。

「それでもクレジットカードを置いておくほどの気配りは出来たのにね。でもねえ剛史、クレジットカードぐらいは私も持っているのよ。私に必要なのは、お金じゃないということがわからなかったの?」

 麻衣は、ふたたびバルコニーに出た。当分は眠れそうにもない。彼女が語り合えるのは夜の海だけであった。

 最初の結婚について知っている人は麻衣自身とコニー、牧師の三人だけであった。式の事前にも事後にも誰にも知らせる時間は無かった。いや、日本に帰国するまえには家族と親しい友人達には打ち明けるつもりだったのだが、その暇も無く新郎が消えてしまったのだ。

 結婚式を挙げたあの日の夜、コニーは麻衣のホテルの部屋を訪問し、二人はその後の身のふりかたに関して話し合う予定であったのである。

 その次の日は、コニーはホノルルの病院に戻る予定になっており、麻衣は日本に帰国する予定であった。

 式を挙げたその日の午後、麻衣には最後の撮影が予定されており、その後は打ち上げが控えていた。一方、コニーは隣接するホテルにてのショーに出演する予定であったため、再会出来るのは、ほぼ夜中の予定であった。

 撮影の間、麻衣の口元からは自然と笑みが洩れて止まなかった。笑顔のポスターの撮影であったため都合は良かった。

 教会でコニーから受けた誓いの接吻、柔らかく厚ぼったかった彼の唇、仄かに口に残っていたダンヒルの煙草の味、麻衣の頬に当てた大きい手、接吻の後、麻衣を凝視したヘーゼル色の深い瞳、一瞬だが麻衣を抱擁した厚い胸、引き締まった腕の筋肉、ドラッカーの香水、それらを感じた時の感動が何度も蘇って来る。

 あのマウイの朝を回顧する度に麻衣は追憶の世界に入り込んでしまう。彼女にとって一番心地良い世界であるからであろう。あの日、あの場所に佇んでいた二人の存在を再現することは出来ない。しかし、その世界は麻衣の中ではいつでも再現される。

 あの時の心情、胸の高鳴りは11年間経った今でも鮮明に反芻出来る。

 これからはあの人、コニーと人生を共にして、いろいろなことを話したり、あの抱擁を受けることが出来るのね、今すぐにとはいかないかもしれないけど。もしかしたら今晩、彼は私の部屋で過ごすかもしれない、そうなって欲しいわ、と、あの日の午後、私は初恋をした女学生のようにはしゃいでいた。

 

 あの日の晩、撮影後の打ち上げ会はホテル内のポリネシアン・レストランで行われた。

「ねえ、麻衣ちゃん」

 レストランの喧騒の中で、隣に座っていたスタイリストの小野田が囁いた。彼は、隣のスタッフと話している叶に聞こえないように注意を払っているようである。

「今日の午前中は部屋でずっと休んでいたんだよね、ていうか表向きそういう事になってるんだよね」

 麻衣は一瞬硬直した。
 
 小野田は一体何を言おうとしているのだろうか?

「そうよ、どうして?表向きも裏向きも無いわよ」

「僕、12時半頃、君がタクシーから大きい箱を持って降りてきたのを見ちゃったんだよね。その後、僕タクシーの運転手に聞いたら、今のお客さんはラハイナから乗せて来たって言うんだよね」

 小野田は一旦、言葉を止めて麻衣の反応を伺った。

 麻衣はポーカーフェイスを維持するように努めていた。

「撮影をすっぽかしてラハイナで買い物してたことが叶さんに知れたら、ちょっとやばいんじゃない?てゆうか相当やばいよ。もちろん僕まだ誰にも何も言ってないよ」

「一体何が言いたいの?」

 小野田は上体を麻衣に多少近づけると、甘ったるい声調で囁く。

「今日でロケも終わりだし、今度は麻衣ちゃんといつ一緒に仕事できるかわからないよね。僕たち結構相性のいいチームだったと思わない?最後に一緒に飲みたいな、二人だけで。できたら君の部屋で」

 麻衣と叶以外のスタッフは、いずれも他のスタッフとの相部屋であった。

 小野田の細い目の下はアルコールで赤くなっている。真っすぐに切り揃えられた前髪からは汗が滴り、その狭い額の上に張り付いている。鼻の下にちょぼちょぼと生えている髭も汗ばんでいる。

 麻衣は、叶に対しては、罪悪感を抱いていた。彼女の嘘を信用して午前中の撮影を休ませてくれた。そのため、撮影は午後に振り替えられたのだ。叶は、撮影が午前中で終わったら、午後は島の自然と動物を撮影するために出掛ける予定であったと、後からスタッフの一人に聞かされた。

 以前の麻衣であれば、その嘘と秘密を守り通すためであれば、小野田の申し出を受けてしまっていたかもしれない。しかしその晩に関しては言語道断であった。最愛の男と結婚式を挙げた日の晩である。小野田が叶に麻衣の嘘を告げてしまうのならそれでも仕方がないと観念した。

「私はラハイナなんて行ってないわ、大体それどこ?マウイ島まで来てわざわざ買わなきゃならないものなんて無いわ。バッグにも香水にも靴にも全く不自由はしていないのよ」

 麻衣は、嘘に信憑性を持たせるために、多少高飛車に振舞ってみせる。

 小野田は一瞬附に落ちない表情を見せるが、

「またまた麻衣ちゃん、僕が君を見間違えるわけないでしょ。毎日じっくり鑑賞させて頂いてるんだから」

 小野田は言葉をいったん止める。

「比較的カラフルなアウトフィットの多いこの辺で、黒いドレスは却って目立つんだよね。しかもディオールのね」

 麻衣が身に着けていたドレスは確かにディオールのものであった。

「麻衣ちゃん、忘れちゃったのかなあ。あのディオールのドレスは僕の見立てだったってこと、淋しいなあ」

 麻衣は一瞬、思案する。

 小野田さんの見立て?あのドレスは確か、パリを訪れた時にギャラリー・ラファイエットで私が自分で購入したものだわ。

 小野田は、ドレスに関して思案している麻衣を楽し気に鑑賞している。

 なるほど、鎌を掛けられたということね。そして私は見事に引っ掛かってしまったのね。

 麻衣がラハイナに出掛けていたことを小野田は確信した、麻衣はそのことを悟った。


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