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心理学なんていらない(不登校・ひきこもり)

「発達障害」という言葉も、「hsp」とかいう言葉も嫌いだ。
無意味だとすら感じている。勿論、医療が必要なゾーンはあると思っている。我が子も検査でバッチリひっかかってるし、そんな言葉が一般的でない頃に気づいて何十冊も本を読み漁った時期がある。
その上で、進学校に行ったり、普通程度の高校へ進学する能力のあるお子さんなら、一旦脇に置いてみてはどうかと思う。

「発達障害」は禁断の言葉。パンドラの箱。
その一言で親の罪が許される気になる。支援も受けられるかもしれない。しかし、子供の素晴らしい特技も個性も人格もひとくくりにカテゴライズされる暴力的な言葉でもある。
最近では私が子育てをした頃よりこの言葉が一般的で、療育なんてものもすぐ受けられるようになってるらしい。
しかし、発達の偏りが無い子なんて殆どいないに違いないのに、「障害」という言葉をつけていることに大きな違和感を感じる。
「偏り」の方が正確ではないだろうか。

心療内科の先生に怒ってしまったことがある。
その先生には感謝をしていて、先生に怒りが向いていたわけでは決してないのだが・・・。(すみません・・・)
大学生の息子が自分で選んだ心療内科に通っていたのだが、少しずつ良くなっていいはずなのに、いつまでも顔色が悪い。何かを思い詰めているのが見ていてわかる。
一体何が起っているのかと、息子の通う心療内科に主人と二人で行ってみたところ・・・なんと、息子に発達障害の手帳をとらせて、生活保護で生きていくという話が進みかけていたのだ!

生活保護を貰うことが悪いわけではない。一時、社会活動から退いてもいいし、
給与がどんなに低くてもいい。ボランティアで生きることだって悪い事ではない。大学退学だって本人が決めたらしょうがない。
でも、鬱=発達障害→障碍者→生活保護
とは安直すぎないか?
本人ではなく、先生からの提案らしい。
なぜ辛そうな顔を息子がしていたのか理解した。社会復帰を目指したい。鬱を治したい。まだ諦めていないのになかなか回復に向かわないところに、医師からもう諦めなよ。君はまともではないんだから楽に生きようと勝手にゲームオーバーを告げられた気分だったのだろう。そして抗いたい気持ちはあるのに、身体も心も言うことを聞かず、いっそこのまま流された方がいいのか。そうだ。僕は発達障害なのだから・・・と投げ出しかけていたのだ。

一緒に聞いていた主人は眩暈で倒れかけていたが、私は怒りでいっぱいになってしまった。優しい先生なのに、すみません。。
「待ってください。そんな風に育てていません。発達障害なんて甘えです!」と怒る私。。
勿論、発達障害=甘えなんかではない。
「いえいえ、お母さん、甘えという方多いのですが、そうではなく・・・」
先生もびっくり。
「この子は中学受験もやった子なんですよ!そんな風に育ててないんです。私はこの子を天才として育ててきました!なかなか回復しないのは好奇心が戻らないことに絶望しているからです!息子は諦めたくないと思っています。その証拠に、先日バッグの中に物理の本が見えました。きっと息子が自分の好奇心を刺激するかもしれない本を友達から借りてみたのだと思います!」
この発言で先生もようやく理解してくれた。
中学受験をする位頭がいいのだから発達障害ではないという意味ではない。
中学受験とは時間管理、ストレス耐性、勉強への適正。あらゆる面において難易度が高いイベントだ。大学受験より困難と言われている。
そこをくぐっておいて、「僕は能力にバラつきがあり、社会生活が送れません。社会復帰は即諦めます。」というのが甘えだというのだ。
先生は私の意図を理解してくれて
「誤解していたかもしれません。」と言ってくれた。

私はどんな時も息子の出来ないところではなく、特筆して出来るところに注目して育ててきたつもりだ。
私には見えない科学の世界を見る視力を持つ息子に憧れ、一番のファンとして生きてきた(書いてみると怖い・・・)。その息子をただの「発達障害児」。突出しているところは「ギフテッド」とでも呼ぶつもりなのか。
(息子の努力も全て無視するパワーワード!)
そして社会では生きられない人として引導を渡すつもりか。そんなの許さん!という気迫に圧倒される優しい先生・・・。横で涙目で相変わらず倒れ掛かっている主人・・・。ショックのあまりプンプンしながら帰路についたが、帰宅してから猛省した。息子がお世話になってるというのにあんなに怒って申し訳なかった。

鬱のせいで様々な事務処理や正常な判断が出来なくなっている息子に対して、原因が発達障害からきているものと判断した先生が、優しさから生活保護がちゃんととれるようにと配慮してくれたのだろう。
しかし、この一件で手帳取得の話が消えて無くなり、息子は自分の力で回復する!社会復帰する!という覚悟を持たざるを得なくなった。また、暴力的にカテゴライズされる恐怖から逃れることが出来、少しずつ上向いて行った。
ここが大きな分岐点になったことは間違いない。あとで聞いた話だが、先生が後日、「あの時、お母さんに会えて良かった。」と言っていたらしい。
神様ありがとう。

「発達障害」は嘘ではない。しかし、飛びついて免罪符にしていいケースとそうでないケースはある。
東大生の6割は発達障害なんて言葉を聞くことがある。医者には発達障害が多いなんていうのもよく聞くフレーズだ。
つまり、社会生活が送れないのは発達障害が原因ではないのだ。
エネルギー不足。愛情不足。躾不足。環境が合わない。自己肯定感の低下等、他の原因があるはずなのだ。
先ずは家庭でエネルギーチャージして、精神の安定を手に入れてから考えてもいいかもしれない。

またまた余談だが、息子の友人はやはり受験鬱から、発達障害だか鬱だかで手帳を貰い、生活保護で生きている。一応、体は元気そうにはなっているが、社会復帰には程遠そうだ。
高校時代から独学で外国語を操り、コミュニケーション能力が突出して、運動神経も良い彼を中・高と見てきたので残念でならない。彼を想うと泣けてくる。
彼は社会復帰を望める分岐点を過ぎてしまったのだろうか。
自分の頭脳にプライドをもっていた彼が、鬱になり、エネルギー満たすことが出来ず、そのうえ甘やかす人物しか周りにおらず(息子談)、鬱や発達障害の烙印を押され、浮上の道を閉ざされていったのが悲しい。
もう一度、いつか彼の笑顔が見たい。神様お願いします。あの子も助けて。

「発達障害」は全てが許され、解放される魔法の言葉ではない。私の知る限りでは、本人の意向を無視して、家庭でのエネルギーチャージを疎かにしてこの言葉に飛びつき、不登校・引きこもりから回復に向かった例を見たことが無い。。。

※このブログは主に進学校から不登校・ひきこもりになったご家庭向けに書いています。全ての子に発達障害の認定が必要ないということではありません。病気の可能性もありますので、心療内科・精神科・内科は適宜受診をお勧めします。







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