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つれづれつづり

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それぞれ、おのおの、つれづれにつづります。
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ふっと手を差し出すような

20代でそこそこ遊んだ自分は、30歳を前にして「ちゃんと」付き合いたいと思い出す。「ちゃんと」ってなんだ。当時、周りには結婚して子供が生まれる友人が増えてきた。自分にはそれと同じことはできないけれど、似たようなことはできる。家族みたいなものが欲しかったんだと思う。 その「ちゃんと」を追いかけて恋愛をする。当時はmixiというSNSが全盛期で、日記を見に行ったり、足跡を残したりしていた。そこからひょんな事で一人の人と付き合うことになる。きっかけが出会い系でもないし、ハッテン場

からむ手/からませる手

高校時代、先輩に恋をしていた自分は叶わないことがわかっていた。 だからそれを恋だと思わないようにしていたんだろう。 熱く重い恋でしかなかったのに。 大学に入ってローンを組んで買ったパソコンがゲイの道を大きく切り開いてくれたといっても過言ではない。とはいえ意気地のない自分は、ネット上でやり取りはするものの実際に会うのに躊躇していた。当時の自分に言ってやりたい。何ビビってんだ。その真面目な仮面をかぶった臆病さが自分を滅ぼすことになるぞ、と。 「初めての相手は好きな人としたい。

手をつなぎたい

子供の頃、憧れていた恋愛の形があった。 子供の頃だから恋愛って何だとかなんてちっともわからなかったし、世の中には色んな恋愛の形があることも知らなかったし、その色んな形の中でも少数派に自分が当てはまるなんて思ってもみてなかったから、自分はその恋愛の形に憧れた。 その恋愛の形は、テレビでよく見る老夫婦だった。 軽快なメロディに乗せて若い男女が歌いながら楽しく踊る。それを見ている老夫婦が、影響されてリズムに乗りながらお互いを見つめ合ったり、手を取り合って踊る。 チャーミグリーンと

31→1

平成31年。 あと少しで平成が終わり、新しい年号になるという。 その年号が「令和」だと知ったのはネットで配信されたニュースだった。 Twitterでもその話題が流れていき、何やら万葉集が関係しているという。平成おじさんの時のように、現官房長官が発表したシーンはTwitter大喜利のネタにされてタイムラインをたくさん通過していった。 平成を振り返ると、まだやっぱり鬱々とした感情が起こる。 そんな悪かったことだけじゃないはずなのに、いいことだってきっとあっただろうに。思春期か

そっちとあっち、そして、こっちすら。

「うつは治らない病気です」と言われた時はビックリした。ガッカリした。 当時はうつは病気だとやっと認知し始められた頃。 怠けてるだとか、気合が足りないとか、そんなイメージがまだあった。 自分でさえそう思っていたんだから仕方がない。 「うつは治らない」は正しいけれど、正しくはない。 完治という言葉はないけれど、寛解と言う言葉がある。 完全には治らずに、症状がおさまった状態にはなる。 何かのきっかけでまたなることもある。 そんな感じ。 寛解状態になった自分は、また働き始める。

くすぶる男/フリする男

1995年に大きな事件が起こる。 阪神大震災。 受験生だったので、阪神大震災は大きな事件だったのはわかるけれどその時はピンとこなかった。テレビはとぶくすりとガキの使いくらいしか見ていなかった。新聞や食事中のテレビで被害が大きいのを知ってびっくりする。そして、それで受験に支障が出る人の話を聞いたりして気の毒だと思った。せっかく頑張ってきたのに。 大学合格。 本当に良かった。これでなんとかメンツが保たれる。怒られなくてすむ。一言でたとえるなら「安堵」だった。(色々とすり込まれ

ピーク

自分の人生のピークはいつだっただろうか。 振り返れば自分の人生のピークは中学3年ごろだったかもしれない。 かといって、モテていたわけではなく。 お金がたくさんあったわけではなく。 じゃぁ、何か。それは、希望。 これからの人生に対して希望があった。 田舎の小童が中学に入って猛者達に揉まれる。 負けたらいけない、負けたら怒られる。 その一心で歯を食いしばって頑張った。 中学3年生になる頃には部活のおかげか体も大きくなって 満員電車でも自分の場所を踏ん張れるようになっていた。

64→1

平成元年。 新しい年号が「ヘイセイ」になったと知ったのは塾でだった。 2月上旬に中学受験を控える受験生で、冬期講習の真っ最中。 塾の先生が教えてくれたけど漢字を見たわけではないので 「ヘイセイ」が「平成」だと知ったのは夜に家に帰ってからだった。 正直なところ受験でそれどころではなかったので 「そうなんだ。」くらいにしか思わなかったけれど、 その前から感じている独特な雰囲気は察していたように思う。 少し前には国鉄がJRになって、海をまたぐ瀬戸大橋もできた。 もう少し前のつ

「好きな気持ち」がうまく言えない

そんな私が、人を好きになった。 仕事の後輩。出会いは4年前。後輩君と呼ぶことにする。 はじめは、チームもちがうし、その子の指導係も別にいたから直接かかわることはなかったけれど、 シンプルに、かわいい。 一生懸命なところとか、ノリのいいところとか、見た目も含めてかわいいのだ。 遠巻きに見守るくらいだったけれど、たくさんいる中の一人、きっと向こうにとっては直接かかわろうとは思わないだろうなーと思い、何も変わらない日々が続いた。 その年の末、まだオフィシャルに“忘年会”が開け

飲み会の魅力

 感染予防対策として、マスクの着用が当たり前となり、人と話すときも距離を取るなど、今までの当たり前な状況が一変した。私も、動揺が走り、大好きな飲み会ができないことを憂いた。そんな時、メディアでは「zoom飲み」が推奨され始めた。離れていても、複数人でつながることができるなんて。私は喜んだ。  もともとガジェットに強くない私が、慣れない手でネットをつなぎ、初めて友達の顔が表示された時には感動だった。その後、続々と参加してくる他のメンバー。いつもの顔ぶれが揃い、2時間はあっという

「人」を好きになるということ

人たらし。ぼくは、仲良くなった人によくそう言われる。 「恋愛観」というテーマでつづり始めるにあたり、まずは自分の人とのかかわりについて振り返ることから始めようと思う。 もともと人とかかわることが、特別得意ではなかった子ども時代。三兄弟の長男として生まれた自分は、いつも親戚を前に「長男として」「立派でなければ」というものを求められてた、というかそう勝手に感じるような子どもだった。そうでなければ、自分じゃない、という思いをもつようになっていたとも思う。 そこからだと思う。相

思い出すこと。忘れていくこと。

こんばんは、今なにしてるの? 隣に恋人はいる? それとも好きな人はいる? おじさんになったぼくは恋人も好きな人もいない。予定では恋人と二人で、幸せな日々を過ごしているはずだったんだけどね。 いつからか、人を好きになることができなくなっていたように思う。時々恋人はできるのだけど、なかなか続かない。気を使いすぎるのか、傷つくのが怖いのか、傷つけるのが怖いのか、向き合うことができないのか、本当は好きじゃなかったのか。。 それでもやっぱり生きていくためには、愛は必要だと思う。

禍記③

 人類が滅亡する時ってどういう状況だろうと考えたことがある。戦争だとか人口減少だとか食糧難だとかそういうことより地球の環境が大きく変化して、それに耐えられなくて絶滅してしまうんだろうなと思っていた。例えば地殻変動とか隕石の衝突とか、宇宙人の侵略とかでもいい。  しかしどうだろう。もし今回の出来事がもうちょっと感染力が強くて、もうちょっと発症が遅くて、もうちょっと致死率が高かったとしたら。あっという間に世界中に広がって、ある日突然発症して、みんな死んでいたかもしれない。  隕石

禍記②

 結局旅行を諦めた私はもうどうにでもなれ と思っていた。  私の職場は人が密集しており、対策らしい対策といえば当時は消毒用のアルコールが設置とドアを開けて換気をしておくくらいがせいぜいだ。働いている人の間でも「誰かかかったらもうアウトだよね」といつも言っていた。  もう休みになっちゃえばいいのに という話すらお決まりの冗談として使われていた。人命軽視、業務優先の我が職場。休みになることなど到底無理だろうと誰もが思っていた。  そんな職場も、さすがに罹患者が出れば動かざるを得