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孤独詩人とロマンの刻印(伊東静雄について)

 小川和佑『伊東静雄』(講談社現代新書)は古書店で何気なく手に取って購入したものだったが、思いのほか興味深い内容で、しかも新書という性質から一般人・初学者にもわかりやすく書かれていた。特に彼の人間関係に着目しながら、抜き書きを作りつつ読んだ。

 昭和初期から戦後にかけて詩人として活動した伊東静雄(1906~1953年)は、長崎県諫早市の出身。旧制佐賀高等学校を経て京都大学文学部国文学科に進学し、在学中から詩を作り始める。後に友人関係となる蓮田善明とは同じ九州の出身であって、親密になるには同郷のよしみということが大きかったかもしれない。

 大正十二年、静雄はこの父母の悲願に応えて、四年修了の十七歳で、佐賀高校に入学すべく、諫早をあとにした。同じ年、後に盟友となった十九歳の蓮田善明は、熊本濟々黌中学卒業後、一年を受験学習の準備に費して広島高等師範学校(現・広島大)に入学している。おそらくこの二人の少年たちは湖処子の「出郷関」のような感慨を抱いて、諫早と熊本の故郷をあとに「きゅうを負うて」というべき形容のもとに、新しい人生に向かって出発したのであろう。

『伊東静雄』p26

 その後は大阪で教員をしながら詩作を続けた。「日本浪曼派」の中心人物だった保田與重郎に才能を見出され、また、萩原朔太郎から激賞される。

 かつて、伊藤詩の最初の発見者であり、昭和十年代の特異な思想家であった浪漫者保田與重郎は、「詩情する事情の悲しい事実に於いてのみ詩人は詩人と出会した。今さういふ事実をのみ知ると広告せねばならぬ。」と言った。そして、さらに「彼は詩情でものを見たのではない、詩情でものを測ったのではない、風情を詩概念に一度もはめこんでゐない。」とも言った。

同上 p54

 しかし20代の半ば、父親の死によって伊東静雄の生活は一変した。長兄がその四年前に世を去っており、一家の家長となって責任が重くのしかかった。のみならず、一万円とも三万円とも言われる父の負債を相続したことにより、「生活者」としての自らに向き合わざるを得なくなる。そして生活に恵まれた詩人たちとは異なる、「鎖された人生の代償」としての詩が突き上げて来る。筆者は一貫して、静雄の詩の原理を、この生活者としての辛酸からの解放ないし止揚に求めている。

 この父の死とともに訪れた運命は、静雄の未来を崩壊させた。現実の深重に人生のすべてがされた時、あるべき未来だったものの代償として、静雄の内部に衝迫としての詩が生まれ、噴出した。静雄にとって、詩とは鎖された人生の代償である。
 それは萩原朔太郎、中原中也らの《すべての生活が破産して文学のみが残った》詩的生涯とは異次元のものである。
 朔太郎もその背後にある豊かな資産に支えられることで、生涯、生活者としての辛酸を知ることなく生きることができた。
 しかし、静雄は、生活者としての辛酸に堪えるという決意によって、その詩的生涯を歩み出さねばならなかった。この過酷な現実において、精神の止揚のためにも、静雄には詩が必要であった。

同上 p72

 その後、静雄は雑誌『コギト』や『日本浪曼派』に詩を投稿しつつ、詩人としての生活を続けていく。そうした雑誌とのかかわりや人間関係において、伊東静雄のイメージが形作られてきている。すなわち彼は苛烈なナショナリズムを宣揚して戦争精神を鼓舞したと理解される「日本浪曼派」の代表的詩人であると理解され、例えば2022年7月23日現在のWikipediaにおいても、「当時日本浪曼派の代表的な詩人としてその機関紙の同人でもあり、評論での保田與重郎と並び同時代に多大な影響を与えた」と書かれている。通俗的な説明では、彼を語るに保田與重郎と日本浪曼派が切り離せないわけである。そしてそれらの言葉のイメージから、強烈なナショナリストあるいは戦争唱導者の刻印からもまた逃れ得ないということになっていた。
 しかし、1980年に刊行された本書において、筆者はその属性から極力離れた詩人としての存在を評価したいとの熱意をもって彼を描いた。本書には「日本浪曼派」一辺倒で論じられていた伊東静雄を解放に導きたいとの意欲が満ちている。
 例えば、以下に引用した部分のいずれもが、徹底的にその従来のイメージを払拭あるいは解放するためのものとなっている。(太字は全て引用者。)

 この年(昭和十年)二月十三日の酒井百合子宛書簡で、静雄は明瞭に「……大概の人は私のことは知りません。又、私は『コギト』の同人でもないのです……」と言っている言葉に注意したい。静雄は毎号「コギト」に寄稿し、同人費を納めはしたが、彼はついに「コギト」の同人とはならなかった。「同人費を納めて同人でないはずがない」とする旧同人の意見もあるが、それは寄稿者として、同人雑誌のページを自己の原稿で埋めることへの静雄の誠実であり、なお、詩友青木敬麿への誠実という意味でも「コギト」の同人になることを固辞していたところに、静雄の律儀な性格がうかがわれる。
(引用注:『コギト』は保田與重郎らが『日本浪曼派』以前から運営していた雑誌。)

同上 p115

 昭和十年二月の上旬、(引用注:「日本浪曼派」)広告の署名者である亀井勝一郎と中谷孝雄の連署で静雄に「日本浪曼派」同人への参加の要請があった。静雄は「コギト」の場合と異なって「日本浪曼派」へはむしろ積極的に参加した。彼はこの雑誌の第二号(昭10.4)に「真昼の休息」の詩稿を送った。
 この頃、「四季」と「椎の木」の二つの詩誌から詩の依頼のあったことも、静雄に新たな創造の意欲を湧きたたせた。静雄が「日本浪曼派」の文学運動に参加した瞬間から、その後の昭和十年代のナショナリズムの思想の渦中に自己の詩をも投入することとなった。
 彼は彼の詩の最大の理解者であり支援者でもあった保田與重郎と保田の盟友でもある中谷孝雄・亀井勝一郎の慫慂がなかったならば、この新しい文学運動としての「日本浪曼派」にも一定の距離をあえて置いたのではあるまいか。
「日本浪曼派」は小説、評論を主体とする文芸雑誌であって詩誌ではない。その雑誌に積極的に参加していった心情には、もちろん前に引用した「日本浪曼派」広告への共鳴もあったであろう。が、より私的な部分では、保田與重郎の友情に応えるためという、いかにも篤実な静雄らしい心情がその主因であったと考えてよい。

同上 p123

 保田の「日本浪曼派」創刊の心情には、昭和初頭の進歩的知識人、特に東京帝国大学経済学部のマルクス主義者の偽善性に対する激しい怒りと反撥から発したプロレタリア文学に対する否定が色濃くあった。
 しかし静雄は、この保田の反マルキシズム、あるいはプロレタリア文学の全否定といった反共的な思想的心情とは、思想的に共鳴しあっていない。詩人としての静雄はあくまでも、衆を離れひたすら自己に沈潜する場所で詩を書いていた。静雄の「日本浪曼派」への寄稿は、その終刊までの二十九冊中わずか四回で、「『日本浪曼派』と伊東静雄」といったテーマの論考が多い割合には、いかにも少ない執筆回数である。しかも、この四回のうち、「まだ猟せざる山の夢」「追放と誘ひ」は、生前のどの詩集にも収録されなかった詩篇である。

同上 p124

  堪へがたければわれ空に投げうつ水中花。
  金魚の影もそこに閃きつ。
  すべてのものは吾にむかひて
  死ねといふ、
  わが水無月のなどかくはうつくしき。
という、詩壇史的にはおよそ反時代的な文語詩「水中花」のこの詩句によって、かつての孤独な単独者でありたいと願った静雄が、むしろ逆に、時代の精神の積極的な表明者となってしまっている。
 このことは、伊東静雄という詩人の栄光と挫折に直結している。
 時代が彼を迎え入れた時、彼は進んで時代に身を投じてしまった。その心情においてまったく異種の思想を抱きながら、静雄は、保田與重郎と並んで「日本浪曼派」の思想を具現する代表的な詩人となることで、後年、昭和文学の悪霊のごとくみなされ、思想的批判にさらされることとなる。

同上 p125

 たとえば保田與重郎の大学時代の同級生であった思想家の竹内好の生前最後の著作『方法としてのアジア』の中でも、伊東静雄は「コギト」的ということで一言のもとに否定されてしまっている。これは論理以前の段階での心情的な拒絶である。
 この心情的な拒絶は、なにも吉本隆明・竹内好に限らない。静雄と同世代の竹内好から、第二次大戦の体験を精神の内部に抱えこんでいる年齢層に至る知識人たちに共通の心情であろう。
 その中には、保田與重郎にあって、静雄になかった進歩的知識人の偽善性批判に痛罵された知識人の怨恨までが、保田與重郎・伊東静雄という一括の形で戦後に再批判を浴びせられたかの観がある。

同上 p126

 なお、上記に示されている竹内好の評について、単行本『方法としてのアジア』を所有していないので伊東を「一言のもとに否定」した文脈は不明である。念のためちくま文庫の『日本とアジア』に収録された講演記録「方法としてのアジア」を確認してみたが、そこには言及がなかった。

伊東静雄は明るく解放され切って、健康そうにのびのびとしておって、蓮田善明や保田與重郎のことをこちらが口にするのもはばかられるような雰囲気だった。現在を全肯定しているみたいでもあった。わたしが戦争中、戦争を謳歌していた連中が、早くも、「真の民主主義」の説教師になっていることを不機嫌に非難すると、それでいいんですよ、庶民はマルクス主義の世になればマルクス主義になびき、また違う主義の世になればその主義になびくのが当然なのだ、それでいいのだのに、あなたは今頃何をいっているのか、うっとうしいなあといわんばかりであった。……

 これは、富士正晴が敗戦後の静雄を語った回想の一節である(『苛烈な夢――伊東静雄の詩の世界と生涯』昭47.7 社会思想社)。
 静雄の『わたひとに与ふる哀歌』は保田與重郎の友情によって世に送られ、詩集『夏花』は「文藝文化」の蓮田善明との交友によって生まれている。その蓮田は、敗戦直後シンガポールの駐屯地で自決し、保田はいまなお健在で、静雄への友情と思い出をもち続けているが、静雄にあっては、敗戦を契機に、この二人の思想家から解放されることで、訣別を告げていた。
 静雄は、三島由紀夫のごとく熾烈なナショナリストとして、生涯を自決という手段で時代の思想に殉じた蓮田善明の跡を追わなかった。静雄は二人の思想的呪縛から脱け出した短い時間に、急速に彼自身の詩を成熟させたかの観がある。

同上 pp127-128

 孤独な単独者であり、異風者であった静雄は、保田與重郎との交遊から「コギト」「日本浪曼派」に参加することで、彼の意志の外で、しだいに時代の渦中に足を踏み入れていっている。名詩「八月の石にすがりて」もまた、彼と関わりのない場所で、昭和十年代の文学的ファシズムの渦中に組み入られ、評価されていったところに、彼の詩人の悲劇があった。
……いまや定説化しようとしている小高根二郎の評伝『詩人、その運命と生涯』において述べられたような、この一篇が、昭和十一年二月の近衛師団の青年将校たちのクーデター、二・二六事件の雪の反乱の首謀者処刑との関連節は、説としては非常に興趣ある見解ではあるが、静雄がこの雪の反乱に対してどれほどの関心と思想的共鳴をもっていたかについては、それを実証する文献はどこにもなく、憂国者伊東静雄という詩人像は、はなはだ説得力を欠いている。

同上 p156

「コギト」への参加は、伊東静雄に同時代の詩から離反の途をたどらせた。保田與重郎への思想的共鳴が、伊東の詩を異端から時代の正統者へ押しあげていった。「文藝文化」の蓮田善明との親交も、それを増幅する要素となったであろう。
 しかし、保田與重郎や蓮田善明のような熱狂的なナショナリストとなるには、静雄はあまりにも生活者としての現実の深重を負いすぎていた。
保田與重郎の生家は豊かな大和の地主層であり、蓮田善明もまた、九州の名刹の子弟である。彼らは生活に窮迫することのない豊かな中産階級の出身者であり、静雄は亡父の負債に加えて、まだ大学就学中の弟、未婚の妹を扶養すべき義務のある伊東家の家長であり、生活の全重量が経済的な負担となって、その日常を圧していた。

同上 p157

「水中花」は日中戦争の起こった翌月、日本の大衆がこの戦争による前途をまったく予想もせず無邪気に興奮していた昭和十二年八月に「日本浪曼派」第三巻第六号に掲載された。静雄はこの時三十歳だった。「水中花」の一篇は、「日本浪曼派」という雑誌に掲載されたことによって、時代の知的ナショナリズムの集約として読者に迎えられたが、しかし、静雄自身に即していえば、時代ともっとも遠い地点での自己凝視を具現しているに過ぎなかった。

同上 p165

……昨日珍しく「日本歌人」といふ雑誌の歌の会に出たら、みんなむやみに浪曼派とかローマン的とか云つてうれしがるので癪にさはつて、くそみそにののしつて自分ながら気が変になつたんぢやないかと思ひました。尤も部屋が殺人的に暑かつたせゐもあるでせうが。
と、静雄は浪曼派への心情を自ら語っている。
 これに対しては、二つの見解が成立するであろう。一つは、浪漫者の正統を自負する静雄には、歌人の前川佐美雄を囲む「日本歌人」の若い歌詠みたちの軽薄なロマンチシズムは苦々しい限りであった。時流に乗ってはしゃいでいる彼らを、「異風者」静雄は度し難い俗物精神の所有者とみた。
 保田與重郎によって宣揚されていた古典回帰の思想が、大衆ナショナリズムの浸透によって、しだいに時代の文学と思想に対して主導力をもちはじめたこの昭和十年代の半ば、その共鳴者・追随者たちがいかにも軽薄に時代迎合の姿勢でロマンチシズムを讃美し、謳歌しているその姿を醜悪と見ていた。これは孤高者静雄の視点である。
 第二の見解は、もう少し暗い静雄の情念に発するものである。彼は時流に関わりなく、「泥棒市」の詩ではないが、現実において喪失したものを、孤独者の心の秘密として歌ってみせた。しかし、「コギト」「日本浪曼派」という雑誌を中心としたエコールとしての文学運動に参加することによって、彼の存在は、昭和の新しい《浪漫詩人》という名で予期せぬ時代の寵児とされてしまった。「日本歌人」の歌会の席での思わぬ逆上は、孤独者静雄の激しい羞恥のなせるわざであったかもしれぬ。

同上 pp169-170

 「日本浪曼派」の参加者をいうならば、例えば太宰治が創刊当時からの同人であり、萩原朔太郎は翌年に同人となっているが、萩原朔太郎や太宰治と聞いて真っ先に「日本浪曼派」のイメージを想起する人間はそれほどいないと考えられる。それは活動した時代の幅や、作品のイメージなどの違いに起因するかもしれない。伊東静雄が語られる際には、常に「日本浪曼派」の刻印が押されていることも確かであり、先に引いたWikipediaのように、そうした傾向は現実として今なお残っている。
 そもそも「日本浪曼派」という名称の文学運動が、あるひとつのイズムであるかのように、これまで文学界や思想界で使われていること自体が怪しい事態であるが、いずれにせよ詩人としての伊東静雄は、浪曼派を肯定したい人々にとっても否定したい人々にとっても好都合な詩人の位置に座らされている。ある面でそれは、彼の詩が多義的な魅力を備えていることの証左でもあるかもしれない。
 しかしこの著作はそれを不遇とみて、伊東静雄と「日本浪曼派」との距離を重視し、そのくびきから解放しようとした。なかば通説となっている見解に挑戦したことに、強く印象付けられた。




 伊東静雄の人間関係ということではもうひとつ、三島由紀夫との関係が興味深い。三島と伊東静雄の関係は、特に静雄側からの詳細が判然としないまでも、とても複雑なものがあったようだ。三島は10代の頃、昭和18年から19年にかけて、『文藝文化』誌に伊東静雄に関する文章をいくつか書いている。そのうちのひとつに「古座の玉石―伊東静雄覚書」があって、「伊東氏はもはや、あの王朝のかずかずの雅話にみられる瞬時にして交はされる虹のやうな贈答歌を一巻の詩集の上に思う隈なくゑがきつくしてゐるのである」と賛美した。

 かつて、三島由紀夫は複雑な愛憎の心情を籠めて、『詩集夏花』の巻頭詩「燕」を推賞した。数多い伊東静雄論のなかでも、見落とすことのできぬ格調高い作品鑑賞である。
 富士正晴の奔走で刊行される七丈書院の『花ざかりの森』の序文を乞うために、昭和十九年五月十七日、十九歳の三島由紀夫は住吉中学に静雄を訪れた。四月末、静雄はこの序文を書簡で断っている。三島は半ば懇願のためもあって、訪問したのであろう。
 しかし、静雄はなぜか三島に冷ややかだった。彼は三島を手痛く《俗人》の一言で拒絶した(昭和十九年五月二十二日、日記)。この静雄の拒絶は理解にあまる。
 後年、『伊東静雄全集』の一巻が公刊された折り、三島はこの一巻のために次のような推薦文を書いた。

日本の近代詩人のなかで、伊東静雄氏は私のもつとも敬愛する詩人であり、客観的に見ても、一流中の一流だと思ふ。その煮えたぎつて煮つまつた抒情の底から、一粒一粒宝石をひろひ出すやうな作業は、おそろしいほど自虐的な作業だつたと思はれるが、作品の上には完全な悲痛の静謐だけが現はれてゐる。伊東静雄氏の詩は私の青春の師であつた。氏は浪曼派に属してゐるやうに言はれてゐるが、その一面をゲエテ的な明朗な古典精神が支へてゐるのである(三島由紀夫「伊東静雄全集推薦の辞」)

同上 pp177-178

 このように三島は静雄を尊敬したにもかかわらず、静雄のほうは三島を俗物扱いして嫌っていたようで、そのことを知ってから、三島にとって伊東静雄は愛憎相半ばする存在になったようだ。

 しかし、公刊された日記の一行は、三島に強烈な衝撃を与えずにはおかなかった。
 三島由紀夫の静雄への愛憎はこの時にはじまる。しかし、この拒絶の理由を彼は明確に書いていない。わずかに五月二十八日の日記に「蠅多く出る。いちご十六粒配給になる。」という日常些事の記述の後に、「平岡から手紙。面白くない。背のびした無理な文章。」とあるのみである。

同上 p178

 そうして、三島はやがて以下のように書くようになる。

 三島由紀夫は「詩人といふ怖ろしいほどの人生的無知が、ところどころに輝く英知の一行に化身して現はれるのはどういふ秘密によるのだろう。さもあらばあれ、俺は伊東静雄に人生を教はつたことはない。はつきりいえば、その抒情の冷たい澄んだ響きが、俺のもつとも荒んだ心情と記憶とに触れるのだ。」と言う。

p181

 





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