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寒露 * 瓶ビール涼しくすべる寿司レーン

台風が、重たく湿った空気を丸ごと抱え去った翌日。
八十五歳の女友達が久しぶりに会いにきた。上品なグレーの麻の帽子を被り、手押し車を押している。荷物入れが赤いチェックで、アラジンの魔法瓶の柄だ。子供の頃に飲んだ、アラジンの魔法瓶に入ってる甘いアイスティーの味が蘇る。

くるくる寿司でお茶しよか。お昼間から。と彼女が言った。

半時間ほど回転寿司でお喋り。
瓶ビールが、お椀に斜めに入って、シューっと寿司レーンを滑ってくる。
秋の風のようだ。
茶色い瓶を持つとひんやりしていい気持ち。

相変わらずお肌が白くてきれいね。
あんたかていつまでも独身に見えるわ。艶がある。
相変わらず滑舌いいね。
そやろ。この三本な、セラミックにしてん。
見せてくれた彼女の歯は、実に自然できれいだった。

この歯ぁが12万で この歯ぁが10万で この歯ぁが11万で合わせて33万や。およそな。

暗算が速いのは、幼い孫を塾に送り迎えしていた頃に、彼女も孫と一緒にフラッシュ暗算をしていたからだ。その塾ではフラッシュ暗算の他に速読も教えていたので、待ち時間に速読法を齧った彼女は、本を読むのも無茶苦茶速い。そんな彼女は歯の治療についても長々と語ったりしない。

セラミックがええ。明日死んだとしてもな。

と言うだけだ。

「あんたは乳癌の検診、どこ行っとる?」
「○○外科。女医さんだし」
「あそこは腕はええけど、機械が古い」
「機械?」
「いくら医者の腕が良くても、癌が写真に写らな始まらん。検診は機械やで」  

彼女のせりふは、よく切れる包丁のようだ。もし私が武士で、切腹をすることになったら、彼女のような武士に介錯をお願いするだろう。



男女の双子を産んで、産院から帰ってしばらくの間、私は近くに双子親仲間が欲しいという思いを募らせていた。そこで、神社にお宮参りにきた男女の双子の母親に、「お友達になってください」といきなり申し出て、同じ月齢の双子ママ友2名を作った。SNSはまだなかった。

私たち三人のやりとりは、普通のメールを一斉送信・全員に返信する形でおこなっていた。LINEはあったかもしれないがまだやっていなかった。

寝かしつけ、授乳、離乳食、外出。どれをとっても、双子に同時にとなると工夫が必要で、我々は良い工夫を編み出しては共有した。

寝返りを打てるようになると、赤ちゃんは布団の上を活発に転がり出す。前後左右上下、無軌道無計画に動く。畳の上に布団を敷いて寝かせていたうちの場合、布団から出て部屋のきわまで転がっていき、足で障子や襖を蹴ったりしていた。

この時期の双子を、大人一名で寝かしつけるのはむずかしいが、家の者が働きに出ている時間帯は、なんとかせねばならない。

まず、双子を両脇に寝かせて川の字になる。変わりばんこにお腹の上に乗せて抱っこして寝かせ、寝入ったらそっと降ろす。が、眠りが浅かったり、降ろし方が雑だったりすると赤ちゃんはすぐに目を覚まして泣き出す。もう一人の赤ちゃんも、いつまで待たせるんやコラ、という感じで泣く。

そこで、よくおこなっていたのは“エッフェル塔作戦“と呼んでいたものである。

自分が仰向けでエッフェル塔のような形になり、(ようするに足を広げて)、赤ちゃんの一人をお腹の上方に乗せて腕で抱っこし、もう一人の赤ちゃんをお腹の下方に乗せてその下半身を股で挟みホールドする。双子が両方とも寝たら、そっとその体勢から離脱する。

この方法のメリットは双子を同時に寝かしつけられることだが、エッフェル塔体勢を解くのがけっこうむずかしいので、二人の赤ちゃんが完全に深い眠りに落ちてからでないと、失敗に終わる。そのため、「寝たかな?」と思ってから最低でも10分くらいは、そのままの体勢にしておかないといけない。その間に自分も寝落ちしてしまい、お腹の圧迫感によって悪夢を見る、というデメリットがある。

私がよく見たのは、悪い組織の見張り番をしていて、相手組織から追いかけられるという悪夢で、最後は追い詰められて崖から落ちるパターンが多かった。落ちる時にうわぁ、と叫んでその声にびっくりして目が覚めるのだ。

✴︎

書き出しなさい。あなたがしようとしていることを、ぜんぶ。それを誰かに見せなさい。あなたがぜんぶやり終えるまでそのひとを眠らせなさい。できるだけながく時間をかけてやりなさい。

オノ・ヨーコ「グレープフルーツ・ジュース」より

✴︎

ある日、ママ友の一人から、写メが送られてきた(この頃は、メールに写真データを添付するという方法がとられていて、それを「写メール」あるいは「写メ」と言った)。

それは赤ちゃんの写真ではなく、彼女が、黒いフェイスガードをつけている写真だった。サッカーワールドカップ日韓大会(2002年)の日本代表、宮本選手が鼻骨骨折をして、フェイスガードを着用して試合に出場していたが、まさにあれと同様のものだ。

エッフェル塔作戦の実行中に、仰向けの体制でうっかり寝落ちしてしまったママ友。そのお腹の上から転がり落ちて、寝返りを打った赤ちゃんの足が、「かかと落とし」の形で、母親である彼女の鼻を強打し、その鼻骨を折ってしまったのだ。

当時、あらゆる情報を共有し、さまざまな想定をしていた我々だったが、仲間の一人が、サッカーワールドカップ日本代表と同じ怪我を、赤ちゃんのかかと落としで負うとは誰も予想していなかった。

彼女からのメールには一言、
「寝かしつけも命がけやで」
と書かれてあった。

✴︎

立ちつくしなさい。
夕暮れの光の中に。
あなたが透明になってしまうまで。
じゃなければ
あなたが眠りに落ちてしまうまで。

オノ・ヨーコ「グレープフルーツ・ジュース」より



2年前の秋。首のうしろに包丁が刺さっている夢を見て起きた。
左の首の後ろから頭の左上方にかけてズキズキと痛む。

一日我慢しても治らないので次の日に脳外科に行きMRIを撮ってもらったら、椎骨動脈乖離(ついこつどうみゃくかいり)だった。椎骨という首の骨あたりにとおっている動脈の壁が破けたらしく、血管の一部分がぷっくりふくれていた。

血管の壁は三重構造になっていて、さいわい内側の壁だけが破けたのだが、壁は破けたその瞬間から、修復をし始める。ようするに、時が経てば経つほど、また破けるリスクは減ってゆくということだった。包丁が刺さっている夢を見て起きてから、すでに丸一日が経過しているので、乖離から推定24時間経過、ということで再乖離のリスクはかなり減っていると予想された。

「今時分は入院したら面会もでけへんから逆に大変やし、家で安静にしていなさい。完全に壁が修復されるまで、血圧が上がるようなことをしたらあかんよ」
とお医者が言う。
「え、たとえばどんなことですか」
「そうやな、あっついお風呂に急に浸かるのんとか、大声出すのんとか、カッとなるのが一番あかん。怒鳴ったり、叫んだり、びっくりするのもあかん。血圧が一気に上がったら、弱いところがまた破けてしまうから」
とお医者が答える。
「血管はそないにぽんぽん破けるもんでもないけど、もしバットで殴られたような痛みがあったらすぐ救急車呼んでな。先生の携帯番号も一応教えとくからな」
と言ってメモ書きもくれた。

「もうすぐ秋祭りなんですけど笛吹いちゃダメですか」
と聞いたら、お医者はやや呆れた顔で
「やめといた方がええな、そもそも二週間ぐらいは痛くてそんなことでけへんよ」
と言った。

とりあえずうちに帰って、壁に「救急車 119」と書いて貼り、子供たちに、「お母さんが倒れたら119に電話して」と言って薬を飲み、床についた。横になると痛みがひどくて、ちょっとした音や光もつらいので、部屋を真っ暗にした。

子供たちが、気を遣って上の階でスイカバー(すいかの形をした氷菓子)を食べている。見てもいないのになぜスイカバーだとわかったのかというと、その時、音や匂いがめちゃくちゃ拡大して感じられたからである。

痛みに神経をフォーカスしすぎて、神経がむきだしになったというか、体そのものが感覚器になったようだった。

🌠

何時間たったのだろうか。
寝ているのか、寝ていないのか、横になっているのか、縦になっているのかも、よくわからなかった。


私は何かの組織の下っぱだ。
メインの人たちがビルの屋上のボイラー室で作戦を実行している間、少し離れた階段の途中にいて、下から誰か上がってこないか見張っている。
下から足音がする。
武装した大きな欧米人の男が5人ぐらい階段を駆け上がってくる。
階段の踊り場にロッカーが見える。
ロッカーの中に入った。
ロッカーは透明のアクリル板でできていて、外から中が丸見え。
まずい。
後ろを向いて身を丸くしてうずくまる。
階段を駆け上がる足音がどんどん近づいてくる。
ロッカーを開ける音。
肩をぐいっとつかまれた。

うわぁ!

自分の叫び声で目が覚めた。
心臓がめっちゃドキドキしている。
首の後ろもズキズキ痛む。
そのズキズキという音が大音量。
心臓の、ドキドキいう音も大音量。
自分の体が鳴っているのを、振動として大音量で感じる。
まずい。
落ち着け。
落ち着かないと死ぬ。


お ち つ け


あ。言葉が戻ってきた。
失っていた言葉を獲得したと言ってもいい。
「おちつけ」という四文字が、一文字ずつ私に「戻ってきた」。
そして徐々に、言語そのものが私に戻ってきた。

しばらくたってから、私は理解し始めた。
私は悪夢を見て、怖さが最高潮のところで起きたのだ。
赤ちゃんを寝かしつけていた頃によく見ていた、見張り番の悪夢だ。
だが、それはただの光景であって、言語化されたものではなかった。

言葉が戻ってきてから、悪夢の内容を思い出して、書いた。
つまり、夢の内容は、もともと言語ではなかったのである。
ただそこにある光景として、私の脳に投影されたものだ。

「敵だ」とか「まずい」とか「隠れよう」などという思考も、言語ではなく、言葉にならない感覚としてただ存在していた。言葉が戻ってきたあとで、それを「敵だ」とか「まずい」とか「隠れよう」という言語に置き換えたのだ。

痛みに神経をフォーカスすることで、私は感覚そのものとなり、匂いや音は拡大して感じるが、それについては何も「思わない」。つまり私は一時的に言語を手放し、ただ感覚だけの存在になっていたのだ。そして言語で構成された脚本無しに展開する、感覚のみで構成された光景を、夢に見た。(悪夢だったけど)。

という話を、仏教を研究している友達にしたところ、
「すごいじゃないか! そういう状態を『悟り』っていうんじゃないか?」と褒められたが、私の悟りは一瞬にして消えしまったから、悟り「のようなもの」だったにすぎない。

にしても、あの時、悪夢によって心臓がドキドキして、血圧は急激に上がっていたはずだ。大袈裟な言い方をすれば、あの時私は、自分の夢に殺されかけていたのだ。血管の壁が耐えてくれたおかげで、今こうしてぴんぴんして笛を吹いたり文章を書いたりできている。私には、血管の破けた傷口をふさいで必死に耐えてくれた細胞たちが、小さい神々に思える。

✴︎

あれから定期的に、首から頭にかけてMRIを撮り、異常のないことを確認している。緊急ではないので、人に聞いたり調べたりして吟味したクリニックで。

「うん。あそこは、機械も腕も良い。」
八十五歳の女友達がそう言って、大好きなハマチの握りをつまんでいる。

私たちはいつも、さらっと近況報告して、さらっとお会計を済ませて、さらっと帰る。

ほなな。また行くわ。生きとったらな。今年の栗名月は十月八日や、十五夜だけ拝んどったらあかんよ。十三夜もな。
彼女は手押し車を押して颯爽と帰っていった。

月に匂いを送りなさい。

オノ・ヨーコ「グレープフルーツ・ジュース」より




二十四節気 寒露かんろ 新暦10月8日ごろ

栗名月(くりめいげつ)
十五夜のひと月後に訪れる十三夜の月のこと。
十五夜の満月は芋名月。そのひと月後の十三夜を栗名月と呼んで、同じ場所で見るのが吉とされ、どちらか片方しか観なかったり別の場所で見ることは片見月と呼ばれ嫌われている。「一緒に月見ようよ」と言って月見に誘い、また一ヶ月後も「見ないと縁起悪いから」と言ってお月見に誘うためなんじゃないか。と私は思っている。




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