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復職観察日記 #7「逃げる勇気と泣く自由」

トップは、るこぽさんより拝借。

今年度、私は異動なしの残留組である。
この時期になると、なんとなく自分の分掌がわかってくる。
私は国語科主任ととある部の部長になった。
その他諸々の担当もこれから決まることだろう。
部長を務めるのは初めてだが、なんとなく楽しくなりそうな気がしている。
所さんイズムのおかげか?なんて。

さあさあ復職観察日記#7、始まるよ~。

縁の下の力持ち

私の母方の祖母は「祖母」だった。
そりゃそうだと言いたいところかもしれないが、お待ちいただきたい。
私が言いたいのは、「おばあちゃん」ではなく「祖母」だったということだ。
私の祖母は本当に強い人だった。「おばあちゃん」という柔らかい感じではなかった。
今で言えばDV気質の祖父を支え、その祖父とともに開業したうどん屋の切り盛りを全て背負い込みながら、明るく優しく厳しい人だった。
私が小学生のとき、近くに住む意地悪なオバさんに嫌なことを言われて泣いていた私に、祖母は一言「泣くな!」と言い放ち、「あの人はああいう人間や!」と続けた。
小学生だった私は祖母の言葉に驚きながらも、なぜ自分が叱られるのかというやり場のない悔しさを嗚咽に交えながら、必死に涙を堪えた。
このことは今でもはっきり覚えている。
祖母は弱いところを絶対に見せない人だった。
祖母はずっと「60歳になったら、ばあちゃんは絵を習いに行きたいんや」と言っていた。
しかし、祖母は59歳で亡くなった。
ガンだった。
わかったときには、身体中に転移していた。
私が中学生のときだった。
当時は祖母の早すぎる死が、ただ悲しかった。
しかし、今になって思う。
祖母は頑張りすぎたのだ。
なにせ、自分のやりたいことは後回しで、すべての人の縁の下の力持ちであろうとしたのだから。
祖母は逃げなかった。そして泣かなかった。
ばあちゃん、そりゃしんどいよ…。

祖母は亡くなる数日前に、見舞いに来て帰りかけた(私の)母に「もう少しいてくれへんか」とほんの少しのわがままを言ったらしい。
母は驚きながらも「いいよ」と返事をしたそうだ。

「逃げる」は悪か、「泣く」は弱さか

精神疾患になる人の共通点は、「頑張りすぎる」「頼れない」というところだと私は思う。
決して「弱いから」とかいう理由ではない。
自分について言えば、「要領の悪さ」にも起因するところだろう。
休職前の私は「逃げない・泣かない」が座右の銘のようになっていた。
美徳とも思っていた。
限界が来たときも「休職=逃げる」のように考えてしまい、なかなか決断ができなかった。
そんなときでさえ、持ち前のプライドの高さが顔を出し、同僚に「あいつは逃げた」と言われるのではないかと考えてしまう始末。
あのときの私はバカだった。
私を救ったのは、父からの「逃げることも必要なんやぞ」の一言。
それが、私の障壁をすべて打ち崩してくれたのである。
おかげで、完全に壊れる前に休むことができたわけだ。
私はラッキーだ。
休職中、訳もなく不安で涙が溢れることが度々あった。
最初は辛かったが、何度目かのときに無理やり止めずにとにかく泣けるだけ泣いてみた。
すると、存外スッキリしたのである。
誰がというわけではないが、先人たちが言ってきた「時には逃げよ、時には泣け」というような言葉は正しいのだと実体験から学んだのだ。

宇宙人

頑張りすぎた結果がどのような形で身体に表れるかは、人それぞれだ。
祖母は身体の病気になって表れた。
私は心の病気で表れた。
今思えば私も祖母も、「逃げられない・泣けない」自分に苦しめられていたのだ。
いずれにしても、弱いところを見せたくない、抱え込むというのは、必ず悪い形で発現してしまうということだ。
私は、休職中に心ない言葉をかけられたこともある。
理解しようという心を持たない者には、絶対にわからない世界なのだ。
「言葉が通じない宇宙人」とは無理に話さなくて良い。
そんな時こそ所さんだ。
「あ、そうですか」が大切。
病気のときは、なかなかできないんだけどね。

「逃げ続ける」こと「泣き続ける」ことは決してプラスではないとも思う。
でも、心か身体のどちらかが疲れてしまったのなら「逃げる・泣く」はリフレッシュの1つになる。
程度は難しいが、一度きりの「自分の」人生。
大切に生きたいものだ。

Yell

今休んでいる人、休もうか悩んでいる人、休んではいるが罪悪感に苛まれている人。
あなたは十分頑張った。
人生の夏休みを取る権利が、あなたにはある。
やりたいことをやって、やりたいことがなければ何もしなくたっていい。
自分勝手になることは、自分を救うこと。
生きてさえいりゃ、満点花丸!
今あなたが頑張ることは、とにかく休むこと。
必ず良くなりますよ。





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