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それでも「自分の言葉」で書く理由

本を読むのが、昔から好きでした。
フィクションからノンフィクションまで、ジャンルを問わず。
読んだ本を通して価値観を揺さぶられる、という経験も数多くしてきました。

それに加えてnoteを始めたことで、他の方が書いたnoteを読む機会も増えました。
書籍の読書時間や読了冊数は減ったんですが、文字を読むインプットの時間で言えば、大きな差はないという感覚です。


noteの街には、いろんな書き手さんがいます。
私にとっても日常的な話題を興味深く読ませる方、とてつもなく壮大な冒険譚を語られる方、様々なジャンルで専門知識や業界あるあるなどを惜しげもなく披露される方。

そうやって、日々いろいろな感銘を受ける中。
私が書かなくてもいいんじゃないかな。
という思いが、不意に脳裏に過ぎることがあります。

だいたい、書こうと思っていた話題をすでに見事な文章表現で形にされている方のnoteを読んだ時か、自分には絶対に出来ない文章力や発想力に触れた時です。

今までは、そういう時は
「誰かがすでに言ってることだとしても、自分の視点と自分の言葉で書くことに意味があるんだ」
という、根拠のなさゆえに精神論と言えなくもないことを言い聞かせて、乗り切ってきました。


けれど。
最近、その精神論一辺倒な考え方を、変えることができたんです。

きっかけは、今年読んだ國分功一郎さんの著書『目的への抵抗』を思い出したことでした。

國分さんはこの本の中で、よく思い出すというマハトマ・ガンジーの言葉を紹介しています。

「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである」

ガンジーの時代と比べるまでもなく。
膨大な量の情報が、取りに行かずとも勝手に流れ込んでくる現代です。
「世界によって自分が変えられないようにするため」とは、なんとも重みのある言葉ですよね。

意見を表明したり、考えたり、話したりする限り、「もうこれで仕方ないんだ」と思い込むような人間になるのを避けることはできるのではないですか。ガンジーの言葉は僕もいつも心に留めているものです。

第一部【質疑応答】より引用

「自分が意見を発信しても、すぐに社会が変わるようなことは無い」という話の流れで語られているので、國分さんの主旨とは若干ズレるのは確かです。

でも、この部分を改めて読み返した時。
「自分の視点と自分の言葉で書くことに意味がある」を、精神論じゃなく納得をもって、実感できるようになりました。

「私が書かなくてもいい」は、國分さんの言う「もうこれで仕方ない」に似ています。
諦めることを自発的に選択する姿勢が、自分の無意識にどういう影響を与えるのか。そういうことにも自覚的でいられるのが理想です。

これからも、不意に心が折れそうになる瞬間は訪れると思います。
でも、心にちゃんと根を張った納得の強さはきっと侮れない。何度でも思い出したいです。

今日も良い一日になりますように。


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