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📖夏目漱石『夢十夜』第九夜②

前回の記事では、第九夜の全体を3つの部分に区分けした。

① 父が出ていった経緯けいい(冒頭3段落)
② 母の御百度参り(第九夜のほとんど)
③〈語り手〉が夢で聞かされた真実(最後の2行)

そして、①父が出ていった経緯を語ったところで終わった。最初に以前のポイントを整理しておく。文中に記述があるものを「○」、本文から一歩踏み込んだ解釈を「◎」で分けた。

○ 当時の治安は最悪だった。
○ 戦争が始まりそうな雰囲気だった。
○ 父は月明りもない深夜に出ていった。
○ しかも灯を持たず、頭巾で覆面している。
◎ 父は忍者やスパイに近い役職なのかもしれない。
◎ 父の活躍は秘密にされる可能性が大いにある。

振り返りはここまでにして、早速続きを見ていこう。

②の範囲について

律儀な方もいらっしゃるだろうから、②の範囲をはっきりとさせておく。なお、これは記事執筆者(水石)自身の定義である。多種多様な分け方の一つに過ぎない。

※注意:②の範囲(意味段落)について※
始まりは「夜になって、四隣が静まると……」の段落の最初の文から。
終わりは「拝殿に括りつけられた子は、……」の段落の最後の文まで。

② 母の御百度参り:短刀について

 夜になって、四隣あたりが静まると、母は帯をめ直して、鮫鞘さめざやの短刀を帯の間へ差して、子供を細帯で背中へ背負しょって、そっとくぐりから出て行く。母はいつでも草履ぞうり穿いていた。子供はこの草履の音を聞きながら母の背中で寝てしまう事もあった。
――『夢十夜』第九夜 青空文庫 引用者太字

母親が所持している短刀に注目したい。もちろん、深夜の御百度参りだから、護身用の短刀をたずさえるのは自然なことだ。まして治安の悪い時勢で、警察組織もない時代である。

ただ気になるのはさやの方だ。少々調べれば判明するのだが、鮫鞘は高いらしい。捕獲量も少なく、さもなくば輸入に頼るしかない。鮫の革は貴重なようだ。(注1)

するとこんな解釈が思いつく。

短刀は護身用の武器であると同時に、一家の財産でもあったのではないか。家を空ける際には、必ず持ち歩かねばならなかったのかもしれない。食うに困ったら、これをしちに入れて食いつなぐ覚悟も決めているのだろう。賊に襲われたときに差し出せば、命だけは助かるかもわからない。

武器を持っていかない(?)父親

短刀の議論によって、一つ奇妙に映る場面も出てくる。父親が出ていった際の描写だ。本文を前後することになるが、少しばかり引用してみよう。

 家には若い母と三つになる子供がいる。父はどこかへ行った。父がどこかへ行ったのは、月の出ていない夜中であった。とこの上で草鞋を穿いて、黒い頭巾をかぶって、勝手口から出て行った。その時母の持っていた雪洞ぼんぼりが暗い闇に細長く射して、生垣いけがきの手前にある古いひのきを照らした。
――『夢十夜』第九夜 青空文庫 引用者太字

前回の記事で、父親は忍者やスパイのような仕事に就いていたのではないかと推理した。この推理は的外れで、父親が夜盗になった可能性もある。あるいはそれ以外の目的で外出したのかもしれない。だが、いずれにしろ、武器の描写がないのは奇妙だ。護身用の武器の一つでも用意するだろう。

もちろん、短刀くらいは懐に忍ばせていて、それを〈語り手〉が見逃したのかもしれない。当時は月明りもない深夜であり、男性の体格なら短刀が隠れてしまうのも不自然ではない。朧気な子どもの記憶であるから、不明瞭になるのも仕方のない話だ。

あるいは、「父親が武器を持っていくのは当たり前である」として、〈語り手〉が省略したのかもしれない。父親が忍者や傭兵のような職に就いているのならば、武器を持つのは当然のことだ。大して興味を惹くような事柄ではない。そういう考えから語らなかったのかもしれない。

そういう点も考慮すれば、父親が武器を持っていなかったということまでは確定できない。だが【武器の所持に関する描写がない】という点は見逃せない。

鮫鞘の短刀を置いていったのは事実

加えて、鮫鞘の短刀を置いていった、というのも動かしがたい事実だ。父親はその短刀を持っていくこともできたはずだが、しなかったのだ。

では、なぜ持っていかなかったのか? その理由は、やはり【妻子に財産となる何かを残すため】だろうと推測している。

母一人・子一人で生活していることから、稼ぎづらいのは確かだろう。結果的に二人で生活しているという点から、頼れる親戚もいないのかもしれない。父親はそういう状況を鑑みて、あの短刀を置いていったのではないか。そうした気遣いがあったのだろうと想像したくなる。

一方で、母親は鮫鞘の短刀を一つの形見として捉えているのかもしれない。単なる”護身用の武器”以上に深い意味があるだろう。帯の間に差した短刀は、夫の忘れ形見であり、夫の念がこもったお守りであり、夫が遺した家を守り抜くための家宝であるのかもしれない。

また長くなった。長くなってしまったので、そんな風に思いを馳せつつ、一旦記事を締めたい。続きは下記のリンクより。

注釈

注1:鮫鞘については、たとえば、下記のサイトを参照されたい。


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