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自然なきエコロジー/ティモシー・モートン

"エコロジーは、もしそれが何事かを意味するのだとしたら、自然がないことを意味する"

年末からすこし読み始め、一度中断して、また年明けすこし立って読むのを再開していたティモシー・モートンの『自然なきエコロジー 来たるべき環境哲学に向けて』
ようやく読み終えたが、この400ページ弱のそれなりの分量の本のなかで、モートンが現代のエコロジー的な思考法や態度の源泉を19世紀のロマン主義の芸術に認めて、その美的な距離感を批判しつつ、最終的に提唱するダークエコロジーの倫理観がものすごくしっくりきた。

ダークエコロジーは、対象を理念的な形式へと消化するのを拒絶する、倒錯的で憂鬱な倫理である。

ダークエコロジーは、この穢れた大地をそのままに、ここに立つ自分たち自身の存在を含め、受け入れる態度だ。それは美化され、それゆえに人間存在のことさえ思考から除外して、その美しさを追求しようとするディープエコロジーの陥りがちな美的態度とは正反対の姿勢を取ろうとする。
もちろん、モートンはディープエコロジーが目指す環境にやさしくあろうとすることそのものを批判するのではない。そうではなくモートンのダークエコロジーは、「幻想の美的な自然」というロマン主義的な観念の呪縛を捨てて、より深く、徹底的に環境にやさしくなるための方法の提案だ。

このモートンの態度は、昨年の後半に連続して紹介してきたカンタン・メイヤスーの思弁的実在論や、グレアム・ハーマンのオブジェクト指向存在論が批判する相対主義を、それらの哲学とはまた別の意味で文脈における、よりメディア論的な立場から批判するものであるように感じた。
また、上の引用にあるような「消化の拒絶」は、大好きなバタイユ的な態度にもつながるように思える点でも、しっくりと感じられるのかもしれない。

消費対象としての自然と文化

モートンは、「原生自然を美的に所有する」ような態度を批判する。
それは「ショーウィンドウにある価値の客体物のように、私たちは原生自然を、意図的に無目的的なやり方で消費する」ことに他ならないからだ。

この自然を美的に扱おうとする態度の根源を、モートンはロマン主義の芸術に見出している。

じつは中世においては悪と同義であった自然が、ロマン主義時代には社会的な善の基礎として考えられていた。ルソーのような多くの著者によると、社会契約の締結は自然状態において始まる。この状態は実際の歴史的状況である「コンクリート・ジャングル」とさほど違わないという事実は、注目されてしかるべきであった。

ロマン主義が歴史的に登場したのは、産業革命が社会に浸透して、生じた商品を消費する生活を人びとが行うようになり、同時にそれに対して批判の声も出始めていた時代である。「消費主義の誕生はロマン主義の時代と一致している」とモートンはいう。そして、「近年の環境運動には、ロマン主義の名残がある」と。

ロマン主義の用語である文化は、自然(nature)と養育(nurture)のあいだのどこかで揺れ動きつつ、周囲をとりまく世界を喚起する。さらに言うと、この「事実」には「価値」が吹き込まれている。文化はいいもので、そしてあなたにとっていいものであった、と。「文化」は「自然」のように(これらは密接に関連している)、ガンジーが西洋文明について述べたことに類似している。「私はそれは素晴らしい考えのように思う」。

ロマン主義の芸術家たちのさまざまな作品やそこにおける表現を介して、文化や自然の観念が生産され、それはともに「素晴らしい考え」として美的なものとして消費可能となった。

T・S・エリオットとレイモンド・ウィリアムズは、「文化」を「生活様式の総体」と考えるが、規範的というよりはむしろ記述的なものと考えられているにせよ、それでもそれは強壮でもなければ元気でもない世界の中でユートピア的な円環を保っている。エコロジーは「総体」と「生活」の言語を継承したのだ。

この「記述的なもの」としての文化や生活様式の総体同様、ロマン主義以降に生まれた自然という観念、そして、それを思考するエコロジーの言説は、まさにその「記述的なもの」としての性質を受け継ぎつつ、記述的に思考される。
この記述の際に「素晴らしい考え」というフィルターが通されるとき、それは見たいものだけを見る、といったような態度が生じる。
そこにモートンは消費主義をみて、現在のエコロジカルな姿勢のこの消費主義的な態度を批判している。

「消費主義は、あらゆる対象を、他者の享楽を具現するものへと転じていく」。
「自然」こそがこの消費主義の対象であるがゆえに、モートンは「自然なきエコロジー」を模索するのだ。

美的なものは知覚に由来する

もちろん、美しいものだけを見ることに批判的な態度はこれまでも見られたが、なかなか、そこから抜けだすための「出口はない」。

ロマン主義の時代以来、自動化と私有財産と集散性と新しいメディアの複雑な産物であるアンビエンスは、いっそう毒々しい美学化の形態を発生させてきた。イラクの中に「埋め込まれた」レポーターは、人間の肉を粉々にする弾丸のパノラマ的でアンビエントな音の美学を受動的に鑑賞する、仮想現実世界のダメ人間であった。技術とイデオロギーは、容赦なく対象の距離を解除するべく手を携えて奮闘するが、結局は、距離を解除することそのものを物象化する(リアリティTVや、企業の空間に流れるアンビエント・ミュージックなど)。もっとも極端な例は、アドルノの言う、強制収容所での絶叫を聞こえなくする「伴奏音楽」である。彼はそれを、「概念に捉えこまれずに逃れていくものの中でも最も極端なものを基準にして」自己を測ろうとしないているのと同じくことと見なしている。

この引用にあるように、距離を解除しようとするための努力そのものが物象化され、新たな距離を維持するために用いられてしまうからだ。
ロマン主義の時代以降、登場した新たなメディアテクノロジー--テレビやインターネットや、モバイルやVRなど--が、まさに距離の解除を物象化する。距離のある対象はもはやいつでも簡単に手の内にあるように思えるが、その物象化されたメディア自体が距離を維持することを何よりも支えている。
そうしたメディアによって、僕らは危険もおかさず、汚いものに触れたり目にしたりすることなく、世界を消費できる。あたかもそうしたものに触れているかのように、編集された罵声やノイズ、ゴミの映像などをアンビエントなものとして取得することもできる。

美的なものは知覚に由来する。だが美的なものの歴史は、いかにして身体が、そしてとりわけ視覚的ではない知覚器官が、完全に消されるのではないにせよ、追いやられ、次第に忘れられていったかにかんする物語であった。

とも、モートンは書く。

この視覚偏重の指摘は、マクルハーン的でもある。
視覚偏重であることと、美的なものを重視する姿勢や、距離をおいて対象を消費する態度もつながっているはずだ。距離があるからこそ、主体と客体の二元論は発生するし、その距離は直接対象に触れる必要がある、触覚や嗅覚、味覚などでは生じえないのだから。

だから、モートンは言及していないが、この美的な消費主義はロマン主義的なものの影響であると同時に、それに先行するピクチャレスクなしでは語れないものでもあるだろう。

怪物としての環境

さて、モートンが、この消費主義的なエコロジカルな姿勢を越えようとして提示するのが、それとは正反対の姿勢としてのダークエコロジーだ。

「心地よいエコロジカルな思考は不気味なものを隠そうとする」ことを指摘し、その反対物として「不気味なものは、人間であることと人物であることのあいだの隙間によって作り出される」として、モートンは、フランケンシュタインのような怪物の存在を見出す。

フランケンシュタインの怪物は、読者の視野の「前方」へと引っ張り出された環境の、ゆがめられたアンビエントな部類のものだが、つまり、まさにその形式がひどい分裂を具体化している「現実的なものの回答」である。阻害された社会の残酷さの恐ろしいほどの醜さであり、啓蒙された反省の苦痛に満ちた雄弁である。

フランケンシュタインの人工的に肉辺が縫い継がれて、つきはぎされた怪物的な身体。それは人の行為によって掘り崩され、切断され、汚物を廃棄され、計画的か偶然かを問わず、すっかり人工的に改編された地球環境そのものに他ならない。いや、地球環境だけではない。僕ら自身が人工的につくられたフランケンシュタインに他ならない。怪物的な人工物としての僕らが、怪物的な環境に生きている。

それはロマン主義が描き、ディープエコロジーが回復しようとする美しき自然とはまるで似ていない。モートンが言うように、僕らは自分と対象の距離を維持するための「自然」なるものを捨て去り、人工的な存在である自分自身が、同じような人工的な身体としての環境の中で生きていること、立っていることを自覚することから始めなくてはならない。

自然なる観念を存在の1つのあり方としてつくりだすのを拒否するとき、ダークエコロジーは、この「急停止」の側面の1つであり、エコミメーシスの心落ち着かせるアンビエントな音ではなく、非常ブレーキの甲高い音を発生させる。

その環境に鳴り響くのは、アンビエントな音楽ではなく、このSonic Youthの"Shoot"のような、まさに怪物的なノイジーな音だろう。

奇怪なものとの同一化

「『フランケンシュタイン』が示す前兆は、ディープエコロジーの反対物である」とモートンはいう。そして、こう続ける。

なすべき課題は、不快で不活性で無意味なものを愛することである。エコロジカルな政治は、エコロジカルなものについての私たちの視野を、たえまなくそして容赦なく再設定しなくてはならない。昨日は「外側」であったものが今日には「内側」のものになるだろう。私たちは奇怪なものと同一化する。私たち自身が、ガラクタの小片と細片でみすぼらしくつくられている。もっとも倫理的な行為は、他者をまさにその人工性において愛することであって、その自然さや本来性を証明しようとすることではない。

不快なものを寄せ付けず、見ないようにする。そうした不快さとしての「外側」を、自分たちそのものも同じように不快であることを認めて「内側」へと転じること。ロマン主義において文化生活と自然が重ねられたように、ダークエコロジーにおいても、汚れた環境を受け入れることは日常生活においても同様の姿勢でいることを求めるだろう。

僕らは普段、日常生活においても自分の都合に合わない相手を自分の都合において批判しがちである。その排他的な態度にある、自分基準の判断基準の美的距離はモートンが批判するディープエコロジーと同様のものだ。
他者を自分の都合に寄せないという姿勢が必要だ。他者の存在を、その行為を、他者の側から認めること。かつ、その他者の存在や行為を、他者だけの責任としてでなく、同時に、自分の責任としても受け止めること。

かくして赦すことは、根本的にエコロジカルな行為である。それは、エコロジカルななものにかんして確立された概念の全てを超えたところでエコロジーを再定義する行為であり、他者と徹底的に一緒にいようとする行為である。

赦す。
そうした意味での、他者へのリスペクトだし、他者との共存。
しかも、自分にとっては時におぞましく不快な存在であるかもしれない他者に対して、そのような共生をはかることが求められるのではないか。

誰にも迷惑をかけず、誰からもかけられず、横になりたいのだ、緑の草を褥に、大空を頭上に仰いで……。

モートンは、このジョン・クレアの「私は生きている」という鬱的な詩を本の最後のほうで引用する。

霞と霧のうしろにおいて私たちは、ダッシュ記号で象徴されるどんよりとした不活性状態を垣間見るが、それは感覚的なものの真のふるまいであり、深い主観性の幻想である。印刷された文章では、ダッシュ記号は記号のあいだでのただ不活性的な一呼吸であるが、この息が通り抜けることになる喉のことを私たちにいしきさせる。あなたが行くところならばどこであれ、あなたは存在している。それがまさしくここであっても、あなたは存在している。詩の不活性、その重力場は、疑念を抱く頭の部分が草と空の上方にあるなんからの抽象的な領域に逃避するのを許さないが、とんでもないやり方で草と空を鬱と疑念へと接続する。

憂鬱で疑念に満ちた自分自身。それが不活性な呼吸が喉を通り抜けることを通じて、同じく鬱的で疑念に満ちた草や空とつながっていく。
誰にも迷惑をかけず、かけられずと願いながら横になるクレアは生きているのだか、もはや生きていないのかが、シュレディンガーの猫なみに判然としないのだが、それでも、そのどうしようもなくネガティブな状態でも、緑の草と大空とともに存在する。

大気化学者パウル・クルッツェンは2002年に、地球は新たな地質年代に入ったとして、人新世という新たな地質年代の定義を提唱した。それは、人類のさまざまな活動は地質学的にも、明らかな影響を地球に与え、それ以前の完新世までとは明らかに異なる地質学的状況を生みだしていることを示したものだ。人新世という、フランケンシュタインのような怪物的に奇怪で問題含みで憂鬱な、新たな地質の上に僕らは生きている。

そんなフランケンシュタイン的な環境のなかで「ダークエコロジーは、私たちには私たちの心から逃げることはできないと告げる」とモートンはいう。

クレアは、私たちの罪悪感を逃れ、自然へと没頭しそこで自己喪失するにはどうしたらよいかを教える儀式文集を授けるのではなく、ここに、毒された泥土にとどまらせてくれる。ここが、まさに今、私たちがいる必要のあるところである。

と。

「今、私たちがいる必要のあるところ」から始める以外に何ができるのだろう?

現在の破局において唯一確固とした倫理的な選択肢は、私が前に見たように、エコロジカルな破局をそのまったく無意味な偶然性において認め、「私たち自身」がそれに責任あるものとして証明されるかどうかはともかくとしても、それへの責任を土台なき状態で受け入れることである。

メイヤスーの相対主義への反抗の姿勢にも通じる偶然性や土台のなさを肯定的に受け止め、それを起点にする姿勢。それこそがモートンの示すダークエコロジーの基本姿勢だろう。

この姿勢に僕は共感せずにはいられなかった。

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