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夜中の黒糖ぷりん。

ただいま。
玄関の外で大きなため息をついてから、
なんとか取り繕ってドアを開ける。

おかえり。
リビングへ入ると、
夕食の支度をする母の声と
テレビの音がした。
私の双子の弟が
ソファに寝転がって漫画を読んでいる。
温かくて明るいシーリングライトが、
泣いた目に眩しかった。

何食わぬ顔で手を洗い、
ひとりテーブルにつく。
頬杖をつきながら、
頭の中を素通りするテレビのニュースをただ、
ぼんやりと眺めていた。
いつもなら
母の夕食作りの手伝いをするのだが、
その日はひどく疲れたふりをして
座っていた。

「さあ、食べるわよ。」
母の言葉で腰を上げる。
皿の乗ったお盆を持ってきた母と入れ違いに
キッチンへ行く。
顔を合わせたら、
泣き腫らした目を見られてしまうかもしれない。
早く腫れがひいてほしいと願いながら、
ゆっくりゆっくり
茶碗やらサラダボウルやら小鉢やらを
テーブルまで運んだ。

途中、
日頃からデリカシーのかけらもない弟が、
チラリと私を見たのがわかった。
泣いた跡の残る私の顔のことを
弟が何か言い出したら、
手近にあったキーホルダーを
メリケンサックがわりにして、
一発お見舞いしてやるつもりだった。
しかし弟は
私から漂う殺気を察知したのか、
何も言わずにいたのだった。
私があまりにも悲壮なオーラを
醸し出していたことに、
怯んだのかもしれない。
さすがにこの日の私は、
弟に八つ当たりする気力もないほどに
沈んでいたというのが
本当のところだったけれど。

いただきます。
仕事で帰りの遅い父を待たずに、
母、弟、私は夕食をとり始めた。
テレビの中では
見たこともないお笑い芸人が、
笑うツボのない話を延々と続けていた。
私は淡々とそれに見入るふりをしながら
箸を口へ運ぶ。
大好きな鯵フライなのに、
食べたい気持ちが湧いてこない。
ゴム草履を噛んでいるようだった。
味もよくわからないまま
機械的に口を動かすけれど、
胃が受け付けない。
熱心にテレビを観ていた弟は、
そこで笑うかね、という妙なタイミングで
突然大笑いして、
味噌汁の入ったお椀を倒した。
ああもう何やってるの、と
母は大きな声で言いながら、
キッチンから取ってきた台ふきんで
テーブルを拭く。
その機に乗じて、
私は食べかけのおかずの乗った皿たちを
片付けてしまった。
そそっかしい弟に少し感謝しながら。

自分の部屋に早々に引っ込んだ私は、
ベッドに寝転んで天井の木目模様を見上げていた。それが人の顔に見えて仕方がなかった。


恋人とさよならした。


この五年間、私の左側は彼のための場所だった。
薄い体に付かず離れずの
たぽっとしたシャツを着こなす
お洒落のセンスや、
くしゃっと笑った時の愛嬌のある眉。
私のくだらない話に笑い転げて、
こんなに笑ったのは初めてだよ!と、
目尻の涙を拭うしぐさ。
窓からの光煌めく
陽当たりの良い彼の部屋。
フローリングの床にごろんと転がる私たちは、
まるで二匹の猫で。
あー、
このままずっと一緒にいられたらいいのにね、
と屈託なく言った時の彼の八重歯も。
全部全部、宝物のように愛した。

それでも
人の心は、いつか変わってしまう。
永遠はない。
太陽は沈み
明日になればまた昇るけれど、
それは昨日とまったく同じ光ではない。
違うものを見てきたわだかまりを
後回しにするほどに、
隣を歩く人の歩幅がわからなくなる。
始めはほんの少しの差だったけれど、
気づいた時には彼はだいぶ先を歩いていて、
私を振り返ることもなく
どんどん先へと行ってしまった。
そしてその先の道は二手に分かれていて、
ふたり手を繋いで同じ道を歩くことは
もうできないのだ。
私はひとりが嫌い。
そして、心がここにない人と歩き続けることは、
もっと嫌いだった。

彼がほかのおんなの子と話す時はいつも、
顔と胸を交互に見て
値踏みしていることは
わかっていた。
そんな一面さえも含めて、
天真爛漫な素直さに惹かれたはずだった。
あんなに好きだった気持ちは、
どこへ行ってしまうのだろう。

好き過ぎることがつらくて
バスタブの中で泣いた夜。
それは苦しいのにどこか甘くて幸せで。
明日はきっともっと彼を好きになるのだと
わかっていた。
つい三十分前まで私の手の上に重ねられていた
彼の温もりと匂いを想いながら、
生まれたままの無防備な自分の体を
バスタブの中で抱きしめた。

その気持ちが嘘なんかであるはずがない。
あるはずないのに。
気持ちは手で掬ったお湯。
温かさはいつか冷めて、もれてゆく。



思い出の品は捨てる派だ。
それがどんなに高価な
誕生日プレゼントのエメラルドのピアスでも、
旅の記念に冗談半分で買った、
もぐらのキャラクターのお揃いのTシャツでも。
ぎゅっと強く目をつむって、
思い切ってゴミ袋に投げ込む。
そして迷い出す前に
ゴミ集積所に置き去りにするに限る。

こっそりと家を出てゴミ袋を捨てに行き、
部屋でまたひとしきり泣いて。

落ち着いた頃に母がドアをノックした。

「黒糖ぷりん、あるんだけど。食べる?」
「食べるよ。そっちに行くから置いといて。」

母を追い払うために、
ドア越しに私はわざと明るい声で返事をした。
そして鏡を見て、
ウサギほどには目は赤くないと判断してから
キッチンへ向かった。

なかなか来ない私のために、
母はキッチンのテーブルの上の灯りだけを
つけておいてくれた。
母が作った黒糖ぷりんが、
透明なガラスのカップの中で
静かに光っている。
艶のある褐色の表面に、
灯りのシルエットがトッピングされていた。
黒糖の素朴さは懐かしく、
大地の味がする。
それはいつでも激甘なのだ。

私が小さかった頃から、
母はよく黒糖ぷりんを作ってくれていた。
たいていは、何かがあった時だったと思う。
小学校の運動会の後。
中学の陸上部の大会の日。
高校の合格発表の夜や、
大学時代の海外留学への出発の朝。
気持ちの区切りになるような時には、
必ず黒糖ぷりんが食卓に登場した。
家族で沖縄旅行をした時に
お土産屋さんの店先で、
岩のようにごつごつした黒糖の塊を
真剣な眼差しで見つめていた
母の横顔を思い出した。


母も弟も
もう寝てしまったようなので、
私はひとりきりで夜中にぷりんを食べた。
湯煎しながら蒸したぷりんは、
しっかりしていて好きだ。
スプーンのかたちにぷりんを切り取ると、
底からカラメルがにじみ出す。
苦いくせに優しいカラメルが、
夜のように顔を出す。
母が作るぷりんの深く濃い甘さに
心の鎧を外された私は、
また少し泣いた。

鼻を啜りながらぷりんを食べていると、
母が起きてきた。
眠そうな顔で冷蔵庫を開け
冷たいミネラルウォーターを出すと、
自分の分と私の分、ふたつのグラスに注いだ。

「夜中にぷりんを食べてるあんたを見てたら、
小さい頃のことを思い出したわ。
あんたは病気がちで、
夜になるとしょっちゅう具合が悪くなってたよね。
そのたびに病院へ駆け込んで、
お父さんと二人でオロオロしてた。」

「薬をもらって、とりあえずお家で
様子を見ましょうって言われて帰ってきて。
夜中の三時だというのにあんたったら、
お腹がすいたって言い出したのよ。
びっくりするじゃない、
さっきまであんなに具合が悪そうだったのにさ。」

母はグラスの中を覗き込みながら、
思い出し笑いをしていた。

「仕方がないから、冷蔵庫の中で
一番消化の良さそうなものを食べさせようと
思って探したら、ぷりんがあったの。
それね。私が作りおきしておいた黒糖ぷりん。」

私は手元のぷりんに目を落とした。
ぷるんと揺れることもない、
硬めのぷりん。

「そのぷりんを食べたらさ、あんた、
こう言ったのよ。
『ママ、このぷりんのなかには何が入ってるの?
ちょびっと、ナミダの味がする』って。」

母の中に、小さな頃の私がぴょこん、と
現れたのだろうか。
母は慈しむような眼差しで、遠くを見た。

「少ししょっぱいって言ったの。
私が作るおやつなんてテキトーだから、
材料を間違えたのかなって最初は思った。
それにしても、驚いたわ。
涙がしょっぱいということを、
まだ小さかったあんたが知っていたことに。」


悲しい時。
いつだってこっそり泣いていたかった。
泣いた顔を見られたくなかった。
どうしたのどうしたの?
どこか痛いの?
悲しいの?
平気?
そうやって矢継ぎ早に聞かれるたびに
私の心はぐるぐる渦巻いた。
しゃくりあげて上手く話せないだけではなく、
泣いている理由を説明なんて出来っこなかった。
平気じゃないから泣いているのだよ。
放っておいて。
でも、放ったままにしないで。
正反対の思いにかき回される悲しい私は、
ただの駄々っ子に見えたことだろう。
涙が流れるままにまかせていると、
鼻の脇を伝って唇の合わさったところに、
生温かい水が落ちてきた。
それはとてもしょっぱくて、
私の体の中には海があるのだと知った。


二度目の入院の時。
廊下を歩く看護師さんや面会の人の足音、
食事の配膳をする人の声。
それが私にとっての賑やかさだった。
音が行き交う昼間はまだマシだった。
夕方、
洗濯する物を持って家族が帰ってゆく後ろ姿を、
私はひとり病室の窓から見下ろしていた。
私はどうしてあの中にいないのだろう。
私はどうしてここにいるのだろう。
顔を上げると
オレンジ色の夕陽が
遠くのマンションの陰に沈んでゆくところだった。
私の病室も私自身も
しんと静まり返ったオレンジ色に染められた。
それはわずかな時間のことで、
あたりはあっという間に闇に包まれ、
窓の外ではごうごうと風が唸る。
世界の中で自分は今、
ひとりぽっちなのだと感じた。
父も母も、弟もいない。
みんなはきっと今ごろ、
あたたかいテーブルを囲んで
学校であった出来事を話したり
テレビを観て笑ったり、
母の膝の上に座って
甘えたりしているのかもしれないと思うと、
心がずんと重くなった。
私はここにいるよ。
こんなに暗い夜の中、
風の音に怯えながらここにいるんだよ。
それは誰の耳にも届かない言葉。
荒れ狂う夜の風の中へ、
私は心の伝書鳩を飛ばした。
鳩はすぐに風にもみくちゃにされ、
方向感覚を失い、
鋭い木の枝の先にひっかかった。
誰かの元へ辿り着くことはおろか、
私自身の中へも、
心の伝書鳩は戻って来られなかった。
ここではひとりで思いきり泣いてもいい。
心を手放した私は、孤独な子どもになった。



「その時の黒糖ぷりんには、
あんたの涙がこぼれ落ちていたんだと思う。
他の子達は太陽の下で汗かいて走り回って遊んでるのに、あんたは病院と家のベッドの往復でさ。
悲しかったし、寂しかったよね。」

「涙入りのしょっぱいぷりんなんて
もう二度と食べさせない、ってその時誓ったの。
私が作るぷりんはとびきり甘くて体に優しくて、
あんたや、他のみんなを
元気にするものでなくちゃ意味がない。」

だからこんなに甘いんだ。

黒糖なら大丈夫、という
わけのわからない自信があるからって、
入れすぎだよ。
体にいいのかどうかそれは疑問だね、
などと軽口を叩きながら、
私はぷりんを食べる。
私の気持ちが入っているからなのか、
一瞬、甘苦かった。
思い出の甘さと別れの苦さが、
黒糖ぷりんになだめられていく。

栓がはずれたかのように
後から後から涙があふれてきた。
大人になっても私は、
母の前で泣くのは恥ずかしいことだと思っていた。
それなのに
涙を押しとどめることができなかった。
私がしゃくりあげながら
夢中で、半ばヤケ気味にぷりんを食べる様子を、
母は黙って見ていた。

「甘いものには、甘えなよ。」
「なにそれ。」
「駄洒落だけど?」
「つまんない。」
「コラッ。」

泣き笑いする午前一時。


誰かを愛したり
愛されなかったり
出会ったり別れたりしながら、
私は私を知ってゆく。
こんな私だから嫌いになったのだろうとか、
私のここを好きになってくれたのかとか、
すべての愛の中で
自分が見えてくることの喜び、
そして恐ろしさ。
もう誰も好きになったりしない。
そう決心しても
気がつくとまた、誰かを好きになっている。

今夜は
母の作った黒糖ぷりんの甘さに、
涙のしょっぱさを打ち消してもらう。
母の黒糖ぷりんは無敵。
泣きながら食べても充分甘い。
黒糖の持つ
かどのない、まあるい味に甘えたくなる。
時には疎ましく思うことも許されているのは、
揺るがない思いがあるからなのだろう。

「もう寝るわ。夜更かし続きじゃお肌に悪いからね。じゃあ、おやすみ。」

私がぷりんを食べ終えるのを見て、
母は少し安心した顔をしてキッチンを後にした。
私はひとりで悲しい顔をして
夜を過ごさずに済んだのだった。
空っぽを埋めるぷりんと母の存在が、
越えられない夜のそばにあった。
ぷりんが私の体の中で、
小さくほのかに光っている。
それがこの闇夜の中で迷子にならないための
道標のように、
私を支えているのだ。



皿を流しに置いて部屋へ戻ろうとした時、
トイレに起きてきた弟と鉢合わせした。
悪魔みたいにクシャクシャな髪で
寝ぼけた弟が

「あのさ」

と、声をかけてきた。

「何?」
「ねーちゃんは、大丈夫だよ。」
「あ、そう。」

眠さで呂律の回らない弟に、
そっけなく言葉を返して
私は部屋のドアの取っ手に手をかけた。

「大丈夫だから。これからも。」

そう言うと弟は、
目をつむったままふらふらと
自分の部屋に入っていった。
なんなのあれは。と思う反面、
やっぱりあいつは私の双子の弟だ、
すべてお見通しなのだなと思うと、
鼻の奥がつん、とした。
ここにも黒糖ぷりんみたいな奴がいる。
私は弟の部屋のドアに向かって
小さく、ありがとう、と呟いた。

今夜だけは泣きたいだけ泣かせてほしい。
夜明けまでには、まだ時間はある。
気がすむまで泣いたら、
明日の朝にはおはようと言うから。
簡単に笑顔になれるほど
私はタフじゃないけれど、
昨日までの私とは違う一歩を
踏み出す覚悟を決める朝にしたいのだ。

fin.

小説、書きました。
お読みいただけたらうれしいです。


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眠れない夜に

文章を書いて生きていきたい。 ✳︎ 紙媒体の本を創りたい。という目標があります。