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『翠』 28

「なんで俺の言った通りにできないんだよ!」

 そう叫んだ父の怒号が地鳴りのように家中にこだます。それと同時に、食器類の割れる甲高い音が、二階の自室にまで響き渡った。

 驚いて一階に降りてみると、リビングでは父が仁王立ちで立っており、その父から身を守るようにして、ソファーの陰に身を隠している翠さんの姿があった。恐る恐るリビングのほうへと足を向けると、投げつけられた食器の破片が、そこら中の床に散らばっており、さすがに裸足で歩くのは危険すぎる。

 その場でスリッパを深く履き直し、物陰に隠れ中の様子を伺っていると、

「おい! なんか言ったらどうだよ!」

 と、父が怯える翠さんにに対して、必要に詰め寄っている。

「お前は謝ることもできないのか?」

 なにも答えようとしない彼女にイラ立った父が、ソファー薙ぎ倒しそうな勢いで迫り、罵声を浴びせる。

 彼女の髪に掴みかかろうとするが、それを払いのけるように、翠さんが後方へと後ずさりする。

「おい、逃げんなよ!」

 それでも父は怒りが収まらないようで、尚も逃げる彼女にたいして、さらに詰め寄っていく。

 父が彼女の着ている服に掴みかかり、力ずくで引き寄せようとした瞬間、

「ちょ、ちょっと何してんの? ふたりとも!」

 思わず、口を挟んだ。

 父の耳にはわたしの声など届いていないのか、それでも構わず、翠さんのからだを引き摺ろうとする。

「ごめんなさい! ごめんなさい!」

 さすがに命の危機を感じたのか、条件反射的に翠さんが割れた食器の散らばった床に頭を擦りつけ、父の足に縋るように土下座をしはじめる。

「わたしが悪いんです! ほんとにごめんなさい! 許してください!」

 父が翠さんの頭を踏みつけようとしたそのとき、

「も、もうやめてよ! お父さん!」

 とっさに、そう声を張り上げた。

 やっと父の耳のわたしの声が届いたのか、ピタッと頭を踏みつける寸前で、父の動きが止まる。

「はぁ? 誰にものを言ってるんだよ! お前は! てめぇーには、関係ないだろ! 部外者は口出すな!」

 そう父に一喝され、その迫力に気圧される。

 わたしがそのまま押し黙っていると、

「いいの、わたしが悪いから……」と、蚊の鳴くような声で翠さんが割って入る。

 逆にそれが父の気に障ったのか、「はぁ?」と、イラ立ちを隠しきれずに、その矛先を翠さんへと向ける。

「悪いと思ってんだったら、なんでさっさと帰って来ないんだよ! お前自分で言ったよな? 夕方までには帰りますって? あ? なんで自分で言ったことも、お前は守れないんだよ! それで俺の夕食は作れてませんでした? は? お前は、ただ、お友だちと遊んでただけだよな? で? 俺は今まで何してたましたか? え? 何をしてましたかって訊いていますけど!」

 そう畳みかけるように問い詰められ、翠さんは言い返すこともできず、「ごめんなさい……。ごめんさい……」と、ただ、謝罪の言葉を繰り返している。

「あ? なんか言ったらどうなんだよ! 疲れて帰ってきた旦那様に、お前は粗末なメシでも食わそうと思ってたのか? なにが、今日友だちと遊んでて、夕食作れなかったのごめんなさいだよ! で? 俺に何を食えって? 昨日の残り物か? 冷凍食品でもチンして食えってか? それともなにか? 疲れたからだにムチ打って、今から外で外食でもでもしてきたらってか? お前どういう神経してんの? お前さ自分の立場、ちゃんとわきまえてますか? 誰に食わせてもらってると思ってるわけ? 言い方は悪いけど、この際、ハッキリ言わせてもらうわ! お前は俺から養ってもらってるだけの、ただの家政婦と一緒なの! 勘違いすんなよ! 玉の輿で嫁いで来たからって、お前はセレブでもなんでもないからな! わかったら、今すぐ俺のメシを作れ!」

 そう命令口調で恫喝され、彼女が動けずにいると、

「おい! 聞こえてないんですか? さっさとメシ作れって言ってんの!」と、さらに追い打ちをかける。

 ヨタヨタと立ち上がりキッチンへ向かおうとする彼女を、今にも殺人でも犯しそうな目でで睨みつける。

 当時のわたしにとって、そのときの父の表情は今でも忘れられず、あまりにも衝撃的な出来事だった。もちろん、そんな父に逆らうことなどできるわけもなく、その光景を傍観していることしかできなかった。父から監視されながら、料理を作る翠さんの姿が、気の毒でしかたなかった。なにもできずに傍観しているだけの自分の無力さが、ただただ、情けなくて惨めだった。

 父があのようになったのは、翠さんが家に来てしばらくしてからのことだった。母とは違い腰が低く物腰の柔らかい翠さんは、父にとって恰好の的だった。父からの翠さんへの扱いは、酷くなる一方で、それに対し、翠さんは抵抗するわけもなく、ただ、父から罵声を浴びせられ、恫喝されるのを、ただじっと耐えていた。相手が何も言い返してこないことをいいことに、次第に父のDVはエスカレートしていき、家の中がますます荒れていった。

 最悪、暴力沙汰に発展することまではなかったが、アルコールが入ったときなんかは、とくに酷く、一度は、近所の人から警察を呼ばれたこともあった。そして、その噂は近所でも水面下に広まっており、父の耳に直接入ることはなくても、わたしが近所を歩いているときなんかに、「大丈夫? 陽菜ちゃん? 何かあったらいつでも、おばちゃんところに来ていいからね……」と、隣のご婦人から声をかけられることもあった。

 恐らく母がいたころは、母が自立していたこともあり、母という存在が良い意味で抑止力になっており、そういう父の暴力的な本来の姿が、ただ、隠されていただけのことだったのかもしれない。

 母というタガが外れ、家庭のなかで際だって、経済的に権力を握るようになってからは、そういう側面が一段と酷くなったように思える。

 父に言われるがまま料理に取りかかる翠さんが、

「えっと、お肉がいいですか? それとも、お魚がよろしいですか?」と、背後で腕組みをしながら仁王立ちになっている父に問いかける。

 だいぶお酒が入っているようで、「は? そんなもんお前が考えろよ!」と、その問いを冷たく一蹴する。

 それ以上、何も言えなくなり、そのまま彼女が黙り込んでしまう。その後ろ姿からでも、彼女が怯えているのは明らかだった。

 父から監視されながら、黙々と料理を作っている姿が、どうにも見ていられなくて、わたしは逃げるように、二階に上がると自分の部屋に閉じこもった。

 母親のもとに逃げるように外泊するようになったのもそのころからで、翠さんが被害にあっている姿を、父が暴れている姿を、見ないようにしていた。ふたりに関わらなくていいように、なるべく、この家に近づかないでいいように、友だちを逃げ場にしていた。

 目の前で荒れていく我が家の現状を無かったことにしたくて、自分の部屋に閉じこもるようになった。部屋の中でヘッドホンで耳を塞いで、できる限り不快な音が聞こえないようにしていた。

 とにかく、目の前の現実から目を背けたかった。

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