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ただぼんやりした不安

ぼんやりした不安

芥川龍之介の不安とは


芥川龍之介は自殺する直前に、友人の久米正雄に宛てた遺書
「或る旧友へ送る手記」
で自殺の理由を書き送っている。

少くとも僕の場合は唯ぼんやりとした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である。
(すくなくともぼくのばあいはただぼんやりしたふあんである。なにかぼくのしょうらいにたいするただぼんやりしたふあんである。)

「或る旧友へ送る手記」

この「ぼんやりした不安」という言葉は、当時の日本社会に、今なら「流行語大賞でも取れるのではないか?!」というほどのインパクトを与えた。

事実、芥川が自殺したことにショックを受けた若者たちの後追い自殺が相次ぎ、宗教になぞらえて「芥川宗」とも言われたほどだ。
また自殺した1929年(昭和2年)は、昭和金融恐慌が起きるなど、世相が暗い方向へと傾き始めた年でもあり、「ぼんやりした不安」という言葉が暗示する漠然とした恐怖や閉塞感に共感した若者も多かったのではないだろうか。

この「或る旧友へ送る手記」の中に書かれている「自殺の手段に関する芥川による考察」が面白いのでご紹介したい。
縊死…美的嫌悪のため断念。
溺死…水泳が得意なため断念。
轢死…美的嫌悪のため断念。
ピストルやナイフ…手が震えて失敗する可能性があるので断念。
ビルの上からの飛び降り…見苦しいので断念。
僕はこれ等の事情により、薬品を用ひて死ぬことにした(中略)美的嫌悪を与へない外に蘇生する危険のない利益を持つてゐる。

炸裂するナルシシズム!ここまで芥川龍之介を自殺に固執させたのは発狂への恐怖だった!!

芥川の実母は、彼がまだ10歳だった時に精神に異常をきたして亡くなっている。
愛する母が精神を蝕まれていくのを目の当たりにした芥川少年の恐怖と絶望は、いかほどだったか想像に値しない。

狂死するぐらいなら自死を選ぶ
遺稿となった「或る旧友へ送る手記」の中で
自分の天才ぶりを誇らしげに
「みずから神にしたい一人だった」
と回想するナルシスト芥川龍之介は、きっちりと小説『続西方(せいほう)の人』を書き上げた後、1927年(昭和2年)7月24日未明、現在の東京都北区田端にあった自宅で自殺した。
使用した薬品については、ベロナールとジェノアルとする説と青酸カリ説とがあるが、どちらにせよ「或る旧友へ送る手記」に書かれている通り、服毒自殺だった。

自身の子供たちに宛てた遺書にはこう書かれていた。

人生は死に至る戦ひなることを恐るべからず。

子供たちに宛てた遺書

日記に記された背徳のラブライフ


写真などを見てもわかるように芥川龍之介はかっこいい。
当然のようにモテていた。
さらに彼は友人たちの間で、なんと「巨根」として知られていた!!
だからモテたのだろうか…
いや、イケメンでベッドでも、となれば、それはさぞかし、・・・もうやめておこう。

東京都芸大在学中に青山学院(現・青山学院)英文科卒の吉田弥生という女性と親しくなり、結婚を考えるが、芥川家の猛反対で断念する。

その後27歳で結婚し、長男・比呂(俳優・演出家)、次男・多加志、三男・也寸志(作曲家)と順調に子供が生まれるのだが、幸せな家庭生活の傍ら、芥川は、実は姦通(かんつう)を行っていた。

姦通(かんつう)は、社会的道徳的に容認されない上に、民法[1]違反行為である不貞行為性行為のことである。婚外性交渉[2]とも。

Wikipediaより

相手は、秀しげ子という歌人の女性で、芥川は彼女の事を日記で「愁人(しゅうじん)」(※恋人という意)と呼んだ。

午後江口を訪ふ(おとなふ)。
後初めて愁人と会す。(中略)心緒(しんしょ)乱れて止まず。
愁人と再会す。

「餓鬼窟日録」

不倫の末、しげ子には子供ができる。
当時、北原白秋が「姦通罪」で告訴され、世間からバッシングを受けるという事件が起きていた。
他人ごとではない…
「これはあなたの子供よ」
と、しげ子に言われ、芥川はその脅しに怯えることになる。

そこで彼の取った行動は、大阪毎日新聞社の海外視察員として、上海、蘇州、北京などへの、3か月間に及ぶ中国旅行という名の逃避行だった。
旅の途中で自殺も考えたようだが、結局果たせずに帰国した。

芥川龍之介の不幸

1921年(大正10年)胃腸障害、神経衰弱、痔疾を患う。この三つは死ぬまで持病と化す。「痔猛烈に再発、昨夜呻吟(しんぎん)して眠られず。」と書き残している。

1926年(大正15年)胃潰瘍、神経衰弱、不眠症が昂じる。

1927年(昭和2年)義兄が放火と保険金詐欺の嫌疑をかけられて鉄道自殺。多額の借金と扶養すべき家族が残される。
同年、芥川の秘書を務めていた平松麻素子と、帝国ホテルで心中未遂事件を起こす。

ただでさえ、神経衰弱気味だった芥川龍之介は、多くの扶養家族と、思わぬ多額の借金を背負わされた。
お金のために売文業に勤しみながら、心も体も病んでいくようになる。
妻の友人でもあった秘書の平松麻素子との心中は、二度も行なわれ、いづれも未遂に終わった。
芥川の苦悩に同情した麻素子だったが、自殺を実行する直前になって怖くなり、芥川の友人や妻に自殺の計画があることを教えてしまっていたのだ。

『僕はこの2年ばかりの間は死ぬことばかり考へ続けた』

と追い詰められ、骨と皮だけの骸骨のような有様になった夫を見た妻は、夫の自殺を予感するようになったという。

谷崎潤一郎どの文学論争

1927年(昭和2年)芥川は、谷崎潤一郎と文学史上有名な論争を行っています。
「物語の面白さ」が小説では一番重要だと主張する谷崎。
「物語の面白さ」は小説の質には関係ないと反論した芥川龍之介。

「話らしい話のない」純粋な小説というものに価値がある。

『文芸的な、あまりに文芸的な』より抜粋

「エンターテインメント」を求める谷崎。
「芸術性」を求める芥川龍之介。
という構図になる。
実に興味深い論争だったが、これは芥川の自殺でピリオドを打たれてしまう。
これに関しては、文学に興味がある一人としては、是非とも決着をつけていただきたかった残念な出来事である。

水涕(みづばな)や鼻の先だけ暮れ残る

芥川龍之介の死の前日の句

この句は、芥川龍之介には夏目漱石に絶賛された『鼻』という短編小説があるが、その主人公の細長い鼻がモチーフになっていると言われている。

芥川龍之介の葬儀で、友人葬代として弔辞を読んだのは、第一高等学校以来の付き合いがあった菊池寛だった。菊池は芥川の名を残すため、彼の死の8年後、『新人文学賞芥川龍之介賞(芥川賞)』を設けた。
ちなみに芥川の命日の7月24日は、代表作『河童』から取って河童忌と称されている。

芥川 龍之介(あくたがわ りゅうのすけ、1892年〈明治25年〉3月1日 - 1927年〈昭和2年〉7月24日)は、日本の小説家。号は澄江堂主人(ちょうこうどうしゅじん)、俳号は我鬼(がき)。東京出身。『鼻』、『羅生門』、『地獄変』、『歯車』などで知られる。
服毒自殺にて生涯を終える
享年35歳

Wikipediaより参照

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