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ドラゴンフルーツ

 あれは、もう十年前の事だろうか。
 まだ、私が、いや、私たちがまだ、島にいた時の話だ。
 あの日、私は海岸を眺めていた。すると、ぽつぽつと、赤黒い点が浜辺に見えてきた。
 もう、蟹の季節かと私は考えて、空を眺めた。すると、小雨の一粒が私の眼球に入った。空を覆っていた雨雲はほとんど去っていて、島の奥、山の方にしか残っていなかった。私は、この島で二十二年生きてきたので、この光景がどれほど奇妙な光景なのかは理解できなかった。まだ行ったことがない祖国である日本では、数万匹の蟹が島を横断する場所は無いと、父から聞いていた。蟹の行列は何度も見ていたが、私が生まれたころより、ずっと多くなっていた。
 私は浜辺に降り立ち、鋏に気を付けながら蟹を一匹掴んでみた。甲羅は目が痛むほど赤かった。食べた事は無いが、味はとても不味いらしい。私は振り返り、火山を覆う雨雲を見た。世界一雨が多い島だそうだが、その雨量も最近は増加の傾向にある。地球がおかしくなっているのはわかるが、ここが私の生まれ故郷だとは思えないほどの変化だった。私は蟹を群れに戻した。何事もなかったかのように蟹は赤い流れに乗り、目指すべき場所に向かって歩き出した。
「向こう側にはいつ?」
 燐は言った。
 向こう側、などという言い方が私は好きではなかった。私の父と母の祖先が生まれた場所だ。私だけではない。燐の祖先だってそうだ。向こう側などと、まるであの世みたいな言い方だと思った。
 私が何も答えないでいると、燐も蟹を掴んで持ち上げた。蟹の腹側はこの島の砂浜のように白かった。脚は別々の意思を持った独立した生き物のように動いていた。こいつらに我々のような感情があるのだろうか、と私はいつも考え、無い事をいつも祈った。六本の足から目を離し、私は海岸に目を移した。海の上に虹が出ていた。この島は雨が多いから虹が良く出る。透明な七色が雨上がりの茶色がかかった空に展開している。言い伝えによると、夜中に虹が出る事もあるというが、私はそんなものを信じていなかった。
 しばらくすると、何もかもに飽きた、というように、燐は蟹を元の赤い濁流に帰した。
「一か月後」
 私はようやく質問に答えた。我々が住むのは、東京ではないらしい。東京の隣にある場所に引っ越す予定だった。私の先祖は、百年ほど前この島にやってきた。日本人だけで百家族ぐらいいたらしいが、今ではほんの数えるほどになってしまった。この島に渡ってきた人々はきっと幸運だったのだろう。中南米などに渡った人々の中には、農業などまるで出来ない土地を与えられ、国にも帰れなかった人もいたという。私は運が良かったのだろう。運よく悲劇から逃れ、こうしていられる。
 私たちの背後で雷が鳴り、二人とも島の中央にある山を見た。聖なる山と呼ばれているらしいが、私にはそうは思えない。あの山が噴火して、赤い溶岩が流れ出し、いくつもの家や木を燃え上がらせたところを見た。
 燐の家族には海を渡る予定はない。つまりここに残るという事だ。そして、我々の二十年の付き合いが終わるという事でもあある。それがどういう事なのか私には実感できず、ただ流血のような蟹の動きを見ていた。
 私は科学者ではないが、島がそれほど長くはないだろうという事はわかっていた。環境の変化は加速していた。あと十年か、二十年かわからなかったが、彼女の家族も島を去るだろうと思った。
「どうしても行くの?」
 変な事を聞くものだ、と私は思った。引っ越しは私の父の意向である。それをまるで、私が決めたような言い方をするのだ。
「ぼやぼやしてたら、一緒に沈むだろう」
 私が言うと燐は笑った。私は首を傾げた。真実を言ったつもりだった。不思議なのは、燐は私と同年齢なのに、何の過去も背負っていないように見える事だ。今は母親だけだが、私が十八歳の時までは彼女にも父親がいた。親しい人の喪失を彼女は感じていないようだ。
「蟹、多いよね」
 燐が言った。
「気候変動だろ。島が沈む理由と同じだよ」
「大人のせいよね」
 燐はそう言って笑った。我々が十代のころ、そういうスローガンを掲げ、気候変動に対する抗議デモなどに参加していた。そういう我々も、もう大人になって二年だ。
 燐は私に背を向け、蟹の濁流の激しい方に歩いていく。注意深く歩くが、時々蟹を踏んでしまうらしく乾いた音がした。しばらく歩くと振り返り、また私に笑顔を向けた。その時、彼女の目がくっきりと見えた。睫毛一本一本もはっきりと見え、眼球の表面に写る空の色も見えた。その奥に光は見えなかった。私は彼女が魂を失っているのではないか、あるいは何かに乗っ取られているのではないか、と思った。

 私が家に帰る道は、蟹の赤い列で覆い尽くされていた。
 耳を澄ませば、ざわざわと、甲羅が触れ合う音が聞こえた。波音がする海岸と違い、閑静な郊外の住宅地において、音はよく響いた。
 私の家の前には芝生があり、家は白い平屋建てだった。玄関のポーチにはこの島の国旗が掲げられていた。父と私の二人で暮らすには、大きな家だった。詳しくは知らないがアメリカ式の住宅だという。庭には大きなタビビトノキがあった。日本の家がどんなものか私は知らなかった。ここより狭いと言われていたが、気にしなかった。私は誰も使っていない空間には、自然と何かが宿るようで怖かった。
 家に入ると、父が窓の外を見ていた。迷い込んだ蟹が数匹、庭の芝生の上を歩いていた。父は、もう蟹の季節か、と私と同じ事を呟いて、居間のソファに腰かけた。引っ越しが近いので、家の中はがらんとしていた。薄暗くなっていたが、電気もつけていなかったので、庭の蟹の赤黒い色が妙に生々しく見え、何か不吉なものを運んでいるように見えた。私は蟹の移動から力を感じたが、雨雲のような混沌とした力ではなく、直線的な力だと感じた。蟹は一つの方向、島の東側から西側に向かっていた。
「燐と会ってきたのか?」
 父が私に聞く。
「まあね」
「別れを言ってきたのか?」
 私は何も答えなかった。義務をはたしたのか、と言わんばかりの態度だったので、私は心の中で小さく反発した。
 燐の母、愛はまだ生きている。
 二人で燐の父である博を自殺に追い込んだようなものだ。
 それでいて、父は平然と芝生を眺めていた。私は二重人格というものを信じたくなった。

 その日は蟹の夢を見た。ひたすら蟹が行進を続け、島を飲み込んでいく。
 こんな夢を見たのは生まれて初めてだった。

 翌日は朝から雨が降っていた。
 父はテラスに出ていた。グラスを手に持ち、片方の手をポケットに突っこんでいた。アロハシャツに短パンにサンダル姿だった。時計だけはやたらと高級そうだった。父は何かを待っているように見えた。私は父が何を待っているのか知っていた。父を眺め、その心を読んでいるうちに、私に父の心が乗り移ったのか、雨の向こうに愛の姿が見えるような気がした。彼女は博と違って死んだわけではない。まだ生きていた。私はその日から一週間前に愛に会っていた。偶然、海岸で出会ったのだ。日本に行っても元気でいてほしいと愛は言った。そして、父さんにもよろしくと言った。愛は父とは疎遠になっていた。直接言えば良いと、私は素っ気ない事を言っていた。
 父は朝から酒を飲んでいたらしい。テーブルの上にはドラゴンフルーツを使ったカクテルが大きなガラスのピッチャーに入っていた。どぎついほど赤く、その中に黒い粒々が見える。まるで蟹の眼球に見え、蟹が私を見ているようで不気味だった。父はバーの経営者で父自身もバーテンダーとして働いていた。ドラゴンフルーツを使ったカクテルは父が開発したらしい。上質のドラゴンフルーツは、この島でしか手に入らないため、この島を出たらもう作れない。名残惜しいのか、最近、父は家でもこのカクテルを作り、そして飲み始めた。この酒は他の酒とは違う深い酔い方をする。普段陽気な父は、このカクテルを飲むと別人のように大人しくなった。そして変な事を言い出した。魂はもういないと父は呟いた。何の魂なのかわからない。自分の魂なのか、他の人の死んだ魂なのか。とにかく、魂はもういない、と言った。
 考えてみれば、父は昔から魂だの霊だのの話が好きだった。
 父はよくこの島の魂やら悪霊の話をしてくれた。
 酩酊し混濁する父を見て、悪霊とは悪い記憶の事なのだと私は思った。
 もし父の内部に悪霊がいるとすれば、愛との記憶だろう。
 父は時々顔をしかめる。ガラス越しからでも、父が顔をしかめているのがわかった。
 父の魂がはっきりと疲弊し、無力感に浸されている事が理解できた。
 庭に赤い染みが見えた。砕け散った蟹だった。私が起きる前に、父が踏みつけたのだろう。

 愛と父が親密な関係になっている事に気づいたのは、私が七歳の頃だ。
 この人が、自分の母になるのだと、ごく自然に私は思ったのだ。
 そうなると博はどうなるのか、と私は考えた。
 大人も正しくない行動をするのだと、私は知った。

 博に最後に会ったのは、私が島を出る八年ほど前だろうか。十四歳だった私が出会った中で、一番真面目で誠実な男だった。その評価は今でも変わらない。
 宇宙物理学者で、この島の中央付近にある展望台に勤務していた。
 宇宙にも物理にも興味のない私にとって、彼の仕事が何なのか、理解する気にもならなかったが、火山、海、そして蟹について詳しい事だけは理解できた。
「どうして、蟹が移動するか、知っているかい?」
 博は私に語り掛けた。それが何処だったのか覚えていない。恐らく島の中央の展望台だっただろう。記憶に残っているのは、島を横断する赤い帯、そして雲一つない青空、肌が痛いほどの陽射しだった。何度も蟹の行列は見てきたが、高いところから移動の全体像を眺めたのは初めてだった。それが蟹の集合である事は知っていたが、一匹一匹の動きが認識できないので一つの意思を持った生き物のように見えた。私は目の前の光景に圧倒され、博が答えを待っていてくれている事を忘れていた。
「卵を産むため?」
 きっと、島の反対側の方が、卵を産みやすいのだろうと私は考えた。
「そうだとしたら、元の位置に戻る必要はないだろ? ずっとそこに住んでいればいいんだから」
 私はその通りだと思った。
「じゃあなんで?」
 私がそう言うと、博は腕を組んで首を傾げた。
「それが、わからないんだよ」
「わからない?」
「そう。なんでこの島に住んでいる蟹がこんな行動をとるのか」
 この世は謎に満ちている。博はそれを伝えるために、私をそこに連れていったのだろうか。記憶にないが、蟹の行列を高いことろから眺めたいと、私が言ったのかもしれない。当時の私は、博が愛と父の関係を私に問いただしたいのだ、と考えていた。
 博はそんな感情、考えを少しも外に出さなかった。私には歯がゆかった。私はもう大人であると自認していた。人間関係の複雑な部分、精緻な構造にも首を突っ込んでみたかった。
「蟹もいいんですけど」 
 私は博に切り出した。
「他に聞きたい事があるのでは?」 
 私には、博が押し殺しているものが、はっきりと見えた気がした。
 博の表情を見て、私は少し後悔した。
「父と愛さんの関係ですよ」
 ちょうどその時、風が吹いた。
 博は風の中で、耳に手をやってもう一度言うように言った。私は全身から汗が噴き出した。助かったと思った。
 私はうつむいて黙っていた。
 仕方がないという風に、博は宇宙論を語り始めた。
「宇宙にも終わりがあるって知ってる?」
「そうなんですか?」
「この島も、宇宙も終わりが来るんだよ」
 私は宇宙の広さ、そして終焉について、とりとめのない考えを巡らせた。ふと博の顔を盗み見ると、内部から食い荒らされたような表情をしていた。私は、彼が本当に博なのかと思った。風に流されたと思っていた私の言葉は届いていて、瞬時に完全に博の心身を蝕んでいたらしい。私が理解した事は、私が博を傷つけたということだ。
 この世界では、誰も傷つけず生きる事は不可能なのだと、私は知った。
 
 私は博の記憶を掘り起こしながら、父の姿を眺めていた。父は雨の中に何かを見つけようとしているように見えたが、長い時間をかけても、何も見つけられなかったのだろう。ゆったりとした足取りで玄関に戻り、ドアを開け家の中に入ってきた。そして、私の姿に気づくと、ドラゴンフルーツのカクテルを勧めてきた。普段の父は自信に満ち溢れ人生を愉しんでいるように見えた。この島では少なくともその自信に見合うほどの実績は残したが、日本でもそれが続くかどうかはわからなかった。場所だけが問題ではなく年齢の問題もあっただろう。その時から既に、父は徐々に衰えているように見えた。外側から徐々に衰えていくわけではなく、内部からじっくりと衰えているように見えた。ドラゴンフルーツのカクテルは、父に自分の内面を自覚させる効果があるらしく、飲むと自分の存在、魂を疑う台詞を口にした。父が強いのは、強い存在でいられたのは、ある空間と時間でしかないのではないか、と私は思った。だから、私はどうしても今のうちに、ある言葉をぶつけて、父がどのような反応をするのか見たくなった。これ以上弱ってからでは、父自身が危険だと思った。
「よく降るなあ」
 まるで初めてこの島に来たかのように父が呟いた。私たちが生まれ育ったこの島は、世界一雨の多い島である。そしてその記録は毎年更新されている。雨に促されるように、父はピッチャーからグラスにドラゴンフルーツのカクテルを注いで飲み始めた。私にも無言でピッチャーを差し向けるが、私は首を振った。この飲み物が嫌いなわけではない。むしろ好きだった。飲み物の味と酩酊は、ある場所ある人々と結びついていた。私はその幸福な連結を崩したくはなかった。
「雨で島が沈みそうだ」
 外を眺めながら私は言った。半ば本気だった。雨音を聞いていると、そう思えた。
「ばかな」 
 父は笑った。そしてもう一度、ドラゴンフルーツのカクテルを飲んだ。すぐに酔いが回ってきたらしく、いつものように独り言を始めた。私をだらしなく指さしながらソファに座り込んだ。眠るかと思ったが、自分の内面との会話を始めたようだ。父は四十を超えていたから、内面との付き合いは四十年を超えているはずだが、向き合うといまだに緊張するらしく、父から笑顔が消えた。
 魂はもうここにはいない。
 父はうつむき、ソファにさらに身を沈め、溺れている人間のように、部屋の天井を見まわした。
「博さんの事はどう考えている?」
 私がそう言うと、父の表情が崩れた。
 父の顔は、酔いにより弛緩はしていたのだが、ある種の自信に満ちていた。それが表情とともに崩れつつあった。崩壊の原因は私の言葉であった。父は私からこの言葉が出る事を、全く予想していなかったようだ。
 父は咳払いをひとつすると、感情を繕い、何とか笑顔を作り出した。そしてまたドラゴンフルーツのカクテルを飲んだ。少し気が楽になったのか、自分や私、島が抱える問題は、全て解決したというような笑顔を浮かべた。酒を飲むとそういう状態になる事は私でもよくあった。父の口の周りには、ドラゴンフルーツの黒い粒々が付いていた。
「悪霊、知っているか?」
 この島に伝わる悪霊の話なら、父から何度も聞いた事があった。
 私は学校の宿題で島の歴史を学んだ。学校で教えるのはこの島の表層の歴史だけだが、私はそれでは満足できず、島の歴史をさらに深く調べた。おかげで、この島の歴史にはだいぶ詳しくなった。私は日本人社会に伝わる日本語訳である悪霊という言葉は、誤訳ではないかと考えていた。本来なら、精霊とでも訳すべきなのだ。精霊本体に悪意など何もない。ただ、人間の想像を超えた力を持っているだけだった。
「そう、取りつかれた人間が、海に飛び込んでしまうというあれだよ」
 父が何を言わんとしているのか見えてきた。 
「実在すると思ってるの?」
「するかもしれないし、しないかもしれない」
 父が笑顔を再生させた。
 博は海に飛び込んで死んだ。そして悪霊に取りつかれると、人間は海に飛び込む。共通点はただそれだけだ。
「何事も、考えすぎるのは良くないと思わないか?」
 父は私と目を合わせず、外の雨を見ていた。
 目の前にいるのは、本当の父ではないと私は思いたかった。触れられたくない記憶を、雑に折り畳み、地下室に叩き込むように仕舞っていたのだ。
 私はそれ以上議論する気にはならなかった。
 父に対する不信は、そのまま私自身への不快感となった。
 私自身も博の記憶にはなるべく触れないで生きてきた。方法の違いでしかない。いっさい触れないでおくか、無毒化するかの違いでしかなかった。その事実に気付くと、私は急に息苦しくなった。重しをつけられ、海の中に放り込まれた気分だった。そして、博が飛び込んだ虹の海岸を思い起こした。透き通った七色が頭の中に浮かんだ。空も美しいが、海も美しい。さらに海の中も美しいという。近所でありながら、私はその名高い海中を見たことはなかった。あまりに近すぎる名所は、行かないものなのだ。東京からこの島に来たという観光客は、生まれた時から近くに東京タワーがあるのに、登った事がないと言った。人間など何処も同じだと実感し、そして島で起こっている諍い、悲劇も、私がこれから帰ろうとしている日本でも起きるのだと実感した。
 私は博の事から自然と意識が離れている事に気付いた。私自身が、博の記憶を仕舞いたがっていた。そして、父に対する怒りは薄れた。完全ではないが理解はできた。目の前にいるのは私と同じ人間だ。卑怯者ではなく、悪霊に苦しめられる一人の人間だった。
 
 翌日も、雨だった。蟹の行進はまだ止まらない。列は雨で流れる赤土のように、島を横断している。何せ、全て移動し終わるまで一週間はかかるのだ。七日間という事で、その昔この島に来たキリスト教の宣教師は、何らかの意味がある現象であると現地人に説いたという。確かに蟹が行進を終えるのは神が地上を作った日数と同じである。そこに何の関連性があるのかはわからないが、とにかくこの島の人々も原始的な信仰を捨て、キリスト教に改宗しなければならないと言った。その日から土着の信仰は異教となり、この島に住んでいた大いなる精霊は、人々に災いをもたらす悪霊になった。
 父は島を一人で回りたいと言って、朝から出かけていた。
 私の言葉が原因の一つだったろう。私は誰も傷つけず生きたかったのだが、それは無理なのだと改めて知らされた。
 昼になると、愛が我々の家に訪れた。
 私は、父は留守だと伝えた。そして、父が帰るまで上がっていって下さいと言った。
 愛は笑顔を浮かべて、ゆったりとした足取りで、家の中に入ってくる。
 もう四十五にはなるだろう。くっきりとした目鼻や、はっきりとした性格が、燐とは違う強い存在感を出していた。
 ドアの隙間から見える緑の芝生に、赤い蟹が血液のように流れているのが見え、私は少し身を引いた。
「どうしたの?」
 愛が尋ねた。
「珍しいです。いつもは庭に二、三匹迷い込んで来る程度なんですが」
 一匹、飛び石の上に砕けて伸ばされた蟹が見えた。気づかずに愛が踏みつぶしたのだろう。
 雨が徐々に強くなっていった。すぐにここ何年かで経験しないほどの強さとなり、何もかもを押し流すように水が流れ続けた。
 愛には先住民の血が四分の一ほど入っているという。父の経営するバーで実際に働く愛を見たのは、二年前、私が二十歳になった時、ちょうど酒が飲める年齢になった時だ。不思議なもので、そこで働く和服姿の愛は完全な日本人に見えた。
 働く愛も初めて見たし、父のバーが稼働しているところも初めて見た。大人になったお祝いをしてやると言ったのに、父の姿はなかった。
 ダンスホールがあり、ピアノがあり、カウンターがあった。店内は薄暗く、青と赤の毒々しいネオンが溶けた飴のように張り巡らされ、時に矢印の形になったり、フラミンゴの形になったり、カクテルグラスの形になったりしていた。それらはみな、うすぼんやりとした明かりを小さな体育館程度の広さがある空間に投げかけ、非現実を演出していた。壁には赤と白の大きな扇子が飾ってあり、墨で漢字が書いてあった。従業員は和服を着ていて、随所に日本を表現しようとしているが、骨格はアメリカの場末のバーといった趣だった。
 博が死んだのは私が十八の時だから、もう二年が過ぎていた。
 私には母がいなかった。三歳のころに亡くなったという。
 死因は教えてくれなかった。きっと、悪霊にでも取りつかれたのではないかと思う。だから、私には、ずっと愛が母親のような気がしていた。
 私は雰囲気に飲まれないように、ドラゴンフルーツを用いたカクテルを何杯も飲んでいた。酒は飲んだ事があるが、父のこの作品についての私の評価は芳しくなかった。酸っぱかったし甘かった。粘膜に纏わりつく粒々が気持ち悪かった。別に初めてだから、いくらでも雰囲気に飲まれても構わないと思うのだが、どうしてそんな意地を張ったのかはわからない。店は父の国であり、私は息子である。だから、妙な気負いがあったのだろう。
 日本人観光客もいて、私に気楽に話しかけてきた。ハワイやグァムのような有名な観光地ではないのに、ここを知っている人間は趣味の良い一段上の人間と私は父から教わってきた。自由で裕福で、普通の人よりもどこか鋭い人間、私もそう考えていた。そんな人たちに受け入れられたとなれば、当然気分がよい。酔いも手伝い、私は優越感と解放感で心を満たした。
 観光客たちは、明日も明後日も、ホテルに泊まり、青い海を眺め、夜はここで酒を飲んだり、踊ったりして過ごすのだという。私は彼らに怒りも嫉妬も感じなかったが、憎悪をぶつける人々がいる事は想像できた。そして、そんな人たちを心の中で見下した。
 私は燐が来ていた事に気付いた。少し目にまぶしい赤いドレスだった。私が話しかけようとすると、父が出てきた。遅れてすまない言って私を抱きしめた。父は私の誕生日だとアナウンスさせた。そして、客たちが私に笑顔を向け拍手した。彼らは赤や青に染まりおおよそ人間には見えなかったが、善意の塊に見えた。悪意の無い人間というものを私は信じていなかったが、その場にいる人たちを見て、そんな非現実的な妄想、そんな人間がいるという事を信じられそうな気がした。私はこの幸福な空間の中心であり主役だった。父と愛の笑顔を見たとき、私はその時だけ博の件を全て許せた。私はドラゴンフルーツのカクテルを飲み乾した。カクテルを飲んだのはその時が最後だった。私がもう一杯飲もうと、カクテルを受け取ると、轟音がして、空間が揺れ、音楽が止まった。果物が外皮から剥がれていくように、私の周りから人が離れ、出口に向かう。幸福な時間と空間が崩れた事を自覚すると、私も表に出た。
 聖なる山が赤々と燃え上がっていた。
 私は父と愛の顔を見た。炎に照らされたその顔は滑稽なほど強張っていた。そして二人は微妙な距離を保っていた。
 少し離れた暗がりに燐がいて、悟りを開いたかのような穏やかな笑顔が炎で赤く照らされていた。だが、その目の奥は怒りに満ちていた。
 私が燐に近づくと、燐は私の方を見ないでグラスを上げた。
「誕生日おめでとう!」
 お互いグラスを持ったまま外に出てきてしまった。私は無自覚で持ってきたが、燐は自覚的に持ってきたのかもしれない。燐は豪快に飲み干したが、私は飲まなかった。その時思い出した、さっきは燐ただ一人が、乾杯していなかった。
 燐は背後から、父を奪った大人たちを眺めている。そして、私も同じ感情を持つ事を促すかのように、私の頬に口づけした。私はグラスを持ったまま、立ちすくんでいた。私も大人たちの被害者ではあるが、どうすれば良いのかまるで分らなかった。
 家が燃え、木々が燃えていた。私の位置からは見えなかったが、きっと人間も燃えたのだろう。
 三十年ぶりの噴火。日本でも少しニュースになったらしい。
 私も被害を受けた。誕生パーティーを台無しにされた。
 
「寂しくなるね」
 愛は私にそう言った。私は誕生パーティーの記憶から、現実へと戻ってきた。
「でも、何かからは逃れられます」
 私がそう言うと、愛は首を傾げた。
「父は私に悪霊の話をしました」 
 愛が表情を曇らせた。憑かれると海に飛び込む悪霊といえば、あの人物を連想するしかない。
「燐にはもうお別れ言ったの?」
 愛は私に何かを促しているのだと、私は彼女の言葉から嗅ぎ付けた。
 愛だけではない。父からも感じていた。遠まわしに、私に何かの行動をとるように促している。私にはそれが何かわかっている。
 愛と父は、燐と私にくっついて欲しかったのだろう。
 私は愛に対して、ある言葉を投げかけたくなった。
 私は愛に、父と再婚すればよいのではないか、と言った。
 その瞬間、愛の表情は崩れた。父とそっくりだった。博の事を思い出したのだろう。私は再婚はないと、はっきりわかった。
 博を葬ってしまった罪悪感が、彼女の胸の奥にあった。魂の存在を信じているのだろうか。父と積極的に再び接触すれば、復讐されるという恐怖でもあるのだろうか。悪霊が戻ってきて、この島を灰にする、とでも思っていたのだろう。燐と結婚すれば、私たちは父と愛はごく自然に接触し、この島で全員家族として新たに出発できる愛は考えていたのだろう。父もそれを望んでいるのだ。そうなれば、恐らく一見全てが元通りで、全てが平和になっただろう。だが、私は心地よい世界より、新しい世界を見たかった。だから私は愛や父の望む通りにしなかった。
 この島はもうすぐ滅ぶ。そして、博の言った通り、いつか宇宙も消滅するのかも知れないが、その前に私は新しい世界を見てみたいと思った。
「あの人とやり直そうと思ったけど」
 愛は私に言った。
「やっぱり無理ね」 
 愛はもう帰ると言って、帰ってしまった。
 愛は二月後に肺炎で死んだそうだ。その時の心労と雨に打たれた事が原因だと私は今でも考えている。

 次の日、雨は止んでいた。
 まだ島は崩壊していなかった。
 蟹の大群も何処かに消えていた。
 いつもよりずっと早かった。きっと気候変動のせいだろう。
 道のところどころに、踏みつぶされた蟹がいた。
 道端にあるものが目に入った。潰れた蟹ではなかった。腐ったドラゴンフルーツだった。赤い果実の中身が外に溶け出し、陽光を浴びて輝いていた。 
 海岸に行くと、燐がいた。
 空いっぱいに七色が出ていた。私は燐に会う事無く引き返した。
 彼女はいまだに復讐を望んでいたのだろう。それが彼女の心を縛り付け、この島から離れられなくしている。私は彼女に同調するつもりはなかった。私は燐を悪霊から解放したかったが、もう時間がなさ過ぎた。

 今でも島は完全に沈んでいないが、記録的な巨大台風により、壊滅的な被害が出て、多くの人が島を出た。まだ残っている人もいる。テレビニュースは島に住む最後の日系人を特集していたが、燐ではなかった。もう島を出たのだろう。
 父は最近死んだ。ドラゴンフルーツのカクテルを作ろうとした時が一度あったが、日本ではやはり島のようなドラゴンフルーツは手に入らず、父はがっかりしたようだった。
 私は今でも夢を見る。青い空、青い海、虹がよく出る島があり、そこに燐がいる。
 彼女は島を出て、何処かで生きているのだろう。
 彼女は今でも悪霊に憑りつかれているのだろうか。
 多くの人は死んでしまったが、我々は生き残っている。
 いつの日か、彼女と出会ったら、彼女を悪霊から解放させたいと思っている。


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