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夫に「死ね」と叫んだ日、の話。

私の普段の思考の中で、他人に対する罵倒として「死ね」という単語は出てこない。
だが人生で一度だけ他人に、それも夫に向かって「死ね」と叫んだ日があった。
時期は多分息子が年中の頃、つまり今から5年ほど前だ。

直接のきっかけは大したことではない。その頃は毎日夫が職場や自分の体調についての愚痴を言っていて、私はその日突然、キレた。
今思い返しても「何故その日だったのか」は分からない。チリツモで溜め込んでいた私の怒りが、たまたま臨界点を超えたのがその日だったのだろう。

当時、職場が変わって通勤時間が増え、また上司からの圧もあってストレスをため込んでいた夫は、毎日のように体調不良をボヤいていた。
そして、円形脱毛症や眩暈などの症状で内科に行き、自律神経失調症だろうと言われて以来、夫は私が何か言うと「その言い方は上司みたいだ」「そういう風に言われると体調が悪くなってくる」と言うようになった。

そもそも当時、というよりもそのずっと前から、私はあらゆる育児や家庭内での話を最低限の連絡事項に留め、夫に愚痴を一切言わないように心がけていた。
私の親との同居を始めた頃、息子が生後半年ぐらいの時期からなので、「死ね」事件の4,5年前からである。同居に関して夫が文句を言っていたわけではないのだが、母の方が夫に対する文句を私に延々言い続けていたこともあり、夫は夫で窮屈な思いをしているはずだ、という漠然とした引け目があった。

夫は元々、自分の話はそれなりにするが、余程でなければ私に「今日はどうだった?」などと聞くことはない人だ。それは結婚前からずっとである。
そして、交際中はともかくとして、結婚して以降の夫は「私の話を聞く」こと自体を好まないように見えた。
話の種類に関わらず、相槌を打つことも殆どしない。目線もTVに向けたまま、眉間に皺を寄せている。そんな相手に、下らない日常の話をし続けるだけの度胸は私にはなく、私と夫の会話は自然と「私が夫の話を聞き、返事をする」形に限定されていった。

今思えば、当時の夫の態度はアスペルガー的傾向によるものであって、夫自身としては大して不満はなかったのかもしれない。だが、私は自分の情報を精査し、「夫に伝えるべき情報」のみを夫に伝えるようにすることで、不快そうな夫のリアクションを見ずに済ませようとした。外で働く夫に、専業主婦である私が余計なストレスをかけてはいけないし、そこまでして聞いて欲しい話もない――と、そんな風に考えていた。

そういう訳で私は、母が毎日「気の利かない婿」への愚痴や私の育児へのダメ出しをし続けていることも、私が毎日死にたいと思いながら過眠に逃げていた時期の話も、従兄弟の自死や2度の流産のショックで毎晩泣いていた時期の話も、全く夫に話さなかった。日々の生活に関わる最低限の情報と、子供の様子だけを夫に伝え、自分の状況や思考や感情については何の話もしないまま、私は過去に交際した元カレ達の誰よりも「遠い人」として夫を扱い続けた。

従って、自律神経失調症と診断された後に夫が述べた「私の言い方が上司みたい」というのは、私から夫に対しての文句や世間話などではなく、夫の職場や体調に関する愚痴への、私の相槌の事を指していた。
純粋な「ふーん、そうなんだ」は許容されるが、「でもそれって○○なんじゃないの?」という言い方や、「そこは確認してあったの?」とか「だったら○○した方が良いんじゃない?」というようなコメントはストレスだ、という訳である。

「だったら私に喋るな」「私は壁じゃない」と言いたいのをグッと抑え、私はそれまでよりも一層、聞き役に徹しようとした。
眩暈や頭痛などの症状は客観的に見えないが、少なくとも円形脱毛症があるのは事実として見える。夫が何らかのストレスで健康を損ねているのは明白で、それに追い打ちをかけるわけにはいかない。

だが、職場の愚痴は聞き流せても、体調不良の愚痴を聞き流すことは、当時の私には難しかった。
何しろ原因がストレスだと夫がハッキリ言っているのだ。しかも、(やんわりとだが)何度聞いても、夫はそのストレス源が仕事にあるとは明言しない。
つまり家庭にもストレスはあり、夫の体調不良は「上司のような話し方をする」私のせいだと、そう言われているようにしか私には思えなかった。
そして私は、それまで以上に夫にストレスをかけない方法を、全く思いつけなかった。

私の喋り方は、少なくとも優しく女性的なものではない。
議論ならばそれなりの自信があっても、夫の話を「優しく受け止めてあげる」などという発想はなかったし、問題があるなら原因究明・対策・再発防止をするのが当然だと、私は元々そういう思考をしがちである。
そして、そんな私の思考から出る相槌は「上司のような」と評されても仕方がないと、その点においては夫の発言も一理あると思っていた。

だが、毎日毎日気持ちが悪い・頭が痛い・眩暈がすると言いながら、食事だけは毎回ペロリと平らげ、上司にアレを言われたコレを言われたと愚痴りながら、私の意見や感想は一切発言するなと言わんばかりの夫に、ストレスは加速度的に高まっていた。

一方で、当時の私は毎日合計3時間ほど「母の愚痴や説教を聞く時間」を意識的に確保していた。母の機嫌を取り、極端な爆発を防ぐためだ。

つまり私は、一日に母の愚痴を3時間、夫の愚痴を1.5時間聞き、幼稚園から帰ってきた息子の「ねぇママー!」も聞いていなければならない状態にあった。
今にして思えば単純にキャパオーバーだったわけだが、私はそれに気付かず、しかしネットゲームのお陰で辛うじて回復し始めた自意識で「私の話を聞いてくれる家族は誰もいないのに、何故私は一日中家族の話を聞いていなくてはいけないのか」と怒りを溜めていた。

そんな中で、「その日」は突然やってきた。
直接引き金となった夫の発言がどんなものだったかは、覚えていない。いつものように夕食を食べながら、恐らく体調不良の愚痴を言っていた夫の一言は、唐突に私の臨界点を超えた。
怒りで目の前が真っ白になったことだけは覚えている。

「毎日毎日、自律神経、自律神経って、自分だけがストレス感じてると思ってるなら自律神経失調症で死ね!!」

(自律神経失調症で苦労されている方、申し訳ありません。夫にキレたのであって、自律神経失調症を軽視する意図はありません。ご容赦ください)

私の記憶は昔から非常にいい加減だ。「自分の思考や発言」が最も精度が高く記録されていて、聞いた音声や見た映像のデータはあまり残らない。
なので、夫がその時どういうリアクションを取ったのかも全く記憶に残っていない。恐らく、無言のままフリーズしていたのではないかと思う。

そして生まれて初めて他人に「死ね」と叫んだ事に気付いた私は、一瞬そこで「あ、私って他人に死ねって言うことあるんだ。ってか流石に良くないな、謝った方が良いか?」と思い、続けて「別に夫が死んでも困らないし、まぁ本音か」と思い直し、更に「もうここまで言ったら何を言っても同じだ」と開き直って、怒りの残りをぶちまけた。

「自律神経失調症がどういうものか、知っているのか。きちんと自分で調べたか。義母も私の母も、過去には私自身も、自律神経失調症は患っている。それを知っていたか。それを理由に配慮を要求されたことがあったか。それでもなお『自律神経失調症だから俺にストレスを与えるな』と主張するのか」

「ストレスの原因は私だと言いたいのか。そうなら義母の家に帰るなりなんなりして、ストレスを軽減し、自律神経失調症を治す努力をしろ」

「仕事のストレスが原因だというなら、仕事のやり方を見直したり人間関係を改善したりして、ストレスを減らす努力をすべきではないのか。そう提案する私の発言を『上司みたいだから聞きたくない』で言わせないようにして、何が解決するのか」

「ストレスを感じていない人間なんていない。自分のストレスを軽減するために他人にストレスをかけても構わないと思っているなら、一人で暮らせ」

大体そのようなことを叫びながら、私はボロボロ涙を流していた。夫は、食事の終わった皿を流しに持ってきた所で、私が泣いていることに気付き、分かりやすく固まった。
私はそれまで夫に、泣いている所を一度も見せたことがなかった。怒りをハッキリと表現するのも、怒鳴るのも初めてだった。

一通り怒鳴り終わった私が棒立ちの夫から食器を受け取り、皿洗いを始めると、夫は音もなくリビングへと消えて行った。泣いたデトックス効果で頭がいくらかスッキリした私は、皿を洗いながら、まだ言い足りない事があるな、と思った。
この際だ。言っていなかったことを一通りぶちまけておこう。

皿洗いを終えてリビングに行き、煙草に火をつけて2,3口吸ってから、私は夫に向き直った。

「死ねって言ったのは表現が良くなかったけど、謝らないからね」

第二ラウンドの開始宣言である。
それから、皿洗いをしながら考えた台詞を一通り喋った。

結婚する前の同棲期間中に私がインフルエンザに罹った時、熱が出たと言った私に「実家に帰れば?」と言った事。
流産の処置の手術の日の送り迎えを頼んだ時に、職場に相談するでもなく、即答で拒否したこと。
そして流産の処置後、私の通院が終わった報告をした時に「じゃあ次はいつから(第二子を)作れる?」と聞いてきたこと。
一度目の流産、その後の発熱、二度目の流産とその後の発熱。間を空けずに起こったこれらの期間中、いやそれ以前の息子の妊娠中や出産前後も含めて結婚生活の間ずっと、一度も、私の体調を知ろうとしたり、気遣う発言をしたことがないこと。

それにも関わらず、自分の体調が悪い今の状態においては、連日私に愚痴を言い、配慮を要求し続けていること。

「私はあなたを愛してた。残念ながら過去形だけどね。精一杯愛してたから、出来ることは全部やったつもり。伝わってなかったみたいだし、別に有難くもないのかもしれないけど。
とにかく、私はあなたに愛されていると思えたことは、一度もない。一度も、ないからね」

そこまで言い切ると、清々しい気分になった。
私の態度に気圧されたのか、純粋に情報過多か、夫は見事に固まっていて、何の発言もしない。

「この際だから言うけど。前に私の喋り方が上から目線で、自分の意見が全然通らないって言ってたよね。アレが欲しいコレが欲しいって言うのを私が却下するのを、自分の意見が通らないって、当然でしょ、そんなお金がないんだから。確かに私の意見は通してる、だけど私が自分一人のために却下してると思ってるの?
上から目線にもなるよ。正直見下してる。子供だと思ってる。対等に扱って欲しいと思うんだったら、私と対等だと思えるような意見を出して。自分の欲しいものを買って買ってってねだるだけの人を対等とは思えない」

8学年、実質9歳年上の夫は、更に固まっていた。
しばらく待ったが発言する様子がなかったので、「何か言うことないの?」と促すと、夫はフリーズした無表情のままで、ようやく口を開いた。

「……俺って、最低だな」

正直、呆れた。
私の台詞の後半に意識が向いているのかもしれないが、仮にも夫婦関係において、妻に「愛されていると思えたことがない」と言われたら、とりあえず「そんなことはない、愛している」という種類の発言をするべきではないのか。反論を何一つ思いつけなくても、そこぐらいは主張してくるのではないか。愛しているなら。

まぁ夫の事だ。そもそも「愛とかよく分からない」で止まっているのかもしれない。別に最初から私を愛している訳ではなかったのかもしれない。
そもそも、夫が誰も愛せないタイプの人間なのではないかと薄々思いつつ、それでも構わないと結婚を決めてしまったのは、私だ。その予想が当たっていただけならば、夫を責めるのも気の毒なのかもしれない。

「離婚した方が良いんじゃねぇの?もうこうなったら」

更にこの台詞。完全に話し合いを投げにかかっている。議論が苦手な夫は、何であれ私が対立意見を述べると、ほぼ100%の確率で投げやりになる。
やれやれ、である。夫にこういう風にはっきりと文句をぶちまければ、夫がこう言い出すだろうとは思っていた。想定通りといって良い。

一通り言いたいことは言い終わったし、私としては特に離婚の意思はなかった。
夫が離婚したいなら別に離婚しても良いが、私としては夫に対する感情は、流産の件あたりからずっと変わっていない。夫に対する愛は枯れ果てた感があるが、顔を見たくないと思うほど憎いわけでもないし、離婚するメリットも特にないのである。

離婚はしてもしなくてもいいが、子供がいる以上、今は一緒に暮らし続ける方がメリットは大きい。利害関係が一致する間は離婚せずにいても良いのではないか――という趣旨で夫を説得すると、夫は納得したようなしていないような顔で頷き、話は終わった。


どのみち私が動かなければ、夫は自発的に自分の生活を変えようとはしないだろう。
……と私が立てた予想は当たり、夫は再び話し合いをしようとも、弁明をしようともせず、離婚しようとも引っ越そうともしなかった。
私と夫は今も離婚せず、特に喧嘩をすることもなく、職場の同僚のような関係性で一緒に暮らし続けている。

意外だったのは、私に「死ね」と叫ばれた後、一か月ほどで、どういう訳か夫の円形脱毛症が綺麗に治ったことだ。

あの日以降、夫は体調不良の愚痴を私に言わなくなり、通院も辞めていた。私は症状がどうなったのか聞かず、夫を放っておいたのだが、もしかするとショック療法的に、眩暈などの症状も収まっていたのだろうか。だとすると、円形脱毛症を引き起こした夫のストレス源とは一体何だったのか。
これだけは恐らく、永遠の謎となるだろう。

そして現在の夫は、私がブチギレる前と比較すると、格段に「良い夫」として振舞う努力をしてくれている、ように見える。
私がごくたまに依頼する「帰りにコンビニで食パン買って来て」なども嫌な顔をせず引き受けてくれるし、特にここ2、3年ほどは、休みが合うタイミングでは息子を外出に連れ出すなどの行動も取ってくれたりする。
宅配便の受け取りなどもしてくれるようになったし、先日は電話も出てくれた。トイレットペーパーが無くなっていたりした時にも「無くなったよ」ではなく「どこにある?」と聞いてくれるようになっている。

……と、こう並べると、世の「良い夫」を知る方々には笑われる気もするのだが、以前の夫は本当に、こうしたことを全て「俺は分からないから」で眉間に皺を寄せたままスルーし続けていたのである。

そして「ここ2,3年ほど」というのは、私自身が毒親育ちであったことに気付いた時期でもあり、私の夫に対するリアクションがじわじわと変わった影響もあるだろう。以前の私ならば間違いなく「トイレットペーパーはどこにある?」と聞かれたとしても、「早く補充しろ」と言われていると解釈し、場所を答えるのではなく、私がすぐに補充する、という挙動をしていたはずだからだ。

とはいえ、夫に対して愛情を再び感じることは、永遠に不可能だとも思う。
結婚当初の恋の賞味期限はとうに切れてしまっているし、本人にぶちまけたとはいえ、過去の恨みはまだ私の中にくすぶっている。
私の夫に対する意識は「プライベートでわざわざ一緒に飲みに行こうとは思わない程度の、隣の席の同僚」の距離感だ。恐らくは、夫の方も大差ないだろう。

息子が成人し、私と夫が一緒に暮らすメリットがなくなった時、私は夫と離婚する、つもりでいる。
実際にその時が来るまでに、私と夫の関係性が変わったら、また別の結論となるかもしれないとは思う。だが私の方にその気がない以上、私と夫の関係が今より近くなるとも思えないし、想像がつかない。

どうあれ、あの日夫に「死ね」と叫んだことに、私は今も、全く後悔していない。その前段階について私が反省すべき事柄は多々あるが、それでもやっぱりきっと、叫んだこと自体を後悔することは一生ないだろうと思う。

あの日から私は、夫に対してしていた我慢の大半を、止めることが出来た。
これだけは少なくとも、私にとって前向きな事実だからだ。

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