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映画感想 アリータ:バトル・エンジェル

 未完成のSF大作。

 木城ゆきと原作の『銃夢』がハリウッド映画化する! ……というニュースが最初に出てきたのは2000年代初頭の頃。当時は「漫画・アニメの実写化は失敗する」と言われていた(その実例が大量に生産されていた頃だった)が、しかし監督はあのジェイムズ・キャメロンだ。当時よくある例として、原作の権利を買ってタイトルは使うけど、原作とはまったくの別物にされる……それで失敗作の山が築かれていたわけだが、ジェイムズ・キャメロンはそういった例とは違う。わざわざ日本までやってきて木城ゆきとと面会し、どういう方向性で映像にするかという打ち合わせもやっていてた。原作と原作者のリスペクトがあった。
 よく知られている話だと思うが、ジェイムズ・キャメロンは重度のアニメマニアだ。初めて日本にやってきて、東京の街を見てまず言ったのは「パトレイバーと同じだ!」だったという。その後、その『パトレイバー』の監督・押井守と友人関係になり、ProductionIGのアニメーターを連れ帰ろうとした……という話もある。もちろん宮崎駿作品も熱烈に愛している。
 そんなジェイムズ・キャメロンが『銃夢』を実写化する。これは「漫画の実写映画化」の歴史の中でも凄い作品になるんじゃないか……と私は期待していた。2000年代はじめ頃、ジェイムズ・キャメロンは『ダーク・エンジェル』というテレビシリーズを制作し、これをヒットさせていた。私たちがこの作品を見ると、「銃夢じゃないか」とすぐに気付く(まずタイトル。『バトル』を『ダーク』に入れ替えただけ)。『銃夢』を作るためのある種の練習台のような作品だった。あの作品を見て、いつか制作されるかも知れない実写版『銃夢』の期待は高まった。
 ところが2005年頃、ジェイムズ・キャメロンは企画名『Project 880』と呼ばれる作品に傾倒し始める。この『Project 880』は1本制作するのに10年かかり、しかもシリーズ作品だ。一方『銃夢』も1作で完了ではなく、シリーズとなって完了まで10年近くかかりそうだ。どっちを取るか……。人生の選択肢だった。
 結果的に、ジェイムズ・キャメロンは『Project880』を選んだ。2009年、この作品は『アバター』というタイトルで公開され、歴代興行収入第1位を記録するほどの超特大ヒットとなる。
 しかし『アバター』は1作で終了、というわけではなく、2作目、3作目の構想があり、その制作にはさらに10年かかる。『銃夢』映画化の構想がどんどん遠ざかってしまう……。
 一時は『銃夢』実写化の夢は潰えた……ように思えたが、どっこい制作は進行していた。2015年、ロバート・ロドリゲスを監督に据えて、『Alita: Battle Angel』にタイトルが変更されて、映像化が進捗していることが正式に発表される。ロバート・ロドリゲスはジェイムズ・キャメロンが書き起こした脚本や構想メモを大胆に圧縮し、2時間のストーリーにする計画を発表した。
 2019年2月、『アリータ:バトル・エンジェル』が劇場公開される。しかしその内容は……それは後ほど触れよう。
 公開後の評判をまとめると、推定制作費1億5000万~2億ドル。これに対し世界興行収入が4億400万ドル。普通に考えたら大ヒットといえるくらいの興行収入だが、損益分岐点が3億5000万~5億ドルと言われているので、さほど黒字を出せていないか、場合によっては赤字だったんじゃないかと言われている。評判を映画批評集積サイトRotten tomatoで見ると、330件の批評家レビューがあり、肯定評価62%。オーディエンススコア91%となっている。批評家からは微妙な反応だったが、一般観客からは評価された……という感じになっている。

 では前半のストーリーを見ていこう。


 理想の空中都市ザレム――その真下に、「クズ鉄町」と呼ばれる町があった。ザレムが廃棄したゴミを頼りに成り立っている街である。
 そのゴミの山をあさっている一人の男がいた。クズ鉄町で診療所を営むダイソン・イドだった。イドはゴミの中に人間の頭が転がっていることに気付く。サイボーグの頭部か。まだ生きている。イドはサイボーグの頭を持ち帰り、自宅に保管していたボディを継ぎ足して蘇生する。
 目覚めた少女は記憶を喪っていた。イドは少女にアリータと名付けて、診療所に住まわせることにする。
 記憶を喪っているアリータは、生まれたばかりの子供のように、クズ鉄町から見える風景を楽しんだ。「あれはなに?」「すごい! あんなものがあるのね」と。
 そんなクズ鉄町を探索していると、ヒューゴという若者と出会い、仲良くなり、一緒に「モーターボール」と呼ばれるスポーツを観に行ったりするようになる。
 ある時、ヒューゴはアリータを廃墟になった聖堂に連れて行く。そこから空中都市ザレムの様子がよく見えた。ヒューゴはいつかザレムへ行くことが夢だった。あそこに行けば、きっといい暮らしができるから……。
 アリータはザレムが廃棄するゴミの山の中にいた。ということは、アリータはザレムにいたのではないか……。ヒューゴは「ザレムの風景を覚えてないか?」と尋ねるが、アリータは何も覚えてなかった。


 ここまでが前半パート25分。アリータが目覚めて、クズ鉄町にどんな文化があるかが紹介される。比較的穏やかなプロローグだ。
 次のパートに入り、クズ鉄町の暗部に入っていき、イドがハンターとして活動していること、アリータもハンターとなるところまでが描かれていく。

 まあ見たまんまの作品なので、あまり語ることもないが……。

 主人公アリータの目がでかい! 写真で見るとビックリするかもしれないが、目の大きさに関する違和感は映画本編を見ると5秒でなれる。すぐになれてしまうので、逆に主演女優のローサ・サラザールの素顔を見た時のほうが違和感になるほど。

映画『アリータ:バトル・エンジェル』メイキング映像

 ロバート・ロドリゲスは「目を大きくする」という表現に手こずっていたようだが、ジェイムズ・キャメロンに「違う。瞳を大きくするんだ」と言われ、その通りにしたらすぐに解決した……というエピソードがある。このでかい目の表現はそのまま『アバター』の惑星パンドラ先住民の姿にも採用されている。ジェイムズ・キャメロンにとって「異世界に行く」がデカ目キャラクターの世界に行く……ということだったかも知れない。
(もちろん『バトル・エンジェル』よりも『アバター』のほうが公開が先だが、デカ目のアイデアは『銃夢』実写化の最中に思いついたんじゃないか……と私は推測している)
 ジェイムズ・キャメロンは「漫画の実写化」をずっと考えていて、日本の漫画・アニメ特有の大きな目をどうやって実写で表現するか。これを実現することがジェイムズ・キャメロンにとって「漫画の実写化」するということだった。多くのクリエイターが衣装やメイクで原作に合わせよう……つまり“コスプレ”にこだわるわけだけど、ジェイムズ・キャメロンはそこではなく、アニメ特有のデカ目を再現し、他は切り捨てる、コスプレはやらない……というアプローチだった。
 でも『銃夢』の主人公ガリィの特徴といえば、タコ唇じゃないか……という気がするが。どういうわけだが、そちらは重視されなかった。こういうところで、「どういう視点で作品を見ていたか」がわかるのだが、ガリィのタコ唇は意識していなかったようだ。

ガリィといえば「タコ唇」じゃないのかな? ちなみに「ガリィ」の名前は英語で「不毛」という意味になるので、イメージが良くないということで変更された。

 アリータはクローズアップになると、「髪の毛がゴワついているな……」というくらいしか違和感は感じないが、不思議なことにロングサイズになり、実写俳優と並ぶと質感に違和感が出る。肌や服がのっぺりして見える。実写俳優と較べて“密度”が低い。
 ……といっても、見ていても意識しなければ気にならないレベルだが。

 原作との違い……といえば、原作にはある種の「変態性」があった。医者のイドにしても、ガリィに対し父性的な側面とともにピグマリオンコンプレックスのようなものを投影しているし、ハンターをやっていたのも実は快楽殺人欲求を密かに持っていたから。原作はそういう人間の表面と裏面を掘り下げるようなところもあった。
 宿敵・ノヴァになると、まあ変態性の塊。清々しいまでのド変態。作者の暗部が出ている。
 『銃夢』といえばガリィのしなやかな身体表現だが、やっぱりこれもエロス。アクションよりも、身体を見せること自体が主題だ……と私は考えている。
 こういう原作の変態性が映画ではがっつり落とされ、脱色してしまっている。映画版のアリータもしなやかに動くのだけれど、そこにエロスは感じられない。“ただのかっこいい動き”になっている。健全で面白味がない。これは……仕方ないか。

 この作品について、あまり語ることはない。SF映画として、まあまあの完成度。漫画の映画化としてもクオリティの高い1本。
 ……と、言いたいところだけど。
 正直な感想を言うと、「監督がジェイムズ・キャメロンだったらなぁ」とどうしても考えてしまう。
 まずシナリオの問題。
 ジェイムズ・キャメロンが書いたもともとの脚本は186ページ。3時間の長編映画になるはずだった。それをロバート・ロドリゲスが2時間の脚本に圧縮した。
 これはおそらく、「2時間に圧縮しないと予算出さないぞ」というやりとりが映画会社かプロデューサーとの間にあったのだろう。ジェイムズ・キャメロンは自分でプロデューサーをやって資金集めをやったりもするのだけど、『アバター』の制作で忙しい。しかし『銃夢』の実写映画化はしたい。それで仕方なく「2時間に圧縮する」という条件を受け入れたのだろう。
 それで、映画を見ていて「あ、ここカットされたんだろうな……」というところがチラチラと見えてくる。

 例えばこちらの場面。
 イドは正体不明の頭部をひろい、この頭部に自宅で保管していたボディと合体させて蘇生した。そのボディというのは、本来“娘”に使う予定だったが、直前で殺されてしまう。そのボディで蘇生し、娘と同じ「アリータ」という名前を与えてしまう。するとイドにとってアリータはもう娘にしか感じられない。
 そこにアリータはより強力なボディを持ってくる。「このボディに変えて欲しい」。しかし体が変わってしまうと、イドにとってアリータは“娘”ではなくなってしまう。だから拒絶する。
 一方のアリータは、“娘”という立場を疎ましく感じている。“自立した女性”になりたいと思っている。ここに、子の父親離れ、父親の子離れのテーマが隠されている。アリータは果たしてボディを変えた後も、イドと父娘という関係性を続けられるのか?

 なにに引っかかっているかというと、こういう情緒的な掘り下げがぜんぜんなされていないこと。結局、アリータはとある戦いでボディを壊してしまい、戦闘用ボディに付け替えることになったのだが、これはプロット的なつながりを作っただけで人間的なドラマとしては成立していない。

 大人のボディを手に入れたアリータは、ヒューゴと恋愛を始める。少女のボディだった頃は、ヒューゴはアリータについて「ガールフレンドじゃない」と言っていたわけだが、大人のボディになると接し方が変わる。アリータも“大人の女”としての意識でヒューゴと接するようになる。ボディの換装によって意識が変化する(声も変わる)……という主人公がサイボーグだからこそ、の描写が興味深い。
 ただ、身体的なアイデンティティと心情的なアイデンティティというテーマが掘り下げられていないのが惜しい。大人のボディになったら、周りもアリータを大人として扱うようになった……こういうところもサイボーグという存在のあり方を問うテーマになるはずだったのだが……。ジェイムズ・キャメロンの脚本にはこういうテーマもあったのではないか。

 もう一つの引っかかりはこの美人さん。元・イドの妻だったチレンだ。チレンは娘が殺されたことを切っ掛けに、イドと離婚してしまう。
 チレンはアリータのボディを見て、すぐに「娘のものだ」と気付く。ということは、チレンにとってもアリータは“娘”という意識で見ていたはずだ。この心情的な掘り下げがまったくなされていない。最終的にチレンはアリータを救うわけだが、救う動機はアリータを娘と感じているからだが、そこが描写されていない。
 この辺りの描写の薄さを見ていて……あーここがカットされちゃったところだろうな……と推測した。アクションシーンを中心に物語が構築されている、という感じなので、周辺の心情的なドラマはカットされちゃったんだろう。

 そのアクションシーンもあまり描き方が鮮やかではない。アクション映画としては合格点ではあるが、アクションの一つ一つにインパクトがあるとは思えない。「そのキックでは相手は倒れないんじゃないか?」という感じ。
 問題はアクションの最中に挿入される回想シーンだ。アクションをぶつ切りにして、いまいち流れとして鮮やかじゃない。

 酒場での乱闘シーン。ここも引っかかったところで、派手にやっているように見えるが、この中でアリータはさほど戦ってない。周りの人々が勝手に暴れ回っているだけだ。見かけ倒しだな……と感じる描写。
 この後、地下に潜り、クリシュナとの決闘シーンに入るのだが、シーンの転換が無理矢理。なんで酒場の地下にそんな穴が開いてるんだよ。

 こういうアクションも、もしジェイムズ・キャメロンが監督していたらな……と感じるところ。いや、ロバート・ロドリゲス監督が描いたこのバージョンも、普通に見たらアクション映画として合格点ではあるんだけど。

 妙に抜けの悪い風景描写も引っかかりどころ。描写そのものはよくできているんだけど……。しかしワイドスクリーンを想定した画面作りはジェイムズ・キャメロンのほうが圧倒的に上。
 そうはいっても、普通のSF映画としては合格点なんだけど……。

 普通にSF映画として見たら、アクション映画として見たら充分合格点の作品なんだけど、どうしても頭の片隅で「ジェイムズ・キャメロンが監督していたらなぁ」が抜けない。風景描写にしてもアクションにしても、ジェイムズ・キャメロンのほうが圧倒的に上手い、というのをよく知っているから。「もともとジェイムズ・キャメロンが監督する予定だった」ということを知っている状態で見ると、いろんなところに引っかかってしまう。
 やっぱりジェイムズ・キャメロンに監督して欲しかった。しかしジェイムズ・キャメロンは映画史に残る記録的大ヒット映画を抱えているし、この映画には制作に1本10年かかってしまう。どちらか一つはとれない。難しい選択だ。

 ロバート・ロドリゲス監督の『アリータ:バトル・エンジェル』はクオリティ自体は非常に高い。よくできている。エンタメ映画として面白く見られる。作り込まれた1本だ。
 しかし心情的な掘り下げが不充分だし、エピソードのつながり方がやや強引な感じもある。こういうところで、「ああ、カットしたところだな」と察してしまう。それを察してしまうと、本来あったかもしれない「3時間バージョン」を見てみたいという気持ちになってしまう。完全版を見てみたかった。しかし2時間に収めることが制作条件だったのだろう。巨匠であっても映画作りがうまくいくわけではない。
 今のところ、続編の話はまったく出ていない。ロバート・ロドリゲス監督も主演ローサ・サラザールも意欲はあるようだけど……どうなるかわからない。もしかすると、制作費の割にたいして稼げなかった……というところが問題になっているのかも知れない。ここまで来たのなら物語の最後まで進めて欲しい。


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