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空海が関西弁で語ってくれたらこんな感じと思って超訳しました③

難しい空海の言葉でも
関西弁に訳してみたら
すっと入ってくる。

ありがたいことに
前回、前々回と、
大変多くの方に空海の関西弁超訳
お読み頂けたようで、嬉しいです。

いつも関西弁で語ってくれる
僕にとっての「内なるお大師様」が
より多くの人へご縁が広がったようで
感慨深いです。

前回の記事はこちら↓

空海は膨大な数の書物を遺しました。
言葉によっては横断的に理解することで
浮かび上がってくる概念があったりします。

まだまだ深みがあるようです。

恐れ多くも、素人による超訳ですので
正確な訳語ではない可能性を
ご承知おきください。

ただ、僕にとっての純な表し方での
空海の言葉であるという事はお約束します。

また原文の美しさを損なわないよう
そのまま書き写しています。

【原文】(引用元)
関西弁超訳
・・・僕の感想

という順に記載しています。

ほんなら、空海が表した
めっさ美しい言葉の世界を
ご一緒に嗜みましょう。


元にさせて頂いたのは
苫米地英人「超訳 空海」PHP文庫、
宮下真・著、名取芳彦・監修
「空海 黄金の言葉」ナガオカ文庫です。
※金剛峯寺収蔵 弘法大師坐像より

<21>道

なんじ、来りて道を問へども道は本より名なし。

五部陀羅尼問答偈讚宗秘論

悟りの道について
いろんなこと言う人おるけども
それぞれの道の名前には
なんの意味もあらへんよ。

・・・

名前がついている、ということは
誰かが定義した教えだということ。

この道を行ってんねんから、
こうでなきゃあかん、とか思わなくていい。

人それぞれに悟りの道はあんねんから
名もなき道を信じて歩みや、と
解釈しています。


<22>悪人

物に定まれる性なし。人なんぞ常に悪ならん。

秘蔵宝鑰

物には決まった性質なんて
あらへんやろ。
せやから悪人もずっと悪人のままで
おるわけあらへんよ。

・・・
仏の教えをあまねく日本へ
行き渡らせようと努め続けたお大師様の
心づもりが伺えるようです。

ずっと後に「悪人正機説」が親鸞より
展開されますが、それとはちょっと
違うと思う。

もっと手前のところで、
人はいつでも変われるし、誰にでも
仏の道は開かれてんねんから
あきらめんなよ、と鼓舞して頂けてるように
僕は感じました。

<23>生縁

生縁あつまるときは則ち春苑の華も其の咲めるに譬うるに足らず。

遍照発揮性霊集 巻第八

この世界に生まれる縁っちゅうのはな、
春に華が咲き乱れるんとは
比べものにならへんくらい
喜ばしいこっちゃで。

・・・
ご縁が広がって行く様を
そんな風に感じていらっしゃったんですか。

死ぬほど厳しい修行や
困難な旅路をあえて歩んだ動機というか
エネルギーの元が見えた気がします。

自分を省みてみると
そのあたりの縁の持つ素晴らしさを
忘れかけていたように思えてくる。

見えにくくなっている現代だからこそ
心に留めておきたいところです。

<24>信修

迷悟われに在れば、 発心すれば則ち到る。 明暗他に非ざれば、信修すればたちまちに証す。

般若心経秘鍵

迷いも悟りも、自分の中にあんねんから
修行の決心をしたんやったら
必ず悟りの境地に達することができんねん。
仏様の光も、煩悩の闇も、
自分の中以外にはあらへんねやから
信じて修行すれば、
必ず悟りは開けるねんで。

・・・
即身成仏の「即」が速さのことではなく
「すでに」や「そのまま」
という意味であるのは
資料を読む限りは通説のようです。
同じように、「則ち」や「たちまち」も
その意味を援用して「必ず」と解釈しても
行き過ぎではないはずです。

やっぱりすでに、自分の中に
仏の光はあるわけですから。

見えなくしているのは
紛れもなくいつも自分だ。

<25>六塵

それ如来の説法は、必ず文字に籍る。文字の所在は、六塵ろくじんその体なり。

声字実相義

お釈迦様の教えは
文字で伝えられてんねんけど、
その文字は語感と言語と全部の感覚で
認識せなあかんよ。

・・・
六塵とは、
色・声・香・味・触・法のことで
五感プラス言語感覚を言います。

お大師様のバラエティ豊かな喩えは
きっと大量の書物を、そんな風に
あらゆる感覚で
共感覚的に捉えていたから
生まれたものだと想像します。

このあたり、密教らしいというか
未知の世界へアクセスする方法を
説いているようで興味深い。
その世界の広さも、うかがえます。

<26>悠悠

悠悠たり悠悠たり太だ悠悠たり。内外の縑緗けんしょう千万の軸あり。杳杳ようようたり杳杳たり。道をいい道をいうに百種の道あり。書死え諷死えなましかば本何がなさん。知らじ知らじ吾も知らじ。

秘蔵宝鑰

アホほど遠く、はてしなく、
あんたが想像できへん世界があるねん。
仏典とそれ以外の書物は千も万もあるねん。
広く、遠く、深く、
えげつないほど世界がある。
悟りを説くんにはなんぼでも道はある。
それらを書くこともなしに、諳んじることも
あらへんかったら、教えの根本を
なんで伝えることができんねん。
もしな、人から人へ伝えへんかったら
俺もその教えを知ることは
あらへんかったやろなあ。

・・・
悠悠たりとか杳杳ようようたりという
言葉のおかげで、果てしない広さが
浮かんできます。

僕の「六塵」で捉えてみると
大海原を見渡す感じ、波や風の音、
潮の匂い、海水の温度、潮風。

とくに、「知らじ知らじ吾も知らじ。」
というところがグッときます。
果てしない大きな流れの中に
自身を位置づけているようにも思える。

約2500年前から広がる波が
お大師様を通じて、
今ここに、届いているよう。

<27>塵

一切国土の所有のちり、一一の塵の中に仏みな入りたまう。

声字実相義

ぜーんぶの大地にある
どこにでもある塵にはな、
いっこいっこに小宇宙があって
仏様が居てはんねんで。

・・・
極大の世界に仏様を感じたと思ったら
塵のような極小の世界にも
仏様は居てはるという。

とくに、「六塵」を説いた書物の中で
これを書かれているというのは、
私たちの感覚すべてにも
仏様は宿っていると言うことができると
思います。

自分の感じたことに
自信を持ってええんですね。

<28>乾坤

山毫に溟墨を点ず、 乾坤けんこんは経籍の箱なり。

遍照発揮性霊集

めっちゃ高い山を筆にして
めっちゃデカい海を墨にして
仏様の教えは書かれとんねん。
そのお経を収める箱が
天地みたいなもんやねんで。

・・・
また極大の世界を広げて頂けます。
ハンパやないスケールの大きさは
お大師様らしいと思えてきました。

自身の六塵に限りを設けないからこそ
感じられる世界を
私たちに伝えて下さっているような
気もしてきます。

ほら、もっと感覚を拡げんかい、と。
仏の世界はこんなに広いんやで、とも。

<29>岐

経路未だ知らず。 ちまたに臨んで幾度か泣く。

遍照発揮性霊集

どれが正しい道なんか、
わからへんくて
分かれ道を目の前にしては
何度も泣いたわ。

・・・
お大師様の若き日の言葉です。
親戚に学費を出してもらって
官吏の訓練をすべく大学に入ります。
そこでは、ほとんどの授業が
儒教や道教に基づいてされたとのこと。

でも自分は仏教を学びたい。
家族の期待を裏切るのか、という迷い。

その後も、
修行の仕方や従事する師に迷ったり、
命を懸けて唐に渡るべきなのか、
と悩んだ様が想像できます。

お大師様でも迷わはることが
あったんですか。

共感してちょっと安心すると同時に
悩んで決断したからこそ生まれる
力の大きさを感じます。

<30>己身

如何が己身の膏盲を療せずして、たやすく他人の腫脚を発露すや。

三教指帰

なんで自分の病気も治さんへんままで
人様の脚の腫れ物のことを
とやかく言えんねん。

・・・
一つ前の言葉を残した後、空海は
24歳でこの『三教指帰』を書き下ろします。

三教とは、仏教、儒教、道教のことで
それぞれの教えを戯曲によって比較した上で
「仏教がいっちゃん優れてんねん!」と
断言した力強い著作です。

家族の期待を背負って迷ったあげく、
自分の感覚を信じて貫こうという
決意の表れが、本書の全体を通して
強く感じられてきます。

原文の「膏盲」は重い病のこと。
それを治すためにも
「俺は仏教に行くわ」という
大声の宣言が聞こえてきそうです。

最後に、その空海直筆の本書の
文字をご覧に入れて
あなたと僕の「六塵」が
広がるようにと願います。

NHK大阪放送局出版「空海と高野山」より金剛峯寺収蔵、三教指帰
NHK大阪放送局出版「空海と高野山」より金剛峯寺収蔵、三教指帰

幾度も泣きあかした後
強い決意を持って筆を取った様が
浮かんできそうです。

まとめ


30篇の言葉を記事に起こしてみて
やっと、おぼろげながら
仏様の輪郭が浮かんできた感触が
あります。

六塵という6つの感覚を
フル稼働させて
極大から極小にまたがる
広大で止めどない仏様の世界を
私たちに見せようとしてくれているような
気がしてきます。

ありがたいですね。

あなたの前にはどんなふうに
仏の世界が広がったでしょうか?

ご一緒に楽しんで頂いて
ありがとうございました。

南無大師遍照金剛

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