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砂に埋めた書架から

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書評(というよりは感想と紹介文)です。 過去の古い書評には〈追記〉のおまけが付きます。
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せやま南天『クリームイエローの海と春キャベツのある家』《砂に埋めた書架から》70冊目

 昨年行われた、note主催による「創作大賞2023」において、お仕事小説部門の朝日新聞出版賞を受賞したのが、せやま南天『クリームイエローの海と春キャベツのある家』だった。「創作大賞2023」は小説のみならず、エッセイ、漫画原作、イラスト、映像作品など多岐のジャンルにわたって広く作品を募る大規模なもので、およそ三ヶ月の募集期間で集まった作品の総数は、最終的に33,981という数だったようだ。この中で、「お仕事小説部門」の応募がどれくらいあったかは調べていないのだが、かなりの数

乗代雄介『それは誠』《砂に埋めた書架から》69冊目

 名前は文芸誌でよく拝見していたが、作品は読んだことがなかった。けれども野間文芸新人賞や三島賞の受賞、芥川賞にも複数回ノミネートされるなど、評判の良さは耳に入ってくるのでとても気になる作家だった。四回目の芥川賞候補作となった『それは誠』で、私はようやく乗代雄介氏の作品を体験したが、それは、この小説をどうしても読んでみたいと思う理由があったからだった。  昨年の七月、第169回芥川賞が発表されたちょうどその日、著者がデビュー前から長年書き続けているという個人ブログ『ミック・エ

M・オンダーチェ『イギリス人の患者』《砂に埋めた書架から》68冊目

 古書店で、この小説の最初の段落を読んだとき、私の目はムービーカメラとなって、冒頭に登場する「女」の動きを追っている気持ちになった。そして、最初の区切りとなる空行までの、冒頭から三つのパラグラフ、行数でいうとわずか九行で、私はこの小説の文章に完全につかまってしまったと思った。つまり、早くもこの小説に書かれた文章の虜になってしまったのである。  その九行の間に、小説らしい事件は何も起きていない。庭仕事をしていた女が、微妙な天候の変化を察知して屋敷に戻る様子が書かれているだけで

J・M・クッツェー『ポーランドの人』《砂に埋めた書架から》67冊目

 今年八十三歳になったJ・M・クッツェーの最新作『ポーランドの人』は、恋愛小説である。  クッツェーは南アフリカ出身の小説家で、批評家、翻訳家、数学者、言語学者など多才な顔を持っているが、やはり、小説家としての業績は華々しくて、代表的なものではフランスのフェミナ賞の外国小説部門を受賞したほか、イギリスの権威ある文学賞として知られているブッカー賞を二度受賞し、そのあと、二〇〇三年にはノーベル賞を受賞している。日本語に翻訳された本もたくさん出版されているようなので、名前をご存知

アンナ・カヴァン『氷』《砂に埋めた書架から》66冊目

 私がちくま文庫から出ているアンナ・カヴァンの『氷』を購入したのは今から五年前、二〇一八年の五月だった。どういう経緯でこの小説家とこの作品のことを知ったのかは忘れてしまったが、おそらくTwitterのタイムラインで見かけて興味を持ったのだと思う。私はいつもそうするように、本編より先に訳者のあとがきと川上弘美氏による解説を味わった。そして、本編の前に掲載されているイギリスのSF作家、クリストファー・プリースト氏による十ページほどの長さがある序文に目を通したあとは、一章の冒頭をわ

スティーヴン・ミルハウザー『バーナム博物館』《砂に埋めた書架から》65冊目

 ロマン派と称され、耽美的な作風で知られているアメリカの作家スティーヴン・ミルハウザーは1943年ニューヨーク生まれ。今回ご紹介する『バーナム博物館』の原著は1990年にアメリカで刊行され、日本では柴田元幸氏の翻訳で、1991年に福武書店(現在のベネッセ)から単行本が出版された。私が持っている文庫は1995年の発売である。  本書はミルハウザーの第二短編集にあたる。私はこの本で、初めてミルハウザーの作品に触れることになったが、細やかな描写と流麗な文体で、読みながら実際にこの

逢坂剛『百舌の叫ぶ夜』《砂に埋めた書架から》64冊目

 ハードボイルドとは何か。その定義を自分なりに考えているうちに迷子になってしまった。ミステリーやクライムノベルでなくても「ハードボイルド」は成立するのか。ハードボイルド風、ハードボイルド・タッチと呼ばれるとしたら、その作品のどのような要素を指すのか……。  暗闇の中で考えていても仕方がない。迷ったらハードボイルド小説を読むに限る。そう思って逢坂剛『百舌の叫ぶ夜』を読んでみた。この小説の登場人物たちの会話には特徴がある。皮肉屋で、相手の言葉を先回りし、気の利いたひと言でやり込

上田岳弘『ニムロッド』《砂に埋めた書架から》63冊目

 上田岳弘は現代の日本文学を牽引する若手作家の代表的な存在である。  2013年に新潮新人賞を獲ったあと、『私の恋人』(2015)で三島由紀夫賞、そして『ニムロッド』(2018)で芥川龍之介賞、最近では『旅のない』(2021)という短編小説で川端康成賞を受賞するなど、その実力は保証済みである。流行りの文学好きなら押さえていて当然の作家であろう。  しかしながら、私は「上田岳弘」の名前は存じ上げていたものの、作品の方は読んでいなかった。正直に告白すれば、名前の読みすら誤って

桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』《砂に埋めた書架から》62冊目

 先日、ある読書ブロガーの方が「大好きな鬱小説」というタグのもとに集まった5000ツイートを集計して、ランキングを発表したことが話題になっていた。  読むと鬱になる小説、ではなくて、読むと鬱な気分に陥るが、大好きな小説——という意味だと私は受け取り、この微妙なニュアンスを心に留めながら、たいへん興味深くそのブロガーの方の記事とランキングを拝見したのである。  その中でもっとも多くのTwitterユーザーによって名前をあげられていた作品が、桜庭一樹の『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬ

山本周五郎『樅ノ木は残った』《砂に埋めた書架から》61冊目

 たとえば、読後にしみじみと胸に広がる深い余韻。  たとえば、短い物語の中に生き生きと伝わる人間の悲しみ、情の深さ。  繰り返し読んでも泣けて、出来れば自分だけのものにしておきたいと思う短篇の宝庫。  それらはすべて、山本周五郎の魅力である。  短篇に名作が粒ぞろいの周五郎だが、彼には大長編の作品がいくつかある。その中のひとつが、周五郎の人気を決定づけた重要な作品、『樅ノ木は残った』である。  江戸時代初期の寛文(1661~1673)のあいだ、仙台藩の伊達家で実際に起き

吉田修一『春、バーニーズで』《砂に埋めた書架から》60冊目

 自分が贔屓にしている作家が大きな賞を獲得すると、自分の嗅覚の正しさを認められたような気がして嬉しくなるときがある。  吉田修一が第127回芥川賞を『パーク・ライフ』で受賞したとき、私は自分の予想が的中して快哉を叫んだものである。(実際は、予想というよりも受賞して欲しいと願っていたに過ぎないのだが) 『春、バーニーズで』は、芥川賞受賞第一作として発表され、それはやがて連作という形で発展していくことになったようだ。  主人公は、子連れの女性と結婚した筒井という男。妻に愛情

高橋源一郎『日本文学盛衰史』《砂に埋めた書架から》59冊目

 高橋源一郎の長編小説『日本文学盛衰史』が書店に並んだのは、今年(2001)の春だった。※  普段は買うのをためらう箱入りの豪華な装丁だが、私はいささかも迷わなかった。相当な傑作であることを噂に聞いていたからだ。  実際読んでみて思った。デビュー作『さようなら、ギャングたち』に次ぐ傑作だった。  舞台は明治時代と現代を混交させる仕掛けになっており、明治の文人たちが多く出入りする中で、平成の世にしかあり得ないものが顔を出す。たとえば、テレクラにはまる石川啄木とか。AVを撮

石原慎太郎『わが人生の時の時』《砂に埋めた書架から》58冊目

 著者の石原慎太郎氏は、いくつもの顔を持っている。私はやはり、東京都知事時代の石原氏のイメージが強い。いわゆる政治家としての顔だ。自由民主党の議員で大臣を経験していた時代も覚えているし、忘れていたが、政治家を完全に引退する前は、日本維新の会、次世代の党に関わっていた。時代をうんと遡れば、石原氏は二十三歳の若さで第三十四回芥川龍之介賞を受賞している。彼がその『太陽の季節』という小説の作者であり「太陽族」という社会現象を生み出したこともいつの間にか自分の中に知識として入っていた。

宮本輝『幻の光』《砂に埋めた書架から》57冊目

『幻の光』を手にしたのはいいが、関西弁の語り口に自分がうまく乗っていけるか、慣れることができるか心配で、なんとなく読むのを遠ざけてきた。  それだけに、ふと気が向いて読み出したあと、この作品の凄さを知って愕然としてしまった。  能登半島の荒涼とした海と、その合間にちかちかと光る波の煌めきを眺めながら、かつて自分が愛した夫の謎の死を、そして、自分の半生を、女性の主人公が静かに思い返す、という内容。  女性の一人語りのスタイルを取るこの小説は、全体が死のイメージに覆われてお