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「虐待」はない。でも「不適切な対応」ならないと言える?

先日、お誘いをうけ『子育てフォーラム』というのに参加してきました。

テーマは子ども虐待の現状。

内容は自治体の取り組みや虐待の現状報告、虐待経験者の話など重くデリケートなもの。

どの範囲を虐待と呼ぶのか、虐待で受ける脳の損傷、虐待は連鎖するなど様々な話を聞きながら、猛烈なパワハラを至近距離で経験したことがあるが、確かに脳が壊れるだろうと大人の私でも感じたのを思い出した。

幼い子どもなら、あっけなく損傷してしまうだろう。


かつて日本には、躾と称して「言う事を聞かなければ」体罰もやむなしという文化があった。私の記憶では自分が子どもだった昭和時代から体罰や虐待が問題視されるようになったように思う。

しかし当時でも、酷いDVやネグレストは『虐待』だけど、子どもがどうしても言う事を聞かないやむを得ない場合は、叩かれること、外に出されること、ある程度のことは『躾』として育った人は多いのではないだろうか。

その思考や損傷は私達にも受け継がれている。

しょうがなければ手を上げる。
しょうがなければ無視をする。
しょうがなければ大きな声で叱る。

この「しょうがない」という判断をする私達が一番の問題。

頭の中がバグだらけの私たちは、思うようにならない子育てでさらに頭が機能しなくなる。

やはり、1人で孤育てしてはいけない。

シミジミと思った。

みんな病気

フォーラムの帰り道。

20年ほど前、介護士の資格を取る為に勉強をしていた友人が、どうしても私に見せたかったと言って差し出したテキストのことを思い出した。

それには病的な傾向として様々な感情、思考の状態が書き記されていた。

現在は内容も変わっているかもしれない。記憶も薄れていて正確ではないけれど確かこんな感じ。

腹が立っとイライラする
朝は気分が乗らない
嫌な事があると気分が滅入る
悲しいことがあると、なかなか立ち直れない

目を通して私は言った。

「みんな病気じゃん」

『そう、みんな病気なの』

友人の勝ち誇ったような顔が忘れられない。。。

虐待が「虐待」でなければもっと件数は増える

このフォーラムでスピーカーの方が、そもそもこの『虐待』という言葉がどうなのかと、『不適切な対応』という言葉を使って話をされていた。

たしかに「虐待」と聞くと、叩く、罵声を浴びせるなどの激しいDV、ネグレストなどの放置、死に至ったケースの陰惨なものだと思っている為、「自分は違う」、「私は子どもを傷つけるつもりはない」と考えがちだ。

しかし、回数や強さ、何を使ったか、どこを叩いたかの問題ではない。

『叩かない為』にであっても、目の前で物を叩き壊したり、大きな声や長時間の叱責、お前のせいだと罵る、気分で叱る、無視をする、独りにする、こうした恐怖感を与えて言う事を聞かせようとすることも虐待と同義であるとしたらどうだろうか。

さらに、うっかりであっても夫婦の営みを子どもに見聞きさせてしまうこと、子どもの前で夫婦喧嘩をすること、これらも虐待の範疇だとすると、絶対に受けたことも、与えたこともないと言い切れる人がどれだけいるだろう?

虐待ではなく『不適切な対応』に言い方を変えると、受けたことのない人、与えたことのない人はあまりいないように思う。

酷い虐待による脳の損傷や、ある種の病気でなくとも、感情が完全にコントロールできて常に理性や知性で行動できる人は本当に少ない。もしかしたら人間が人間でいるうちは無理なのかもしれない。

そういう親達に育てられた子が親となり、また子どもを生み育てて連鎖していく。

『みんな病気』とは、このことなのだと思った。

これじゃあ、子育てがAIに奪われるのも時間の問題だな。。。

つづく


NLP子育てCOACH協会&㈱CPI主催 子育てフォーラム 
2018年7月5日開催 子ども虐待の現状 より

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