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映画感想 ヘレディタリー/継承

!ネタバレあり!

 映画雑誌を読んでいると、『ヘレディタリー』という作品はわりとよく見かける。でもどんな映画なのか知らない……と思っていたところにNetflixにあるじゃーないか。そういうわけで視聴。
 で、見てみると……ホラー映画といえばホラー映画なのだけど、かなり特殊なことをやっている作品だった。どう特殊なのかというと……これがうまく表現しづらい。例えば「○○みたいな作品」という紹介の仕方がやりづらい。ホラーっぽい文法や文脈の中で語られているのは間違いないが、でも私の知っているいわゆるなホラーと作り方が違う。これもやっぱり「どう違いのか」が説明しづらい。ホラー的な文脈を使いつつ、これまでのホラーとは違う作品を作っている……くらいの言い方しかできない。
 という話をしていてもわかりづらいので、今回は最後までネタバレありで感想文を書いていこうと思う。結末まで全部書いてしまわないと、うまく説明できそうにないからだ。

 さて映画の冒頭。ミニチュアを映している場面から始まる。このミニチュアの画を映している場面が長い。その最後に、カメラがピーターの部屋を模したミニチュアの中へ入っていき、そのまま現実のピーターの部屋の場面へと入っていく。
 このシーンが示唆しているのは、何者かが、人知を超えたものが映画の世界を監視してることを示している。それこそ、その者にとっては人間の世界がミニチュアにしか見えない……という存在。そういう存在、まず考えつくのは神様。次に悪魔。映画の結末まで見ているとわかるが、正体は悪魔。
 その悪魔が、ピーターの部屋を覗き込んでいるところからお話がスタートする。ここからすでに結末が示唆されている。

 ピーター一家の住居だが、立地が特殊。周囲は白樺の森になっていて、家は外観こそは普通だが、家に入ると広くはないが瀟洒な造り。壁には褐色の羽目板が貼られて、玄関からキッチン、リビングまでが、少し変則的ながらひと連なりで繋がっている。おかげで全体が開けた空間となり、解放感がある。置いてある家具は、みんなアンティーク。棚には漏れなく猫足。
(少し不思議なのがチャーリーの部屋。階段が5段ほど上がったところに作られている。廊下から見ると、あの部屋とベッドが祭壇のように見える……ように意図して設計されたように感じられる)
 西洋ホラーって、まず「お屋敷」なんだ。というのも、幽霊はお屋敷に現れるもの……という考え方があったから。たぶん、この考え方はイギリス発じゃないかと思われるけど。その文法に則った舞台として、こういうセットを作ってきている。
 かといって超大豪邸ではなく、成功した人があり得るスケールのもので描かれている。お父さんのスティーブはおそらく何かしらの研究家だと思われるし、お母さんのアニーはミニチュア職人。2人ともそれなりに脚光を浴びている人だから、あり得るスケールの家だ。

 アニーのミニチュアだが、これが面白いもので、ミニチュアが一家の過去に起きたことの「回想」あるいは「解説」になっている。あの一家の過去になにがあったのか? これを解説する手法に台詞で説明したり、写真を入れたり……いろいろあると思うのだが、ミニチュアで説明する……というのは「その手があったか」と思わせてくれる。ミニチュアによってかなり具体的な描写が示されるのだが、本編とはっきり違う質感をそこで示せるし、くどくならない。するっと映画の中で示すことができる。これはうまい表現だ。
 最初に示したように、ミニチュアを見下ろす視点が、悪魔が見下ろしている視点にもなっている。悪魔達が人間を見下ろす時、というのは世界がミニチュアのように見える。これが最初のシーン、ラストシーンと2つのポイントで対応している。

 さて、お話だけど、ピーターは妹チャーリーを連れて友人達が集まるパーティに参加する。そこで、チャーリーはナッツ入りケーキを食べてしまう。チャーリーはナッツアレルギーなのだ。
 ピーターは呼吸困難に陥ったチャーリーを車に乗せて、病院への道を爆走していく。その最中で事故を起こしてしまった。チャーリーが死亡する。
 ピーターは錯乱状態に陥り、チャーリーの死体を乗せたまま帰宅し、車を家の前で放置。自分の部屋のベッドで横になる。が、眠れず朝を迎える。
 翌朝、チャーリーの死体を発見した両親はパニックに陥る……。

 これで、もともと不安定だった一家は一気に崩壊への道を進む。母と息子の関係は完全に崩壊し、母アニーの精神状態も怪しい状態に陥っていく……。

 ここまでが前半の30分。最初のフックとなる部分。

 精神的なダメージを負ったアニーは、グループカウンセラーを受けに行こうとするが、しかし娘の死と向き合えず、引き返そうとする。そこにアニーを呼び止めようとする女が現れる。アンだ。
 アンとアニーは交流を始めるのだが、間もなくアンは「降霊術」をアニーに教える。

 ここまでが1時間。映画のほぼ真ん中。映画の真ん中というのは、重要な出来事が起きるポイントの部分なので、ここが大事。実際、降霊術を教わり、「何者か」を家に呼び寄せてから、はっきり映画のトーンは不気味な方向へと転換していく。ではこのシーンでアニーが招き入れたものとはなんだったのか?

 この降霊術もたぶんイギリス発。私の手元の本によると、1762年2月イギリスのコックレーンにて「降霊術」が行われたとある。ただし、この降霊術によって幽霊が姿を現すことはなく、ノック音の回数でYES/NOという自分の意思を示すことだけだった。だがそれで、幽霊は自身でファニー・ライネス殺害を告発したのである。
 これを切っ掛けに降霊術はイギリス中に拡散され、幽霊がノック音の回数で意思を示す……という方法は様式美となった。
 映画『ヘレディタリー』ではコップに変わっているが、意思の表示はYES/NOだけ。こうしたところで伝統ある幽霊物語の文脈に則っていると言える。

 ただし、この時にチャーリーの霊を家の中に招き入れたことによって、様々な怪奇現象が起きるようになり、最後には悲劇が訪れてしまう……。
 どうしてこういうことになったのか?

 ここからがネタバレになっていくが、まずアニーの母親、映画の始まりで死亡するお婆ちゃんのエレンだが、悪魔召喚によってペイモンを体内に宿していた。さらにエレンの周囲にはペイモンを崇めるカルト教団がおり、エレンはその教祖のような存在であった。
 その証拠となるのが、棺にいたエレンの首飾り。作中、何度か登場する魔方陣の形と一致する。エレンがカルト教団の王であったことの証である。

 映画はしばしアニーの視点で進行していくのだが、アニーの目線ではエレンは乖離性同一障害だった……と語られる。健常人であったアニーの目線からすると、人間と悪魔を宿す母エレンは乖離性同一障害として認識されていた。アニーの父は精神分裂症で餓死、兄は被害妄想で自殺した……と語られる。みんな精神に異常を抱えていた……というか「自分ではない何者かを宿している」と認識していた。それこそ悪魔が宿っていたからだ……と解釈できる。
 アニーがエレンの遺品を調べているシーン。「どうか許して。多くを言えなかった」と書かれた手紙が出てくる。ここでエレンには悪魔の側面と、娘を案ずる人間の側面の両方を持っていたと推測できる。
 実はアニー自身も精神の問題を抱えていて、時々夢遊病を発症させることがあった。おそらくアニーも断片的にも悪魔の意思が宿っていた……というのが私の読み。
(もしかするとエレン一族が精神異常を抱えやすかった背景に、それが「悪魔に取り憑かれやすい気質」だったから、ということもあったのかも知れない。エレン一族が温存されていったのは、カルト教団が生け贄に都合が良かったからかも……。トランス状態に陥りやすい人が巫女を務めたように)

 アニーは間もなくスティーブと結婚するが、その子育てにエレンは干渉しないよう誓いを立てさせていた。そのおかげで、ピーターはごく普通の少年として育つ。
 しかしチャーリー出産時にはエレンが干渉するようになった。おそらくこの時に、エレンは何かしらの儀式を執り行い、チャーリーの体内に何かを宿らせたのだろう。
 だが悪魔は男児の体内でこそ完全体としての力が発揮できるものらしい。だからチャーリーはごく幼い頃から「男の子になれ」とエレンから暗示かけを受けていた。実はアニーも幼少期はエレンから「男の子になれ」と暗示を受けていた。アニーも誕生時に何かしらの儀式を受けて、その名残が夢遊病という形で現れていた可能性がある。
 チャーリーの体内に悪魔が宿っていた、という根拠がチャーリーの奇行。死んだ鳩の頭部をハサミで切り取っている。これは後に首を生け贄として捧げている場面への伏線となっている。チャーリーは小さなスケールで悪魔召喚の儀式を行おうとしていたのだ。
 チャーリーに悪魔が宿っていたもう一つの根拠が、降霊術を行った後に起きる怪奇現象の数々。アニーは降霊術によって確かにチャーリーを呼び寄せたのだが、それはチャーリーに宿っていた悪魔もセットだった。
 チャーリーがもともと悪魔の宿った少女だった……ということは、口の中で「コッ」と鳴らす表現からも推測できる。チャーリー死亡後も、一家の周囲で「コッ」の音が鳴り続ける。悪魔の魂がずっと一家の周囲にまとわりついていた……ということの暗示だ。それが降霊術によって、もっと決定的になったのだ。

 間もなくアンが実はカルト教団の1人で、しかもその中でどうやら地位の高い人間だったことがわかってくる。アニーの玄関先にはエレンが縫ったマットが置いてあったのはこのため。アンがアニーに降霊術の手法を教えたのは、親切心ではなく、肉体を失って亡霊状態になった悪魔をあの家の中に入れることだった。

 アニーがエレンの遺品を探っている場面。本の挿絵が出てくるが、ここから推測できること……。
 それは悪魔への捧げ物は首3つ。
 チャーリーは動物の首を切断して蒐集していたが、どうやら動物の首では駄目だったらしい。それで、エレンの死とともに、人間の首を切断して改めて悪魔召喚を行う……という計画がカルト教団内で持ち上がった。
 それが推測できるポイントは、ピーターがパーティへ向かうシーン、電柱に魔方陣が描かれている。あの電柱が、まさにチャーリーが事故死するポイントだ。あれは事故ではなく、計画的なものだった。あそこから悪魔召喚をはじめようという計画が始まった。
 その後、エレンの首が落とされ、続いてアニーの首が落とされる。
 映画前半のほう、チャーリーが1人でいる場面。奇妙な光が部屋の中を横切っていく。あれが悪魔がいますよーというサイン。
 映画の後半の方、ピーターの周囲に同じ光が現れるようになる。ピーターの周囲に悪魔がやってきた……ということを示す。
 それで、悪魔はピーターに取り憑き、まずニヤリと笑ってみせる。「お前の体内にいますよ」のサインだ。次に、ピーターの体を痛めつける。おそらく死亡寸前までダメージを与えないと、入っていけないからだろう。ある学校の場面でアンが出てきて「その体から出ていけ!」と罵ってくる。しかしピーターの理性があるうちは悪魔が入っていけない。そこでピーターの理性が消えてなくなるほどに精神的、肉体的ダメージを与える必要があった。
 おそらく、ピーター自身による自傷行為によって消耗させる必要があったんじゃないか……と考える。肉体的ダメージを与えるなら第三者がよってたかってタコ殴りをすればいいが、そうはしなかったのは、「自傷行為」である必要があったからだろう。
 これは最終的に、ピーターが屋根裏部屋から飛び降りてしまうシーンで実現してしまう。
 映画後半の展開でいうと、アニーもまた悪魔に体を乗っ取られてしまう。その直前、アニーは夫の焼死を目の当たりにして精神が完全に崩壊。その瞬間、パッと表情が変わる。あそこで悪魔に乗っ取られたのだ。

 こうして、悪魔召喚は完了し、ピーターの体内にペイモンが宿った。

 このブログでたびたび紹介している話だが、「神は普通死ぬ」もの。『金枝編』によれば、かつての宗教観では神は寿命とともに死んでしまう。その神を体内に宿した「現人神」と呼ばれる人が老いて死ぬと、神が影響を与える大地も同時に衰弱すると考えられていた。人間が神の魂を宿したまま死ぬと、大地も衰弱すると考えられていた。だから司祭は現人神が健康なうちにあえて殺し、次なる若い現人神候補に魂を移す。こうすることで神の魂は保たれ、その神が影響をもたらす大地も健康な状態を保てると考えた。
 後にキリスト教が世界中に拡散され、「神は死なないもの」と世界的に認識が変わっていった。だがキリスト教の神は実際には異端の異端で、多くの宗教、民族における神は死ぬものだった。日本の神だって寿命が来たら死ぬ。
 『ヘレディタリー』はこの思想を、非常に禍々しいやり方で再現して見せている。まず老いたエレンの体内に宿っていた悪魔がチャーリーの体内に移った。エレンはチャーリーを自分の乳で育てようとした。悪魔を宿したチャーリーこそ、エレンにとっての我が子だったからだ。
 しかしチャーリーは女の子だったから、悪魔を宿す身として不完全だった。そこからカルト教団は、健康な男児であるピーターの体内に悪魔を移す計画を立てる。その方法は、まさに悪魔を宿していた「前任者」を殺し、生け贄を捧げ、魂を移す……という古典的なやり方だった。
 エレン→アニー→ピーターの一族は今回だけではなく、長きにわたってこの教義を受け継ぎ、悪魔を宿してきた一族なのだろう。一族といえば「血縁」こそがもっとも重要で、この作品でもエレン一族という血族が重要視されていたが、周囲に集まってくる人々にとって大事なのはその血族が悪魔を宿すこと。悪魔を宿していない血縁者は崇拝の対象にならない。

 『ヘレディタリー』という映画への感想に戻るが、やっぱりかなり不思議なことをしている。まずいって、ぜんぜん恐くなかった。ホラー的なケレン……観客を脅かしてやろうとか、こけおどし的な見せ方がぜんぜんない。ホラー映画にありがちなことだが、前後の文脈とは関係ないところで、観客を脅かすことを目的としているだけのシーンが入りがちだ。そういう見せ方をほとんどしていない。静寂の中で「コッ」という声を聞かせるのはホラー的な見せ方だが、そういったシーンも全体の中でも2シーンか3シーンくらいだった。それも言うほど恐くもない。
 どちらかといえば「物語」のために物語を進行させている……という感じだった。ホラー映画というより、純然たる「物語映画」という感じだった。ただその読み方が非常に難しく、色んなところで点のように伏線を散らし、初見ではその全容がわからないように作られている。これがいわゆるなエンタメのホラー映画と違うところだ。
 確かに色んなところでホラー映画の文脈が使われている。お屋敷と降霊術なんてものは、西洋ホラーの基本文法だ。後半にはグロテスクな場面も多い。でも実はホラーとして見せようという場面は少なく、やっぱり物語。それも忌まわしき習慣を持った一家の、ある複雑な一時を切り取っただけ。悪魔召喚を伝統としてしまったとある一家の物語……「家族物語」を見てきた、という感じだった。ただその習慣がひたすらおぞましい……というだけの。

 『ヘレディタリー』は世界の映画祭で「ホラーの常識を覆した最高傑作」「現代ホラーの頂点」と大絶賛されることとなった。
 うーん、そんなにか……?
 物語そのものにはなかなか感心するとことはあったが、ジャンルホラーとしてはどうなんだろうな……というのが私の感想。ホラーなのにホラーっぽく感じない。それこそ「新しい」ということなのかも知れないが……。私には「ヘンな映画を見たなぁ」という感想だった。
 この作品は文化的な文脈をもっときちんと読まないと、十全に楽しめないタイプの作品なのかも知れない。西洋におけるこういったカルト教団の忌まわしき習慣がどのように映るのか……。日本で考えてもおぞましいといえばおぞましいが、おそらくは西洋ではもっと生理的嫌悪感のあるおぞましさだったんじゃないだろうか。
 私はこういう文脈的なところまで掘り下げて読み取ることができなかった。私もまだまだ教養が足りない。


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