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旅。【短編小説】

 旅を一頭飼っている。
 部屋から出られない私のために、母親が用意したものだった。
 旅は日中は私のベッドの足元で眠って過ごしていたけれど、夜になるとむくりと起き出して、遊び相手になってくれた。分厚くてごつごつした旅の背中は少し痛い。それでもしがみついて頬を当て、胴体に腕をまわすと、旅の肋骨の内側にあるものの鼓動と温かさが伝わってきた。

「コンヤハドコヘイキタイ?」

「碧い湖があるところ」

 旅は私を背に乗せたまま、開いた窓に足をかけて桟を蹴り、一気に空へ飛び上がった。眩い月に目を細めつつ下界を振り返ると、家の窓から母親がこちらを見つめていることに気づいた。だが私は旅との遊びに夢中になって、碧い湖を目指した。

 夜中の湖は、月光色を溶かし込み青白く煌めいていた。あの世とこの世を結ぶ流れが横たわっている。水面を漂う夜霧が手招きしたので、旅は湖の中に静かに足を踏み入れた。

「ねえ、湖に入ったら帰れなくなるよ?」

「ソウイウ旅モアル」

私は頷き、旅と一緒に湖の奥へと向かった。
 足を濡らす水の碧さが、体を這い上ってくる。旅も私もだんだんと碧に染まってゆく。
水のような体。滴る碧い雫。漣は耳のそば。
髪が水に広がる。
もう乾くことなどないと分かった。



 ベッドに横たわる私の手の指を、母親は祈りの形に組んだ。それから開いたままの私の瞼を、指の腹で撫でて閉じた。
 ベッドの下では、遊び疲れた旅が寝息を立てていた。母親は旅の濡れた体を枕元にあったハンカチで拭いてやった。白いハンカチに碧い染みがついた。そして、長い混沌から解き放たれた私の顔に、その白いハンカチをしずかにかけた。


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眠れない夜に

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