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不器用物語~努力で何とかならないもの①~

約20年のブランクを空けて、「40の手習い」となったギターは、頭の使い方を知らなかった若き日、下手に独学でやっていた為余計ややこしいことになっていました。前回記事はこちら

 そもそも子供の頃はホントに絵に描いたようなグズでした。

特に体を動かすのが苦手で、走るとか意味がわかりませんでした。運動会はビリが定位置。理解能力も低かったのかジョークという概念もわからず、人の軽口をまともに受け取って傷ついたり驚いたり。

色々な事の意味や概念がわからずイチイチ立ち止まり、そこから一歩たりとも先には進めない子でした。

しかも臆病であがり症で引っ込み思案。今振り返ればかなり痛々しいというか、何か軽度の知的障害か、今で言う発達障害でもあったのではないかと思わずにいられません。

それでいて凡そ子供らしくない程の意固地なところがありました。小学校に入ってすぐ習字を習い始めた私は、最初の頃よく鏡文字(文字をひっくり返して書く事。「く」を「>」と書く感じ)も書いていました。

見本を見ながら書いているのに何故か字がひっくり返ってしまう、我ながら「アレ?」と思うのは毎回書いてしまった後の事です。何かが正常に作動していないという事なのか、未発達時の必然の道なのかわかりませんが、その癖を直そうとして思いついたのが「たくさん字を書く事」。

いつもテストの時のプリントの裏に、それが何の科目であっても私はひたすら覚えたばかりの漢字を書くようになりました。テストがわからなくて空白はあっても、プリントの裏は私の鉛筆書きの漢字でびっちり埋め尽くされるようになりました。

先生がある日テストを返す時に皆の前で私の真っ黒なプリントの裏を見せて私を褒めました。

当時、私の前の座席に座っていたのはクラスでトップの成績を誇るW君でした。私達が小学校を卒業したら普通に校下内の中学に上がる所、彼は一人だけ他の市にある高校もエスカレーター式の附属中学にわざわざ試験を受けて進学する事が決まっていました。

他にそういう例外が一人もいなかったので皆からも「天才」と呼ばれて一目置かれていました。そもそも附属中学自体当時県下で一校しかなかった(←多分)田舎ではかなりレアケースです。そんな秀才W君にとって私はいいおもちゃだったのでしょう。

いつも授業の最中に後ろを振り返っては軽口をたたいて私がそれを信じて「へ~スゴイね~。」と、まともにしか受け取れないのを面白がっている感じでした。私はW君の言っている事がいつ真実でいつジョークなのか見分けがつかずいつも翻弄されていました。

そのW君が後ろを振り返って「お前やるなあ」と言ってきたのです。
私はそれまで自分が何も人以上にできる事がないことに引け目を感じていました。プリントの裏に漢字を書くのも、そもそも正常な文字を書けるようになる為です。元から正常な文字が書ける人は苦労しなくていいところ、私は書けないからそれだけの労力をかける必要があった。

「できる人はその努力を必要としないからしていないだけなのに、自分がしなくていい努力を『できない人』が『できないか』している事を『プラスαの頑張り』と捉えている」

それがとても不思議な感じでした。

W君が卒業時私のサイン帳に「あの漢字の力にはおみそれするぜ 中学にいってもつづけろよ」と書いてくれました。

学年トップの成績で附属中学に行ってしまうほどなのに「努力」の「努」が平仮名だった事に軽い衝撃を受けながら私の心に印象深く残りました。

グズから人並みに変わったのは「強制的な外的プレッシャー」がかかった中学時代。

部活の顧問が恐ろし過ぎて小心者の私は勿論完全服従でした。

中学生にはオーバースペックなハードトレーニングだったので、普通の体育の授業でやる運動強度に対して大きな余裕が生まれました。

走るのが速くなったというよりも、きちんと決められた距離を走り抜くだけの体力がついた、というのが正しいでしょう。

根性で走る長距離走で校内記録を残し、運動会の短距離走なら1位か2位が取れるようになりました。100m走り切っても「息も絶え絶え」にならなくなったからです。

今思えば子供の頃は虚弱体質だったので極端に体力も筋力もなかったのでしょうが、当時は知りませんから自分なりに深刻に悩んでいました。

すると不思議な事に、走るのがまともに走れるようになっただけなのに、何かの連鎖反応のように、それまで苦手だった他の事(例、図工的な事や数学以外の他の科目とか)も次々に人並みに出来るようになりました。

ダメな子が普通の子になったのです。

そして自分の中では「努力する=量をこなす」という図式が確立されていきました。

単語や文字や発音をひたすら書いて覚えるやり方は大学時代でも同じです。

もう一つ自分を悩ませたのは「頭を使う」という事が余りできず(←何時いかなる時も心がけてはいましたが)頭の回転も速くない事でした。

だから40歳でバンド活動再開となった時、私にできる練習と言えば、高校の時と同様「弾けるようになるまで弾く」という練習方法でした。

これまで、数々の人並みに出来ない事を頑なに取り組み続ける事で克服してきた私は「努力すれば何とかなる」と思っているからです。

でもギターは、高校時代努力しても何とかなりませんでした。
まず生まれて初めてギターに触れたその日、実は一度心が折れました。

適当にジャランと鳴らせば、何かの旋律を奏でられるものと思ってたギターは、ジャランと鳴らしてみてもただ「ガジャア~」という騒音が響いただけでした。

一つ一つ順番に鳴らして見ても、それまで接触してきたピアノやリコーダーのように「ドレミファソラシド」の順番には並んでいませんでした。

高校時代は、まだまだ色々な事を紐づけて考える事ができていなかったので、チューニング一つするにもチューナー任せで、それが一体何の音なのかという事を知ろうという考えさえありませんでした。

Eという音をEという音として認識し、それがドレミで言うところのミなのだという紐づけさえ出来ていなかったのです。

(今思えばやっぱり何かの障害があったとしか思えません。二回目)

ただ課題曲をマスターする為にTAB譜というギター譜面を順番に押さえるだけの練習。

私はギターに夢中で勉強そっちのけで毎日8時間くらい練習していました。そんな日々を丸二年続けても左手が別の生き物のように動く早弾きはできるようになりませんでした。出来ないフレーズは結局出来ないまま勢いで乗り切るだけだったのです。

40歳でギター練習を再開し始めたばかりの時も、ギターに関しての自分のノウハウは高校時代のままで停止しているので、そのままの練習を闇雲に続けていましたが、そんな不器用コチコチ頭の私にとうとう転機が訪れます。

続く


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