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読書感想文 エロマンガ・スタディーズ/永山薫

 エロ漫画の歴史はどこから始まったのか。誰から始まったのか。そのミームを遡っていけば江戸期の春画文化まで辿ることができるだろうし、さらにその以前の文化を探ろうとすると出てくるはずだ。だが、“現代エロ漫画におけるゲノムキング”というくくりで見ると、あの巨匠の名前を挙げなければならない。

 手塚治虫だ。

 漫画文化のなにもかもが手塚が最初だった……という神格化をするつもりはない。だが、エロに関して言えば、手塚治虫が巨大なノード(結節点)であることは間違いない。
 手塚治虫の実質的なデビュー作は1947年に上梓された『新宝島』で、これは40万部を売り上げる当時としての大ヒット作品となった。実は同じ年、山川惣治の『少年王者』はそれを上回る50万部を売り上げている。
 方や新時代を告げる新しいスタイルの漫画であり、方や戦前の少年漫画の、そしてまた「大東亜共栄圏幻想」の最後の光芒としての秘境冒険譚である。戦後のこの時代が旧世代と新世代の分水嶺だったと見るべきだろう。
 結果はご存じの通り。手塚治虫スタイルが圧勝しその後の歴史を紡ぎ、山川惣治の絵物語の系譜は途絶えてしまう。山川惣治のミームをかろうじて受け継いでいるのが後に登場する劇画であり、大幅に復活させたのが擬古典主義者である宮崎駿だった。
 児童漫画とエロスは関係ないと思われがちだが、そうではない。幼児期から前思春期にかけての児童にもエロチックな快感は存在し、性器に局所化される以前の性的な欲望も存在している。児童が児童漫画からエロチックな信号を受信し、無意識にそうした「商品」を選択していたとしても、不思議でも何でもない。
 手塚治虫が神格化されていた生前、いや今でも手塚エロスについて語ることはタブー視されていたが、しかしその作品をよくよく見てみるとあらゆるエロスを芽を見いだすことができる。『キャプテンKne』の女装姿にドキドキし、『白いパイロット』の拷問シーンになんともいえないいやらしさを感じ、『リボンの騎士』の両性具有性とタイツ姿に興奮した昭和30年代の子供たちにとって、「手塚漫画はエッチ」というのは共通認識だった。
 面白いことに、現代まで続く美少女系エロ漫画の種は全部、手塚治虫がすでに書いていたことだ。
 ここで多形倒錯的であるという共通項を論拠に手塚治虫が美少女系エロ漫画の父だと主張するつもりはない。重要なのは、多形的エロスのミームが手塚治虫漫画の中に、すべて用意されていたことにある。
 だが、その手塚に憧れてフォロワーとなったトキワ荘グループの作家たちは、手塚エロだけは受け継がなかった。手塚エロのミームは、隔世遺伝的して後世に伝播していったのだ。

※ ミーム 文化遺伝子。リチャード・ドーキンス考案。

 1950年代にはすでに手塚治虫は神格化される存在になっていて、スタンダードな存在だからこそカウンターが生まれる。それが「劇画」である。辰巳ヨシヒロ、さいとう・たかを、佐藤まさあきらによるグループ「劇画工房」が結成され、貸本屋を舞台に新しい漫画を展開していく。
 手塚治虫がやらなかったこと――高い等身のキャラクター、シャープな線、荒っぽいタッチ、効果線の多用、コントラストの効いた陰影……子供向けではない新しい漫画スタイルが劇画によって成立した。当然ながら読者層も子供を対象にしない(実際には子供も読んでいた)。劇画は大人向けに描かれていた。だからその系譜が、やがて「大人の娯楽であるエロ漫画」に結びついてくることは必然の流れだった。

 1960年代になると、劇画が開拓した「大人が読む漫画」の市場はさらに拡大していく。娯楽としてのあるいは60年代安保の敗北を経験した青年たちの、「自分の中にある鬱勃たる情念」を表現する形式としても劇画はクローズアップされていく。
 1964年には白土三平の『カムイ伝』を掲載するための媒体として『月刊漫画ガロ』が創刊され、従来の商号主義とは別のチャンネルが提供された。貸本漫画を主戦場としていた漫画家たち……水木しげる、つげ義春、池上遼一らが表舞台に引っ張り上げられることになる。
 一方1966年には手塚治虫が自身の作品『火の鳥』を掲載するために『COM』が創刊される。これは劇画系『ガロ』に対する猛烈な対抗心によって生まれた雑誌だった。だから手塚のカウンターとして劇画が生まれ、そのカウンターとして『COM』が生まれた構図だった。だが実際には『COM』も能條純一や青柳祐介といった劇画作家たちを世に送り出していく。
 もう一つ重要なのは『ガロ』も『COM』も読者のジェンダーをセグメントしなかったことだ。特に『COM』はその傾向が強く、少女漫画24年組に影響を与えた矢代まさこ、樹村みのりに活躍の場を与え、岡田史子、竹宮惠子にデビューさせた。少女漫画的にも無視できない足跡を残している。
 この時代、エロ劇画家と呼ぶことができたのは、笠間しろう、SM誌の挿絵でも活躍していた椋陽児、歌川大雅だ。しかし彼らの文化遺伝子は、美少女系エロ漫画の遺伝子プールにはほとんど届いていない。やはり旧世代の産物なのだ。

 後のエロ漫画への影響を考えると、トキワ荘世代の次に位置する永井豪の登場は大きい。
 永井豪は少年誌という制約の中で、バイオレンスとエロスのギリギリを目指し、多くの年少読者にトラウマをつくり、永井がまいた種は10数年後にはオタク系エロ漫画として狂い咲きをはじめる……というのは大袈裟だが、80年代エロ漫画の書き手の多くが永井豪世代であり、永井豪のまいた種を受け取って育ったことは紛れもない事実だ。

 本格的なエロ漫画の直系的先祖が登場するのは1970年代だ。
 これ以降、青年劇画→三流劇画→ロリコン漫画という大きな流れが漫画史上に出現する。
 ただ、これはあくまでも時系列で見たお話であって、現在の美少女系エロ漫画が、どれほどの遺伝子を石井隆から受け継いでいるかといえば、ほとんどゼロに近い。むしろ青年漫画→三流劇画の中で培われた土壌、すなわち「性表現へ踏み込んだ市場の開拓」と「漫画による性表現の自由化」というインフラ整備が大きかった。この土壌がなければ、美少女系エロ漫画の出現はもっと遅くなったに違いない。
 1970年代は安保の敗北があった。これは当時の青年たちに深刻なトラウマを残した。世代的に運が悪い人にとっては、60年代70年代と立て続けに敗戦を味わうことになる。太平洋戦争の敗戦がアプレゲールというシニカルでニヒルな世代を生んだように、二度の安保闘争敗北は膨大なニヒリニストを生み出した。
 そんな時代感に沿ってなのか、60年代中後期に出現した青年劇画誌は、70年代に入って定着と隆盛の時を迎える。この時代、漫画の中でエロ表現はどんどん開拓されていった。

 1970年代半ば、青年劇画誌ブームを横目で見ていた中小零細出版社は「これは確実に儲かる」と踏んで、一斉に劇画誌市場に参入した。劇画誌、漫画誌は低予算で確実にペイできることが認知されたからである。もちろん大手出版社からみればささやかな薄利に過ぎないが、薄利多売の言葉通り、一社が何冊も劇画誌をキャラメル商法で量産すれば確実に儲けが出た。
 これが三流劇画ブームの始まりで、この頃は月間だけで50~70誌ぐらい発行されていた。これだけで驚いてはならない。これは“本誌”だけの数で、別冊、別冊増刊といったものも含めると、80~100誌にもなっていた。1誌5~20万部ほど売り上げていたはずなので、少なくとも500万誌が日本中に出回っていたことになる。
 この70年代中期のあらゆるエロ系メディアの鉄則はただ一つ。
「エロがあれば何をやっていい」
 それは三流劇画においても同じだった。三流劇画は自らを「三流」と位置づけることによって、明確に「エロ」を志向し、「エロ」であるというアリバイの元で「自由」や「デタラメ」や「前衛性」を獲得していった。
 「三流劇画御三家」と呼ばれた亀和田武編集『劇画アリス』、高取英編集『漫画エロジェニカ』、小谷哲と菅野邦明編集の『漫画大快楽』は単にエロティシズム表現の過激さだけで目立っていたのではない。3人の編集長はそれぞれに弁が立ち、戦闘的で、お祭り好きで、「面白いもの」に対する感度が抜群だった。彼らにはありがちな日陰者意識はなく、テレビにも出演するわ、互いに論争するわ、時に鉄拳が飛ぶわ、70年代安保の憂さを晴らすかのように暴れ回った。

 同じ70年代は三流劇画ブームとは別に、新しい潮流が起きていた。それが「花の24年組」と呼ばれる、少女漫画作家たちの台頭である。
 この時代、漫画を語る上で見逃すことができないのは、「男が少女漫画を読むようになった」ことだ。この時代に漫画好きを自称しながら、少女漫画を読まないやつはモグリですらあった。
 三流劇画たちの中には、単に少女漫画を読んで楽しむだけではなく、積極的に少女漫画の遺伝子を取り込んでいく者もいた。なぜなら登場人物の心理描写、恋愛感情の表現、画面処理、ファッションなどに関していえば少女漫画に一日の長があった。それに女性キャラクターの美しさ、愛らしさという面でも劇画は太刀打ちできなかった。そもそもエロ劇画は女を魅力的に描けてナンボ。そこに少女漫画の遺伝子を取り込まない手はなかった。
 少女漫画遺伝子の受容という意味では、三流劇画よりも美少女系エロ漫画の方が遙かに貪欲だった。美少女系エロ漫画にとって魅力的なキャラとは「見た目の可愛らしさ」であることが大部分を占める。劇画には「美しい」「色っぽい」「セクシー」というミームは存在しても、「可愛い」のミームがなかった。「可愛い」のミームは子供向けとされていたジャンル限定の必殺技だったからだ。美少女系エロ漫画の中で見つかる可愛いのミームは少年漫画や幼年漫画から伝播してきたものだが、その大元を探ると少女漫画から始まっているわけだし、その源流を探ると必ず手塚治虫が出てくる。手塚治虫が生み出した可愛いの遺伝子が、少女漫画ジャンルでよりよく保存され、ブラッシュアップされ、同年代に男性向けとされるジャンルへとフィードバックされていくことになる。

 24年組作家たちの重要な点は、愛と性に踏み込んだ表現を行ったことである。その多くは、男性同性愛をモチーフにしている。
 なぜ70年代後半の少女漫画家達は男子同性愛をモチーフとして選んだのか。まず少女漫画の世界で「性」はタブーだったから、これを回避するために、「書き手も読み手も直接関係ない男性間同性愛だから」というエクスキューズを置いたと見られるだろう。だが、単純に男女間の性を代替しただけ、あるいは同性愛に対する窃視的な興味、またはマイナー志向こそ良しとするオタク的ナルシズムというレベルならば、女性向けカルチャーの中でJune/耽美/やおい/BLがここまで巨大な市場になることもなかったはずだ。
 彼女たちは麗しい男子同士の恋愛劇を宝塚歌劇や歌舞伎を眺めるように愛でると同時に、登場人物に自己投影し、ファンタジーの中で性別を超越し、性的ファンタジーをファンタジーとして楽しむことを覚えたのである。
 男女間のリアルな性ではなく、「書き手も読み手も直接関係ない男性間同性愛だから」というエクスキューズを置いたと否定的に見るべきではない。ここで注目すべきは、たとえエクスキューズ付きであっても、作者と読者が性表現に踏み込み、性表現に触れ、性表現に対するアレルギー、フォビア(忌避・恐怖)が格段に緩和されたことにある。
 そしてその潮流は、90年以降には女性作家の男性向けエロ漫画ジャンルへの大量越境という事態にまで発展することになる。
 美少女エロ漫画は、これ以外にも少女漫画から多くの遺伝子を受け継いでいる。内面描写や内省的なテーマもその一つだし、リボン、フリル、レース、チュール、コスチュームもそうだし、猫耳にしたって大島弓子の『綿の国星』が大元だ。
 80年代以降のラブストーリー系エロ漫画は乱暴にいえば少女漫画のラブコメと共通するフォーマットが使用され、ゴールがセックスかノンセックスかの違いに過ぎない。
 さらにその先に、少女漫画、やおい、BL、レディスコミックで性的表現を獲得した女性作家が80年代以後、エロ漫画の領域に大幅に参戦し、「エロ漫画は男性作家による男性読者のためのジャンル」という既成概念を破壊し始めることになる。

 70年代はまだ終わらない。三流劇画、24年組作家ともう一つ、70年代に絶対無視できないできごとが起きている。
 それは1975年第1回コミックマーケット開催である。
 コミケをはじめとする同人誌即売会の出現は、それまでサークルの成員とその周辺のみに配布されていた同人誌が、インディーズ出版の側面を拡大していく上で大きな契機となった。同人誌即売会という市場があれば、売る側も買う側も利用できる。同人誌が売れれば制作資金を回収でき、次号の制作資金を調達することも可能になる。「趣味」から「ビジネス」に変わる。そこで商業誌には一切姿を現さない、プロ顔負けの「アマチュア作家」なるものも出現する。さらにそこから進んで、自身では漫画も小説も書かず、色んな作家に声をかけて編集に専念するフリーエディターなるものも現れ、同人誌でありながらミニ商業出版みたいなことを始める人も現れた。
 このコミケがエロ漫画にどんな遺伝子をもたらしたのか? まず三流劇画はほとんど影響を受けていない。発生時期がほぼ同じとはいえ、「住む場所」が違っていた。
 コミケと完全にシンクロするのは、82年にジャンルが成立する美少女系エロ漫画だ。もう一つは85年に『キャプテン翼』同人誌で大爆発を起こすやおい系である。
 猛烈な勢いで発展する「コミケ市場」の中で、初期の内輪ネタから売れる商品を志向していったのは当然の流れだ。その中で、手っ取り早く確実に売れるジャンルが「エロパロディ」だった。
 同人誌エロパロディの最初がいつだったか(誰が書いてどの作品だったのか)もはや定かではないが、70年代後半のロリコン同人誌のなかにはすでにエロパロディが描かれていた。
 本来禁じ手であるエロやパロディを描ける楽しさはなによりも代えがたい。若い書き手にとって、タブー侵攻や権威への茶々は快楽だし、他人が作ったキャラクターを好きなようにカスタマイズし、それで好きなようにセックスできる……これはオリジナル作品制作にはない新しい快楽をもたらした。

 ようやく70年代も終わりに差し掛かるが、ここで70年代全盛期を迎えた三流劇画が凋落の時を迎える。
 原因はいくつかある。まず雑誌自体が飽和状態に陥り、質の低下が起きていたこと。漫画家は無限にいるわけはないので、同じ人が何冊も書いていた。人気作家になると月300枚という無茶な数を請け負っていた。それでも間に合わないなら、凡作、新人の穴埋め原稿、人気作家の旧作品を再掲載……そんなことをやっていたら、読者も離れていくのは当たり前だ。  そのうえに、政府による規制が入る。
 東京地婦連、青少年対策本部、衆院文教小委員会、PTA全国協議会……権威ある者達が一斉に三流劇画を攻撃し始めた。
 漫画家にとっての主戦場である雑誌が摘発を受けて廃刊し、さらに流通であった雑誌自販機が撤廃される動きが起きた。
 しかし、もともと三流劇画は「目先」しか見えていないビジネスだった。零細企業が「確実にペイできる」という安全パイを獲得するために、安く作って安く儲かる……それが三流劇画だった。漫画家の原稿料が安ければ、編集の給料も安く、儲けも安い。目先にある儲けだけを見て突っ走り続けたような業界だった。理想もなければ、自分たち文化を守るための理論武装もしない。だから「規制」の波が来ればいとも簡単にクラッシュする。衰退はいつかやってくるもの、だった。

 いよいよ1980年代に入る。
 1982年、最初のロリコン雑誌と呼ばれる『コミック レモンピープル』が創刊された。ここから「ロリコン漫画ブーム」は始まる。
 劇画調の三流劇画から、マンガ・アニメ調のロリコン漫画へ、パラダイムシフトは予想以上の速度で進行した。この背景には、大きな時代の流れ、あるいは文化史的なうねりを見いだすことができる。中でも特徴的なのはフラジャリティの復権だ。フラジャイルとは「壊れやすいもの、繊細なもの、小さきもの、幼いもの、か弱きもの、不完全なもの、断片的なもの、愛らしいもの、歪んだもの、病んだもの、儚きもの……」といった男性原理であるマチズモとは対極的な「もの/状態」を慈しむ文化である。フラジャリティ文化は相対的にマイナーであっても、決して特殊ではないし、脆弱でもなかった。戦前戦中の軍国主義的な抑圧文化の中で、「女子供」のための娯楽として文化は生きのびてきたのである。
 大日本帝国の敗戦によってマッチョな価値観が崩れ去り、戦前・戦中派の力が弱まるにつれて、もはや歴史的必然であるかのようにフラジャリティが増殖を始める。「女子供」文化の領域にしかなかった、「かわいい」「美しい」「好ましい」「素敵な」といったコトバが女子供文化の領域から溢れ出し始める。
 フラジャイルを抑圧していたマチズモはどんどん弱くなっていった。団塊世代の全共闘戦士たちが70年代初頭に敗北し、シニカルな苦笑いを浮かべながらモーレツサラリーマンになっていく。日本は豊かになっていく。団塊の次世代は先輩たちの華麗なる転身と凋落を目撃し、戦後マチズモにうんざりしていた。さらに下になると、マチズモはもはやパロディの対象になっていた。
 そこに潜り込み、狂い咲きを始めるのが「可愛い」だった。

 「ロリコン漫画ブーム」そのものはあっという間に衰退していく。その理由は読者の中に本当の意味での幼児性愛者がいなかったからだ。可愛い女の子は愛すべき対象であってもエロスの対象になり得なかった。
 その衰退期に、二人のキーパーソンが登場する。
 一人は若手編集者だった大塚英志だった。
 大塚英志は当時、劇画系雑誌として創刊しながらまったく数字が出せなかった『漫画ブリッコ』の編集長に就任すると、この雑誌を「美少女漫画誌」へ大改造してしまう。現在のエロ漫画を「美少女漫画」と呼ぶ系譜は、ここから始まっている。大塚英志の凄みはあくまでもエロ漫画という建前を守りつつ、実質にはニューウェーブ革命を推進してしまったことだろう。藤原カムイ、岡崎京子、ひろもりしのぶ、かがみあきら、白倉由美など、同人誌からデビューし、ブレイクした漫画家は多いが、その多くは一般漫画誌へと活動の中心を移していくことになる。
 また同誌のコラムでは竹熊健太郎や中森明夫といった作家が健筆を振るっていたが、その中森昭夫のコラムの中から「おたく」という言葉が生まれ、大塚英志と論争になるという事態になっていく。この「おたく論争」が宮崎勤事件を経て「おたく問題」へと発展していくのだが、それはここで取り上げるテーマではない。
 大塚英志が編集を離れた後、同誌は斉藤O子が引き継ぎ、リニューアルされ、最終的には『漫画ホットミルク』として一時代を形成していくことになる。大塚英志の敷いたハイセンスで今日的な路線は、彼の育てた作家とともにエロ漫画界からスピンオフして、一般誌へとその版図を拡大していくことになる。
 もう一人のキーパーソンが森山塔だ。
 森山塔はポスト三流劇画およびポスト団塊世代の時代精神を象徴する最大の作家だった。参戦する前に70年代安保の敗戦を経験し、団塊=全共闘世代の転身ぶりを目撃してしまったシラケ世代、後に新人類やおたくと呼ばれた世代の倦怠感、無力感、シニシズム、ニヒリズム、アナーキズム……既存の価値とリアルに対する不信と反感を森山塔ほど体現して見せた作家は他にいない。
 そこでは旧世代的なパトスは徹底して排除される。ヒロイズムもマチズモも尊厳もない。激しい性行為が描かれるも、その行為の原動力となる愛も欲望もない。そんなものはおちゃらかしの対象に過ぎないし、唾棄すべき人間主義だ。森山塔の世界では、男女の区別なく、人間は消耗品だった。

感想文

 本書の紹介はここまで。

 もしかしたら「エロ漫画の話」と聞いて、エンタメ的なエロ話を期待して読む人もいるかも知れないが、残念、あくまでも歴史と文化に関するお話である。
 ブログに紹介したのは、前半90ページくらいまで。そこそこ厚みのある本なので、まだまだ冒頭といったところ。エロ漫画が確固たる文化として成立する以前の、60年代70年代80年代の歴史までを取り上げた。この後、90年代に入り、エロ漫画、エロゲー(ギャルゲー)ブームがあり、「萌絵」が一大ジャンルとして特別視されていくことになる。今回はそこに至るまでの大雑把な動線を取り上げた。実際の本にはもっと詳しいディテールが書き込まれているので、もっと深入りして知りたい……という人は実際の本を手に取って読んで欲しい。

 さて、エロ漫画の歴史である。
 これまで、このブログでは何度か「漫画の歴史」について取り上げてきたが、それらの漫画歴史の中には、ざっくり切り落とされていた部分が存在する。それが「エロ漫画の歴史」だ。
 なぜエロ漫画の歴史が切り落とされるのか――それはエロが公共性に反するという「常識」が私たちの心の障壁となり、“語るべきテーマではない”と勝手に切り落としをしてしまっているからだ。もしも取り上げても、エロだけは“真面目に取り上げるべきではない”つまりエンタメとしてのエロ以外は語るべきではない、サービス精神なき語りには価値がない、という消費者的な傲慢さも妨害要因となる。これら全てが「エロの壁」である。

 この本の存在がそうであるけど、取り上げようとすると本流から外れた「傍流」扱いになってしまう。
 それでは漫画の歴史において、エロは不要で意味のないものか、歴史的な影響はなかったのか……というと絶対にそれはない。非エロ漫画とエロ漫画常にクロスオーバーしてきた。今時、非エロで高名な作家が、キャリアのスタートがエロ漫画だった……ということは珍しくともなんともない。エロ漫画、エロイラストレーター出身の絵描きは非常に多い。一方で非エロですでに地位を築いた漫画家が平行してエロ漫画を描くなんてことも普通にある。コミックマーケットの話まで巻き込んでいくと、商業誌ですでに地位を得ている作家が、コミケでエロ同人誌を作って売ってる……というのもよくある話だ。商業誌デビュー、メジャーデビューしたらエロ界隈から完全に卒業……ではないのだ。コミックマーケットは商業誌デビューできなかった漫画家の受け皿としてあるのではなく、プロとアマチュアが同じ席に立って同人誌を作り、売るからこそあの場所の面白さがあるわけである。

 するとエロ漫画、非エロ漫画に描かれているものは少しずつ影響し合う関係にある。その大きなものが「萌え絵」だ。「萌え絵」の出生地はどうみても少女漫画だが、その少女漫画の中で隔離培養されていた表現が、いかにして少女漫画以外の世界に拡散し、「萌え絵」として確立していったか――それはエロ漫画からではないか。エロ漫画経由で少女漫画的フラジャイルは現代の覇権を握ったのではないか。
 アニメの世界では、2000年代以降「萌え絵」「萌えアニメ」が一大勢力として浮上してくるが、その時の初期の頃をよーく思い出して欲しい。萌えアニメを忌避し否定する人々の意見が、まるっきり「少女漫画に反発する少年の意見」そのものだった。私たちは壮大なる勘違いをしているが、もともと「萌え絵」は女の子文化の産物だった。それを、男性が消費する文化に転倒してみせたのが、2000年代以降の特殊さだった。そういう文化がどこからやってきて、するっとフェードインしてきたのかというと、エロ界隈からだった。
 そう考えると、「漫画の歴史にエロは語る意味なし」とは言い切れないものがある。むしろエロ込みで語らないと、見えなくなってしまうものがある。

 エロの世界が面白いのは、単に率直に人間の欲望を受け、処理させる性質にあるだけではない……と、難しい表現を使ってしまったが、要するに作品に触れることによって読み手を勃起させ、身体的に我慢できない状態に陥らせて、やがて自らの手で勃起した性器を刺激させ、絶頂させ、それで幸福に導く。
 男性限定の表現で話をしてしまったが、女性の反応も同じだ。
 絶頂を迎えた後、読み手はどうするかというと、本を閉じてしまう。物語が続いていたとしても、そこで終わるのだ。高まった欲望が完結してしまうと、物語の展開や経過がどうであろうが、そこで終わるのだ。読み手が絶頂を迎えた後になると、漫画の中でどんなに素晴らしいエロ絵が描かれていても、読んでいて気持ちが高まることはない。

 エロ漫画はかなり特殊に、特定の感情を極端に引き起こす性格を持っているが、非エロ漫画も実は特定感情を引き起こすためにある。その作品の物語に触れさせることによって、見る側に特定の感情を呼び起こし、それを激しく燃えあがらせ、物語が完結するとともにその感情も“絶頂”させ、その後に鎮火させる。
 それをエロに特化しているのがエロ作品の特徴だが、エロはもっともっとその人間の内面的に触れてくる。それはそのエロで“性欲を処理したい”という人に対してもそうだし、その一方で“エロを規制したい”という人の内面も暴き出してしまう。内面に直接語りかけ、その人間自身をあぶり出すことにこそ、エロの面白さがある。

小林さんちのメイドラゴン2 10話 (35)

 どんな物語でも同じだが、読者・視聴者は作品の登場人物やシチュエーションに気持ちを預けて見ている。そしてその登場人物に思いを託し、現実では得られない自己実現を達成する。  例えば、可憐な女の子が悪漢に追われている。
 主人公はその光景にたまたま遭遇する。
 辺りには女の子を助けてくれそうな人はいない。
 そこで主人公が飛び出し、悪漢をバッタバッタとなぎ倒し、最後には背を向けて軽めの決め台詞を呟く。
 悪漢たちはさっきまでの勢いをなくし、「ひぇぇ覚えてろよ」というテンプレート的な台詞を残して去って行く。
 誰もが憧れるシチュエーションである。しかし、まず現実にそんな光景に出くわすことがない。もしもあったとして、相手はガタイのいい悪漢だ。ボコボコにされて終わるだけである。一見して喧嘩慣れしてなさそうなヒョロヒョロとした優男が、鮮やかな立ち回りで悪漢を退治できるのは、物語の中だけである。
 大抵の人はそんなことわかっているから、もしも上のようなシチュエーションに遭遇しても、見て見ぬ振りをしてしまう。
 ところが、エンタメの世界ではこれが実現できる。人が思っていても言わないことを、あけすけに演じてみせて、しかも鮮やかに達成してみせる。そういう光景を見たとき、読者・視聴者の気持ちは最高に高まっていく。この場合の主題は「女の子を救い出した」ことではなく、実は「女の子を助けた格好いい俺」のほうである。もはや女の子を助けた事実すらどうでもいい。現実では達成できなかった自己実現を達成する場面を目撃したとき、読者・視聴者の気持ちははっきりと登場人物の意識の中に移っている。「本当はこうでありたかった」という姿を描くのがエンタメであり、人々が本当にしたいと思っていることを炙り出すのがエンタメの正体である。
 エンタメは見る側の隠れた欲望を引き起こさせ、それを達成させ、その欲望を鎮火させる。
 ただ、エンタメの不思議なところは見ている側の大多数は、作り手に欲望を引きずり出されたことに気付いていない。たまに自覚がある、という人もいるが、それは少数派だ。エンタメが人の要望を喚起させて達成させる装置である……という面に大多数は気付かずに、気付かないまま楽しみ、そして通り過ぎて行くのだ。

 エロ漫画も同じように、見る側の本質的な欲望を喚起させるメディアである。非エロ漫画よりも、エロ漫画はもっと有り体に、読み手の内面をさらけ出させる性質を持っている。
 そういうメディアだからこそ、読者はその時の気持ちを託す相手(つまりはセックスパートナー)を慎重に選択するし、シチュエーションにも好みを反映させたい。
 巨乳、処女、長身、ニューハーフ、パイパン、美乳、ロリ、女装、男の娘、ショタ、妊婦、ふたなり、筋肉、スレンダー、巨根……とFANZAにジャンル分けされている女の子タイプ(一部男性)をざっと列挙したが、これもごく一部だ。このように分類分けされている理由は、読者それぞれにイデア的イメージがあり、それを見付けやすくするために手っ取り早く確実な方法が、対象のパターンを分類分けすることだからだ。

2021年6月1日挿絵・Twitter投稿版

 私の場合、長い黒髪の清楚なお嬢様系の美少女だ。私は色んな作品と接してきて、どうしても好きで堪らなくなる美少女キャラクターがいるのだが、全員同じタイプだ(pixivで二次創作をえんえん渉猟してしまう)。いっそ、作品もキャラクターは違うけど、私の脳内のイデア的イメージはずっと同じだといってもいい(つまり同じキャラクターのヴァリエーション違いだと認識している)。私の脳内にあるイデア的イメージに断片的でも符合する相手を、私はいつも求めているのだ。当然ながらエロコンテンツを見るときでも、このタイプに一致する女の子をまず探して見てしまう。
 これは私が特殊なのではない。みんな同じことをしている。ただ、大半の人は自覚がないだけだ。

 エロ漫画における「主人公」のほとんどは特に個性のないテンプレート的なへのへのもへじなキャラクターだ。ヒロインにはこだわりにこだわりまくったデザインと作者の思いが乗せられるのに対して、主人公キャラクターが個性的だったことはほとんどない。その主人公も、テンプレート的な当たり障りのない台詞を女の子に投げかけるだけで、セックスシーンになったらその姿も消え、存在は掌とペニスだけになる(ペニスすら透明になる主人公もいる)。
 どうしてこうなるのかというと、主人公は読者のアバターだからだ。エロ作品を読むときの気持ちというのは、ほとんどVRゴーグルを付けて異世界にダイブしているときの感覚に近い。読者はその世界観の主人公になっている気持ちになっているし、相手との性交をリアルに感じたいと思っている。だから主人公があまりにも個性的に描かれてしまうと、邪魔に感じられるのだ。エロ漫画を読んでいるときの気持ちは、「自分と美少女」との関係性が大事なのであって、個性的な主人公がいると、「自分と美少女」との間に、もう一人別の誰かがいるということになっている。
 実写作品で男優の存在が目障りに感じられる理由がこれだ。自分がセックスしているような気持ちになれない。誰かのセックスを見せつけられているだけになってしまう。だから実写作品よりも漫画作品の方が「抜き」という面では一歩勝るのだ。
 ついでに、漫画は抽象度が高いからこそ、読み手のイデア的イメージにより近付けることになる。抽象度が低すぎると、かえってイデア的イメージに合う女の子が限られてしまう。

 エロ漫画を読んでいるときは感情と意識がVRゴーグル状態で主人公と意識が同化してしまう。だからこそ、その相手を厳選する。シチュエーションも厳選する。絵に描かれたものだからこそ、自分の理想をそこに求めてしまう。
 ということはそれだけ、読み手の内面に迫っているということになる。読む作品によって、自分の内面がすでに曝け出されているともいえるからだ。エロ漫画は書き手の告白であると同時に、読み手側の告白でもあり、その共犯関係にこそエロ漫画の本質が現れてくる。
 非エロ漫画を読むときの意識はまったく違う。非エロ作品と接するときは、批評意識を前面に出すことができる。自分の好みや趣味といった内面的なものはさて置きとして、作劇や演出がどうであるか、絵の出来がどうであるか……これを厳正に審査し、良し悪しをジャッジすることができる。小説を読むときも映画を読むときも同じだ。非エロ作品は、作品のクオリティこそが全てになる。
 ところがエロ漫画と接したとき、そういう批評よりも先に、自分の内面そのものを形にしたようなシチュエーションと美少女が出てきたら、その瞬間、批評意識が崩壊する。降参するしかなくなってしまう。これがエロ漫画のインパクトだ。

 話は少し変わるが、萌えアニメで「鬱展開」を嫌う人々がいる。
 どうして彼らはそこまで「鬱展開」を嫌うのだろうか……おそらく彼らは批評意識よりも前に自分の内面をキャラクターや世界観に預けてしまっているのだ。自分の意識がVRゴーグルでダイブしている状態で、「あちら側」にいて、世界観なりキャラクターに意識を同化させているのだ。だから鬱展開が起きると、まさに自分の内面で起きているような錯覚を起こしてしまう。
 アニメをそんなふうに「深い」見方をしている人々がいる――ということに、この本を読んでいるうちに気付いた。
 よくよく考えれば、私もエロ漫画での鬱展開は大嫌いだ。なぜ嫌いなのかというと、気持ちがあちら側の世界にいるからだ。私は異世界にいて、夢を見ていたいのに、どうしてその気分を妨げるようなものが出てくるのか……という気分になってしまう。私もエロ漫画と接してりる時は、そういう「深み」に入り込んでいるのだ、ということにも気付いた。
 萌えアニメで「鬱展開」を嫌う人々は、普通の人々よりも入り込み方が深い。批評意識が麻痺するくらいに、「あちら側」にいるのだ。
 すると逆に、どうして私のようなマンガ・アニメの視聴者はそのような見方ができないのだろうか……という問いかけとしても跳ね返ってくる問題だった。

 80年代以降、少女漫画的フラジャイルがエロの世界に侵食し、10年間の培養期間を経て「萌え絵」としてより大きな文化としてあらゆるメディアに逆流していく現象が起きた。その背景には男性的マッチョイズムの敗北と衰退がそこにある。男性が男性として社会的に自立していくことへの敗北。ついでに、男性的であること、への時代遅れ感。戦後的な男性像は、今の時代からすると暴力的だし、酒を飲まなければまともなコミュニケーションすらできないというし、あと単に汚いし臭い。見た目にこだわらない、こだわると男性的ではない……という考え方が90年代以降の社会観とも合わなかった。
 ここには「戦後的男性観」の刷新に失敗し続けたということもある。「理想の男性像とは?」という問いを社会的にしてこなかったツケとも。一方の女性観はずっと刷新し続け、世代が新しくなるごとに新しい姿を提供していった。ファッションを見ると、10年前、20年前の男性服の変化はほとんど見られない。いっそ30年前や40年前と比較しても大した違いはない。一方の女性ファッションは別の惑星かというくらいに変化し続けている。そんなふうに変化、つまりは洗練させてこなかったことが、「男性像の崩壊」という現代の現象を招いたともいえる。
 さらに男性が男性的でいることへの疲労感。男性で居続けようとするのは、精神的につらいのだ。
 男性も綺麗になっていくし、美しいものに憧れていく。その行き着くところが男性による女装……つまりは男性が女性そのものに憧れていくという潮流に行き当たったとしても不思議でも何でもない。男の娘の登場はあるべき流れだった。男性が萌えアニメの美少女キャラクターに意識を同化させていくのも、こうした傾向からだ。
(はっきりした言葉で言うと、男はダサい。男であること自体が既にダサい)
 どうしてそうなるかというと、エロ漫画やエロ文化は読み手の内面(欲望)をより深く炙り出し、その当事者の気持ちにさせてしまうからだ。
 男の娘、その前景としてショタものがあるのだが、男性が女性に性的に消費される。それを通り越して、男性が女性化した男性を性的に消費する。「性文化は男性が女性を消費する」という前提がエロの世界から崩壊していく。
 ご存じの通り、江戸時代には「陰間」という、現代でいうところの男の娘がすでにいて、陰間は男女問わず性の対象になっていたので、こういうところでも先祖返りしたのだといえる。

 少し話を脱線させよう。
 欧米コンテンツには、女性が主役のものが少ない……とよく言われる。アメコミやゲームを見ると、女性主人公はとことん少ない。アメコミの世界に女性ヒーローが登場したのは、ウーマンリブ運動を経てようやく……といった産物だし、やっていることといえば男性とほぼ一緒。単に性別が女性というだけで、虚構の中で「女性として」のアイデンティティを示せている作品はほぼない(あるかも知れないけど、私は存在を知らない。それくらいに女性性を打ち出せた欧米の作品は少ない)。
 どうしてそうなるのかというと、やはり男性的マッチョイズムが欧米世界においてまだ中心的な強さを発揮できているからだ。
 対して日本にコンテンツには女性主人公が大量にある。しかも(男女問わず)受け入れられている。ここから何がわかるかというと、日本社会における男性権威の失墜。マッチョイズムの喪失と漂白。今の時代、男性すらも女性的な可愛らしさと美に憧れ、羨望の眼差しを向けている。ゲームで女性主人公を操っているとき、私たちははっきりと女性的な気持ちになっている。「女性になりたい」という密かな思いを抱いているからこそ、女性主人公コンテンツがここまで大量にあるのだ。
 一方で(私個人的にだが)男性主人公を操っているとき、私は男性主人公に対して感情移入していない。
 すでに書いた通り、おそらくは戦後社会における男性権威の失墜と社会観が呼応した産物だろう。男性的であることに価値をなくし、社会的にも審美価値にしても重要度を持っているのは女性、あるいは女性的であること、のほうになっているのだ。
 今もって男性的なマッチョイズム、あるいは男尊女卑的な社会観があるからこそ、欧米のコンテンツは男性主人公が中心になる。だから欧米から『けいおん!』や『ご注文はうさぎですか?』のような作品は現れ得ないだろう。『けいおん!』のような萌えアニメは、男性が「性の対象」として女の子を見ているのではなく、その女の子になりたいという羨望として見るのだ。『けいおん!』のような作品に思い至ろうと思ったら、まずそうした社会を獲得するところから始めなければならない。
(欧米の人々が「萌えアニメがわからない」と言う理由は、この辺りにあるのかも知れない。美少女を「性の対象」として見るのではなく、その美少女そのものになりたいという願望が彼らにはないのだ)
(ただ、もしも「萌えアニメ」が欧米で今よりも求められている傾向が起きてくると、欧米にも深層にそうした女性化への願望が生まれてきている萌芽かも知れない)

 エロは人間の本質を暴き出す。それはエロを愛好する者だけではなく、エロを差別する者の意識を、そこからもっと進んで、エロを弾圧したいと願う人々が抱く本質も暴き出す。
 本書の中で、反ポルノ運動の旗手であるキャサリン・マッキノンが来日したときの話が紹介されている。キャサリン・マッキノンに女性向けに描かれたエロ漫画「レディースコミック」についてどう思うか? と尋ねたところ、彼女は「女性向けポルノというのは、実は男が男向けに作っているのであり、その読者の99%は男である」と答えた。
(森岡正博「女性学からの問いかけを男性はどう受け止めるべきなのか」『日本倫理学会第50回大会報告書』日本倫理学会編)
 笑いどころではない。キャサリン・マッキノンは大真面目にこう答えたのだ。彼女はレディースコミックの読者の大半は男性だと思い込んでいるのだ。そしてそれは、「きっとそうであって欲しい」という願望を表明するものでもある。

 何年か前に、「JKという言葉が卑猥だ」という指摘が出たことがある(もう数年も前の話なので、情報元が何のニュースだったかも探れないが)。その人の意見によると、「JK」という言葉は、主にエロ産業で使われている言葉であるから、そうではない場所で使うのには不適切だ……という。
 はて? 「JK=女子校生」という言葉は別にエロ産業だけではなく、マンガ・アニメ・広告産業、果ては日常語まで広く浸透し、使われている言葉だ。広く浸透し、使われているからこそ、エロコンテンツでも使われているだけに過ぎない。決して、エロ産業が「女子校生」という言葉を隠すための隠語としてJKという言葉を使い始めたとか、そういう経緯ではない。
 「JKという言葉はエロ産業で使われている言葉だ」という指摘には正当性がまったくない。すると問題は、その人がどうしてそのように考えるに至ったか、を考える必要がある。
 答えはシンプルだ。誰にだってわかる。
 この人はJKという言葉を、エロコンテンツを通して知ったのだ。エロコンテンツで使われているところしか知らない。つまり、世の中をぜんぜん知らない。さてはエロサイトばっかり見てやがったな……という推測もできる。
 するとこの人が普段からどんなコンテンツに触れて、世の中を認識していたか、が見えてくる。
 実は当のご本人がとんでもなく恥ずかしい発言をしてしまっていることに、本人だけが気付いていない。

児童文学書表紙画 (2)

 別の話。
 同じような話で、「児童文学の表紙に萌え絵を使うのは不適切だ」という指摘があった。「萌え絵」というのは、主に「猥褻なコンテンツに使われる絵」であって、それを児童文学の表紙や挿絵に使うのは不適切だ……というのが詳しい指摘内容だった。
 こちらの例も同じく、「萌え絵」をエロコンテンツでよく消費されていることを知っていて、それでしか知らない人の意見だ。
 話を遡って考えて欲しい。もともと萌え絵の出生地は少女漫画だ。確かにエロコンテンツを通ってきて、そのスタイルはより先鋭化していったが、萌え絵のもとの古里である「女子供文化」に戻っただけに過ぎない。もともと「萌え絵」のような「可愛らしい絵柄」は女子供文化の産物なので、ただの里帰りだ。
 それに、児童文学の表紙絵に萌え絵美少女キャラが登場し始めた理由は、別に出版社の方針でも、担当編集者の趣味でもなんでない(もちろん萌え絵表紙で大人の読者を釣り上げようという意図すらない)。市場調査の結果、今時代年少の子供たちが率直に「可愛い」と感じられるのは、まさに萌え絵美少女だった……というだけの話だった。子供という一番純粋な批評家たちが曇りなき眼で審査した結果、市場のありとあらゆるデザインの中で一番可愛いと判定したのは萌え絵だったのだ。
 萌え絵を「エロコンテンツの産物だからけしからん」とか「キモオタ文化の産物だから子供に与えるべきではない」なんて思うのは、心が汚れきった大人の意見だったのだ。
 蛇足だが、もう一つ付け足そう。私が子供の頃、童話や児童文学の絵を見て、率直に「ダサい」と思っていた。子供は絵を見て、「ダサい」か「格好いい」か判断するだけの審美能力はない……大人は勝手に思い込む。そんなわけはない。子供だって、ダサいものを見たら「ダッセー」と思う。私の子供の頃の童話や児童文学は、表紙絵や挿絵にそこまでのこだわりを持って描かれている作品ががなかったから、興味を持つこともなかった。そこで、より時代に即した格好良さを求める漫画の方に夢中になるのは当たり前の話だった。「子供だから絵なんてわからないだろう」とか「子供はこういう絵を好むに違いない」と思い込んで与えようとするのは、大人の押しつけでしかない。子供を舐めてもらったら困る。「子供だから安っぽい絵のものでいいでしょう」とか考えるのは、ただの侮辱だ。

 ここまでの話で共通していえることはただ一つ、エロ規制を推進する人々の勉強不足だ。
 はっきり言おう――頭が悪い。
 今回の例に限らず、私はブログでは何度かエロ規制派の書いたものを取り上げたことがあるのだが、そのどれもびっくりするほど頭が悪い。何も勉強しない。萌えキャラを見たら「性的で不適切だ!」と感情的になって、これは人々に見せるべきではない、規制だ! ……という条件反射で発言しているだけにすぎない。物事を考える力があるのかさえ疑わしい。
 「レディースコミックの読者の99%は男」という意見もそうだが、規制派の人々は基本的に勉強しない。情報も収集しない。すべて願望で語っている。だからこういった人々の発言や書いたものから見えてくるのは、「そうであって欲しい」という願望でしかない。すべて自分の脳内で作ったものだ。
 しかし困ったことに、こういう規制派の人々やフェミニストというのは、どういうわけかそこそこ以上に社会的地位や発言力を持っているのである(これが本当になぜかわからない)。そして世間的に規制派やフェミニストがお馬鹿さんたちだとは思われていない……ここから世の中がどういう意識でいるかがわかってしまうのだが。

 ここからは、個人的な体験談の話をする。
 数年前にもこのブログで書いたことだが、普段からエロコンテンツに関心を持たない、むしろそういうものを拒否している人ほど「エロセンサー」が滅茶苦茶に強い。何でもない日常的な言葉や現象からも、「これってそういうやつでしょ! 信じられない! 不潔!」と興奮するのだ。
 いや、そんなこと思いもしなかったし、いったいどうやったらそう思えるのだ……? と私なんかは思ってしまう。なにしろ「AV機器」という単語すら卑猥だと避けるのだから。むしろエロを忌避している人こそエロセンサーが滅茶苦茶に強い……と私の体験からは言える。
 個人的な体験から言って、エロから遠い、禁欲的な人ほど逆にエロに対する猛烈な関心と欲求を隠し持っている。困ったことに、隠し持っていることに、本人だけが気付いていない。外から見れば明らかすぎるくらい明らかなのに。
 これまで挙げてきた例を見ても同じだ。公に出ているエロい言葉や表現が許せない! ……でもほとんどが勘違いの産物だ。発言者がそう見ようとしたからそう見えただけだ。それは逆に、発言者がそういう願望を持って見ていた……ということを明らかにしてしまっている。ただし本人だけが気付いていない。こういうところでも、エロは人間の本質を暴露する性質を持っている、と言えてしまえる。
 規制派の人々も、外ではなく自分の内側に目を向けて、自分がなぜそう思ったのか……少しは考えて欲しいものだ。

 少し手探りな話をする。
 エロ規制派の発言を深掘りしていくと、ある一つのトンデモない偏見が含まれていることに気付く。それは――

 女性は性的欲求を抱くことがない。

 という認識である。
 エロコンテンツはけしからん。なぜなら「男性が女性を消費する」から。だから「女性差別の産物」なので、許せない……。
 性的欲求を抱くのは男性だけであって、女性は男性に求められ、その時だけやむなく門戸を開くのだ……。
 私はこの考え方自体が大いなる差別のように感じられる。これは女性が性的に求めてはいけない、と言っているようなものだからだ。
 神聖ローマ帝国フリードリッヒ1世は1158年に売春統制令を発布した。これは売春婦だけではなく、買った男も罰する法律だった。こうした法律はヨーロッパ社会において、歴史上何度も発令された。1584年には神学者ベネディクティは夫婦間セックスは子供を作るためにあるのであって、快楽を得てはならないとした。快楽を得るようなセックスをするのは罪である……と。フェミニストたちの思考は、この時代から変わってない。

 手探りな話はここからだ。
 大塚英志は『漫画ブリッコ』の編集長を務めていたわけだが、その当時を振り返って、「読者の半数弱がおそらくは10代の少女であり、執筆者もまた半数が彼女たちよりわずかに年長の女性たちであった」と書いている
(『おたくの精神史 1980年代論』P43)
 ただし、これは編集長としての肌感覚の話であって、肝心のデータがない。
 80年代、90年代という時代の中でBL文化とやおい文化が開拓され、その時代を乗り越えて女性がエロの生産者になり、存在を示していくようになる。エロ漫画の作者に女性が増えたし、AV産業も昔は「借金を背負って仕方なく……」という話が多かったが、今ではむしろ望んで出演する女性が増えた。エロは「自己実現の場」に変わったのだ。
 エロ漫画の作者に女性が増えた、という話は本書『エロマンガ・スタディーズ』にも書かれていることだし、事実だろう。しかし私たちからは具体的にどれくらいか……という数字ベースのデータがないからわからない。なにしろ漫画家の大半はペンネームだ。作風だけで女性か男性かなんて判断が付かない。
(絵柄だけを見て「男性作家」だと思ったら女性、「女性作家」だと思ったら男性……そんな例は山ほどある。絵柄だけでは判別できない)
 一方、読者にも女性は増えたとされる。紙の書籍だった頃は、女性はエロメディアに触れることすらできなかったが、今はネットの時代だ。エロに接触する機会が圧倒的に増えた。女性がネットのエロメディアに気付かず、触れていないなんてことがあるはずがない。
   が、データがない。おそらく増えただろう。しかしどこを探ってもデータが出てこないので、断定的に「こうである!!」とは言えない。「と思う」「だろう」という手探りな言い方しかできない。
 FANZAはこの件に関する詳しいデータを絶対に持っているはずだ。男女比率だけではなく、年齢比率、どういった人がどういった傾向の作品を見ているのか……そういうビッグデータ的なものを持っているはずだ。
 しかし公開してくれない。それもそうだ。そのデータは非常にセンシティブな産物で、うっかり公開されると、その時点で会社の信用に関わってしまう。大多数の人にとって、公開を望まないものだ。
 もしも公開してくれたら、そこから考え、語ることは一杯ある。市場調査的な意義ではなく、文化的な意義も高い。女性がどの程度エロコンテンツを求め、消費しているか、という具体的な証拠にもなる。しかしそのデータはこれからも公開されないだろうから、私たちは手探りで「おそらく~だろう」という良い方をし続けなければならない。

 とあるウォーシミュレーションゲームがある。まあ、ぼかさずに言うと『ファイアーエムブレム』のことだが。このシリーズは、いかにも男性的なイメージがある。硬派なゲーム性で、魅力的な美少女キャラクターが一杯だ。
 だが『週刊ファミ通』No1611号によるアンケートを見ると、投票総数3492人中、男性1564人、女性1928人と、女性比率のほうが多かった。
 「男性向けコンテンツ」だと思っていたら、実は女性の方が多数派だった。ゲームなんて、昔も今も「男の子のもの」というイメージが根強くあるが、すでに男女比率は半々といったところだ。「男性向け」と思いきや女性の方が多い……そういうコンテンツは探せばいくらでも出てくるだろう。
 すると逆もしかりだ。「女性向けコンテンツ」だと思ってよくよく調査すると、男性の方が多数だった……。そういう例は探せばいくらでも出てくるだろう。

 ここで話を繋げるのも強引だが、エロコンテンツだって女性消費者が結構な数で増えているはずだ。私の想像で話をするが、男女比が半々になっていたとしても不思議ではない。「女性は性欲を抱くことはない」……そんなわけはない。

 ごく最近の話。
 9月11日のニュースで、「子供向け交通ルール啓発動画」が削除された。登場する女の子キャラクターが巨乳で、しかもスカートが短いという理由で、全国フェミニスト議員連盟が苦情を出したからだ。
(Vチューバー「戸定梨香」交通ルール動画がフェミニスト団体の抗議で削除 管理者は「逆に女性蔑視」と反論)
 ところが制作者として出てきたのは女性。フェミニストたちは、「こういうキャラクターは男性が描いて、男性が消費しているのだろう」と思い込んで意見を出したに違いない。ところがキャラクターを作っていたのは女性だ。
(フェミニスト達はこの事件の直後、自分の発言をなかったことにしようとした。もしかすると、それは「作り手が女性だった」ことに慌てたからではないだろうか)

 萌キャラクターのような女の子は、男性が創造し、男性が消費する性差別的な産物だ。……と今も昔もフェミニストたちは考えている。
 今はとっくに違う局面に入っている。女性が可愛いキャラクターを創造し、女性が消費する時代だ。すでに書いたように、子供が曇りなき眼でキャラクターを審査した場合、一番可愛いとされるのは萌え美少女だ。アイドルが女の子たちの憧れであるように、その萌キャラクターが女の子の憧れになっていたとしても不思議ではない。不思議ではないどころか、今のアイドルアニメに女の子ファンは非常に多い。『アイドルマスター』や『ラブライブ!』のお客さんがみんな男性だ……そう思っている人は相当に世間知らずだ。
(話を遡ると、『漫画ブリッコ』でエッチな少女漫画スタイルの美少女キャラクターを描いていたのは、女性作家達だ)
 そこからさらに進んで、女の子が女の子に性的欲望を抱く……という時代まで来ている。女性がエロコンテンツを消費しているのは間違いない。では、ジャンルはやおいだろうか? BLだろうか? いやそうじゃない。女性エロスを女性が消費している。この関係性の中で男はとっくに用済みなのだ(男の娘ならまだ介入の余地がある。なぜなら可愛いからだ)。なぜなら男の理想は、戦後的マッチョイズムから今日にかけて、一切刷新できなかった古くさくてダサい産物だからだ。より先鋭化し、エロティックな魅力を放ち続けるのは女性の方だ。だから女性が女性を性的に求め、消費している。
(『ファイアーエムブレム』に女性プレイヤーが多くなった理由に、「イケメンキャラが一杯だから」という理由の他に、女性も女性キャラクター目当てにプレイしている可能性がある)
 ……という話も、「どうやらそういう流れがあるらしい」という手探りな話だ。データを参照した上で語っているわけではないから、どれくらいの人数規模・割合に達しているかわからない。ただ私の肌感覚では、これも「相当に多いのではないか」と見ている。
 フェミニストだけが未だに、これからも「女性が男性から性的に消費されているから性差別である」というカビくらい論理を振り回し続けるのだ。

 表現規制派やフェミニストたちの発言から見えてくるのは「病気」である。すでに書いてきたように、禁欲的な性格の人ほど、エロセンサーが異常に強い。それは内面的に性的願望を隠し持っていることに証拠でもある。しかしそれを包み隠し、避けているからこそ、病的に性的コンテンツ、あるいは女性が表舞台に立っているのを叩いて潰そうとする。
 女性の敵は女性である。ファミニスト達が女性の社会進出を妨害している。そのことにいつ気付くだろうか。
 表現規制派やフェミニストたちに必要なのは、性表現が見えなくなった「凪」の世界ではない。もしもそんな世界に到達したところで、彼女たちの気持ちは収まらないだろう。自分たちが抱いている欲求の正体に気付かず、常に何かしらに苛立ち続けるだろう。なぜなら大元になっている「病気」の根が解消されていないからだ。(神学者ベネディクティの社会観を再現するかも知れない。もしそういう社会が再現されるとしたら、男性の手ではなく女性に手によるものだ)
 表現規制派やフェミニストたちに必要なのは、カウンセリングだ。周りから見れば、この人たちが何かしら精神的に患っているものがあるのは見れば明らかだ。あとは本人たちで、自分たちの深層心理に少しでも気付けば……。

 性は繊細な心理のひだを明らかにする。だから語る時にも表現するときにも慎重にならざるを得ない。私はこういう話をここで書いているが、公の場であけすけに語るべきではないと考えている。なぜなら人間の本質に触れるからだ。私だって私が内面的に持っている性的願望を公に下にさらされたいとは全く思わない。むしろそんなことをされたら訴訟ものだ。それくらいの繊細さがあるものだから、慎重に語る必要があると感じている。当然ながら、エロ漫画をもっと公の場に……なんてことも思わない。今まで通り、人の眼を避けてこっそり見るべきだ。それは人が秘密にしたい内面的な独り言だからだ。
 私が考える性とは、人間の本質に繋がる重要パーツだ。人間は性的な面で成熟し、充足を得て、さらには社会的に認知されて、その個人としてのアイデンティティが完結する。社会的性が認知されて……というのは、例えば性同一障害の人が、本来の性に適した格好をすることを社会的に認めてほしい……という欲求である。それが達成されないうちは、いつまで経っても何かしら充足を得ることはない、どこか半人前という感じ。「自分が自分ではない」という葛藤を抱え続けることになる。
 性的存在として認めてもらいたい……この欲求は今のAV女優達にもある動機だ。自分の存在を社会の中で認めてもらいたい。それは性の部分でも……いや、人によっては性の部分こそが重要なのだ。だから生産業という場を求めてたのだ。
 それを許さないというのがフェミニストだ。フェミニストは今までもこれからも、性的な人格というテーマを見いだすことはない。ないから、フェミニストを続けることになる。フェミニストはこれからも永遠に、「男性社会に抑圧される哀れな自分(女性)」というイメージで社会に向かい、存在するはずのない敵に向かって攻撃をし続ける。なぜならフェミニスト達が、社会的な性に葛藤を感じている人々だからだ。
 しかし性に関しては社会的にも語り尽くされているとはいえないし、語ってはいけないみたいに考えられているところがある。だからこそ、性に関する意識は深められないままでいる。
 性に関する話をすると、大抵は「性的欲求が沸き起こったらその都度解消すればいい」……くらいにしか考えられていない。それこそ、性に関する洞察が深められていない証拠だ。一面ではそういう性質があるのは確かだが、もう一方の面、性的な存在として認知され成熟しているという感覚がなければ、いつまで経っても性に関する欲動が満足されることはない。
 誰もが性に関するイデア的イメージを持っている。人はどうして奇妙な性癖を抱くのかというと、イデア的イメージを追いかけているからだ。そのイメージを達成されない限り、イメージは解消されず繰り返し沸き起こってくるのだ。

 私は前から語っているように、裏アカウントを作り、こっそりエロ小説を書いている(これがどの小説よりも確実に売れている)。自分で書いてみてわかるが、作中の人物、シチュエーション、全てが私の内面的な欲求の告白になっている。普通の物語小説を書くときには、様々な資料に目を通して考証を立てて、設定や伏線を緻密に作り込んで……というプロセスを経る。エロ小説を書くときにはその全てを捨て去る。全てが私の内面的告白になる。
 でもそれは私の小説特有の現象ではない。世の中にあるほとんどのエロ漫画エロ小説は告白なのだ。みんなエロコンテンツの中でこそ、自身の本心を語っている。
 内面的告白の産物だからこそ、猛烈に恥ずかしい。恥ずかしいから実際どんな作品を書いたのか、語らないでいる。しかし一方で公開してしまいたいという願望も持っている――この願望も、小説の中で告白しているものだ。
 こういう自分の体験からも、性の繊細さが見てわかる。軽々に他人の性癖を晒して公開するものじゃない。なぜなら、その人間の内面的本質に触れるからだ。人間の本質を曝け出すからこそ、慎重に語り、それを隠すべきではない。

 2020年代。エロ漫画の現在はどのような局面に入っているのだろう。
 エロ漫画の業界にも色々あるけれども――相変わらずエロ漫画は孵卵器であり培養器だ。美少女絵描きは今でも商業誌より先にエロ漫画でデビューする。そこで美少女絵描きとして技術を極め、やがて商業誌へと移っていく。エロ雑誌が美少女絵描きにとっての登竜門状態にすらなっている。商業誌でヒットしたキャラクターや表現は、エロ漫画世界で徹底的に遊ばれ、先鋭化し、その後商業誌へ返還されていく。この相乗効果で、表現は日々刷新し続けている。
 作風もなんでもござれだ。幼年漫画ふう、アニメ調、劇画調もまだ消滅せず残っている。ゴリゴリ劇画調もあれば、その系譜を受け継ぐスタイルもある。
 例えば、私も個人的に好きな作家であるMARUTA(私はこの人の作品をほぼ全て持っている)。

MARUTA 少女は色づく百合に恋をする カット2

 画像を見てわかるように、劇画調スタイルとアニメ調スタイル、萌えアニメスタイル全て取り込んで、両立している。全部のいいところ取りをして、うまいところで成立している。

 さて、次は東山翔だ。内容が内容だけに、彼の作品はAmazonではほぼ取り扱われていない(ということに、最近気付いた)。東山翔のスタイルは、大友克洋や藤原カムイが継承し開拓したバンドデシネのスタイルを受け継ぎ、ロリエロ漫画として純粋培養させている。

東山翔 ガールラブダイアリー カット

 エロ漫画といえばなんでもかんでも「萌え美少女」のスタイルばかりではない。ありとあらゆる描画スタイルがある。絵が下手な人もいれば、滅茶苦茶に上手い人もいる。劇画スタイルを引き継いでいる人もいるし、バンドデシネの継承者もその中にいる。そのどちらでもない、新しい描画スタイルを開拓している人もいる。この界隈でルールがあるとしたら1つだけ、エロいことだけだ。それこそなんでもありの孵卵器であり培養器だ。だからこそエロ漫画は面白いのであり、ここからいくらでも新しい表現が生まれ得る可能性があるのだ。

 最後に少し余談。
 思うに、萌え美少女は新体操やフィギュアスケートの「規定技」に似ている。萌え美少女はあらゆる素材を様式化し、並列する性質を持っている。リボン、フリル、レース、チュールに猫耳……。こうした表現をいかに様式化したうえでスタイリッシュにまとめ上げられるか――ここに絵師としての資質が問われる。もちろん一人のキャラに積載量というものがあるので、二郎系ラーメンのように全乗せはできない。
 萌え美少女は抽象度の話をすると、常にやや高めのところにある。なぜかというと、あらゆるモチーフを象徴化して並列するのに、抽象度を高めに設定しておかないと、成立し得ないからだ。モチーフの悪魔合体実験場として、ある程度抽象度を高めにしておかないと、自由に発想することができない。
 なぜ萌え絵美少女が今以上にリアリティの方向へ進まないのか、技術的限界にぶつかっているように感じられるのか、その理由が抽象度の問題であろう。

 さて、エロ漫画について長く語ってきたが、果たしてどれくらいが性に関して意識を深められただろうか。
 というか最後まで読んだという人はどれだけいるのやら……?
 とにかくも、エロ漫画について考える切っ掛けを与えてくれる本書『エロマンガ・スタディーズ』はかなりの良書なので、是非お読みいただきたい。

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