見出し画像

君の名は。がヒットした理由である状況重視と非論理性と無個性を「カタワレ系」と名づけた。

君の名は。に感動できない理由を解明するためONE PIECE、ナウシカ、この世界の片隅に、シン・ゴジラ、ラ・ラ・ランドと比較する。君の名は。からヒントを得て、暑い夏に野球をし、ホームレスの人を排除し、政治的デモに嫌悪感を抱く理由を推測する。社会学、哲学、特にバタイユの至高性を参考にし、現代のネット文化における反応の即時性を考える。

これが本稿の方向性だ。引用箇所も含めると1万3千字の長文で、全文が無料だ。私、街河ヒカリは映画や社会学や哲学の専門家ではないが、現代社会の様々な現象を考えるきっかけとして映画『君の名は。』を活かしたいと考え、本稿を書くことにした。本稿には『君の名は。』のネタバレを含んでいるので、注意してほしい。ただし、『ONE PIECE』(ワンピース)、『シン・ゴジラ』、『この世界の片隅に』、『風の谷のナウシカ』、『ラ・ラ・ランド』、『新世紀エヴァンゲリオン』について触れているものの、ネタバレはない。


キーワード

君の名は。 解説 解釈 考察 新海誠 ONE PIECE ワンピース ルフィ シン・ゴジラ この世界の片隅に 風の谷のナウシカ 新世紀エヴァンゲリオン セカイ系 カタワレ系 ニッポンのジレンマ 真木悠介 見田宗介 時間の比較社会学 戸谷洋志 Jポップで考える哲学 バタイユ 至高性 有用性 RADWIMPS RAD ラッドウィンプス KY シチュエーション至上主義 エモい 大きな主語 街河ヒカリ


目次

第1章 『君の名は。』で感動できない理由、『君の名は。』の性質、他の作品との違いについて

第2章 社会のあちこちに「カタワレ系」が見えてくる

第3章 「カタワレ系」とKYの違い、日本文化との関連性、時間意識とバタイユの至高性、個性とキャラ性、「エモい」について


第1章 『君の名は。』で感動できない理由、『君の名は。』の性質、他の作品との違いについて


※これ以降には『君の名は。』のネタバレがあります。

まずは議論の導入として、映画『君の名は。』の特徴を考えてみよう。

いくらフィクションとはいえ、映画『君の名は。』には不自然な点や話がうまくできすぎている点が多数ある。それを指摘した文章の代表例として、akiko_saito さん(齋藤あきこさん)の「映画『君の名は。』に感動する方法」がある。これは『君の名は。』が大ヒットしていた2016年にnoteで公開された文章であり、当時は大反響を呼んだ。

映画『君の名は。』に感動する方法

出典:https://note.mu/akiko_saito/n/n3c3d6b264f7e

齋藤あきこさんの文章の中でも今回私が取り上げたい着眼点は、「シチュエーション至上主義」である。上記のページから引用する。

この映画において、最も大切なのは「シチュエーション」。
「シチュエーション」が設定されていれば「そういうことになっている」し、「体が入れ違っちゃうなんてドラマチック!!!」と酔いしれることが出来るので、現実や常識との齟齬があってもまったく気にならない。
なんで学校の場所もわからないのに自分のクラスはわかるの?!毎日持ってくるお弁当は父と息子どっちが作ってるの?!なんでもらったコロッケが2つに割れてるの?!男子高生がパンケーキ1600円もするようなカフェに行ってコーヒーとか飲むの?!マックでポテトLサイズとファンタとかじゃないの?!カフェのマスターが親戚とかそういうこともないのにこんなに女しかないカフェに男3人で行くの?!ピクニックみたいな装備で登れる絶景のクレーターがあるならめっちゃ観光地になってるんじゃないの?!男のほうは車に乗せていってもらってたけど、帰りはどうすんの?!凍死するんじゃないの?!あの飛騨についてきた友達はいったいなんの意味があったの?!なんでスマホの中身がいきなり消えるの?!世襲の設定ってなんか意味あったの?!など...しかしそもそもこの世界で果てしなく湧いてくる疑問は全て愚問である。「そういうことになってる」からだ。
この「シチュエーション至上主義」はエロゲとの類似性が語られている。エロゲは根拠も現実もいらない。作者がそのシチュエーションを作りたいから登場人物がそういう風に動かされていて、見る方もそのルールに乗って楽しむ。登場人物の人となりがわかるエピソードがなくても、「そういうこと」だから感情移入できる。

以上の出典はすべてこちら:https://note.mu/akiko_saito/n/n3c3d6b264f7e

要するに映画の中では「そういうことになっている」のだ。根拠や理由を考えなくてよい。男女が入れ替わりRADWIMPSのかっこいい音楽と共に美しい場所を一生懸命走るというエモい状況を楽しみ、感情移入すればいいのだ。

しかし私はここで『君の名は。』とRADWIMPSを批判したいわけではない。『君の名は。』は、驚くほどのディテールにまで世界観が徹底されている。詳しく知りたい方には、伊藤弘了氏の「恋する彗星——映画『君の名は。』を「線の主題」で読み解く」をお薦めしたい。全文が無料で公開されている。

脱線したので元に戻そう。

さて、以前から新海誠監督の作品は「セカイ系」に含まれると評されてきた。「セカイ系」とは、主人公とヒロインの関係が、社会や国家という中間項を介さずに、世界の終わりのような大きな問題に直結する作品群を指す言葉だ。「セカイ系」の代表的作品として、『新世紀エヴァンゲリオン』がある。

また、「セカイ系は設定がいい加減で、世界の成立についての説明がない」とも指摘されてきた。『エヴァ』もやはり、非合理的で非現実的な場面が多数あり、きちんと説明がされないまま終わってしまう。そのせいで視聴者が不満を抱くこともあった。

『君の名は。』もおそらく「セカイ系」に分類されるのだが、ここでは『エヴァ』などと区別して『君の名は。』について考えたいので、その性質に「セカイ系」とは別の名前をつけることにしよう。

齋藤あきこさんは『君の名は。』の性質を「シチュエーション至上主義」と呼んだが、これ以降は齋藤あきこさんの考えでなく私の考えを述べたいので、やはり別の名前をつけることにしよう。

そこで私は、『君の名は。』の性質を「カタワレ系」と名づけた。

『君の名は。』の世界では、昼と夜の間の時間帯が「かたわれ時」と呼ばれていた。「かたわれ」にはだじゃれのように「片割れ」の意味が掛けられており、入れ替わる主人公二人を表現する言葉でもある。彗星が割れることも表現している。主人公二人はクライマックスで時空間を超え、「かたわれ時」の美しい山頂を走る。作品全体を貫く言葉であることから、私は「カタワレ系」と名づけた。

誰かが偶然にも「カタワレ系」という言葉を私よりも先に使っていたら申し訳ない。もしそうだったら教えてほしい。

「カタワレ系」は次の4件をすべて満たす性質、または性質を有する作品である。

1件目に、根拠や理由の解明を目指さない。

2件目に、論理性、合理性、人の個性を重視せず、状況を重視する。

3件目に、その状況内だけで成立する前提を無抵抗に受け入れる。

4件目に、その状況に対応した感情を抱く。

以上が「カタワレ系」の定義だ。これでは分かりづらいかもしれないので、『君の名は。』を例にして「カタワレ系」をもっとおおざっぱに説明しよう。

根拠や理由を考えたりはせず、「そういうことになっているから」と受け入れ、男女が入れ替わりRADWIMPSのかっこいい音楽と共に美しい場所を一生懸命走るというエモい状況を楽しみ、感情移入する。

それが「カタワレ系」だ。

ここでの「根拠や理由」とは、「倫理的に正しいこと」とか「頭がいいこと」という意味ではない。犯罪をすることにも根拠や理由はあり、知性が未発達の赤ちゃんの行動にも根拠や理由はある。

たとえば『ONE PIECE』であれば主人公のルフィが「“海賊王”に!!!おれはなるっ!!!!」という信念に沿って行動する。ルフィだけの特別で代替不可能な個性だ。ルフィの行動には非論理的、非合理的で無謀な側面があるが、それが主人公の個性だから読者・視聴者を惹きつけるのだ。しかし『君の名は。』では個性が掘り下げられない。齋藤あきこさんは『君の名は。』を「登場人物たちの内面や人間関係の描写がものすごく浅くて感情移入することができない」と評価している。だから『ONE PIECE』は「カタワレ系」とは正反対だ。

フィクションなのだから超能力を使ってもいいし、怪獣が街を破壊してもいい。しかし、それでも現実との整合性がないと、視聴者や読者は納得できない。

『君の名は。』と同じく2016年に公開された映画『シン・ゴジラ』では、極めて論理的・合理的に根拠と理由が説明される。だから『シン・ゴジラ』は「カタワレ系」と正反対だ。なお、『シン・ゴジラ』の監督は『エヴァ』と同じく庵野秀明である。

同じく2016年に公開された映画『この世界の片隅に』は、戦時中の日本、特に呉(くれ)についての圧倒的な調査に基づいてディテールが描かれている。登場人物が当時の現実世界にいてもおかしくない。だから『この世界の片隅に』は「カタワレ系」と正反対だ。

『君の名は。』の制作過程において「カタワレ系」が成立した要因として、新海誠監督が描く圧倒的な背景の美しさ、また「PV的」だとも評される音楽との親和性、カットのリズムがあるだろう。

雑誌『ユリイカ』2016年9月号に掲載された飯田一史氏の文章から引用しよう。タイトルは「新海誠を「ポスト宮崎駿」「ポスト細田守」と呼ぶのは金輪際やめてもらいたい」だ。内容はタイトルの通りだ。

宮崎駿はナウシカやポニョをはじめ、強烈なキャラで映画を牽引してきた作家である。高畑勲や細田守の作品も、キャラクターについて強烈な印象を残すものである。(中略)新海作品には「宇宙と地球に引き裂かれた恋人」といったシチュエーションが生む悲哀はあっても、キャラクターそのものの魅力は乏しい。

次の文章は新海誠監督についてである。

「世界はこう見える」ということに関心はあっても、「世界はこのように成り立っている」という原理には関心はない。設定、世界観、つまり世界を構成する原理の描き方は曖昧だが、背景や光の表現はリアルである。
細かく色味について考察し、美術をつくりあげることのできる人間が、SF設定となるととたんにゆるくなるのが不可思議である。
最新作『君の名は。』でも、なぜ主人公ふたりの精神が入れ替わるのか、なぜこの男の子が不可思議な現象の対象者として選ばれたのか、なぜ互いの名前にまつわる記憶が抜け落ちていくのかが、ほとんど説明されない。おそらく、描かれている以上の設定もない。そういう意味では新海は何も変わっていない。そしてこうした特徴も、たとえば漫画版『風の谷のナウシカ』を描いた宮崎駿の姿勢と比べてみれば、根本的に異なる。

(出典はすべて前掲書 p.167-168)

要するに、漫画版『風の谷のナウシカ』は「カタワレ系」とは正反対だ。

『君の名は。』の他には「カタワレ系」に当てはまる作品は何があるだろうか?皆様から教えていただきたい。

私は『君の名は。』が「セカイ系であり、カタワレ系でもある」と考えている。「セカイ系だが、カタワレ系ではない作品」もあれば、「セカイ系ではないが、カタワレ系である作品」もあるだろう。例としてどんな作品があるだろうか?これも皆様から教えていただきたい。

ぜひSNSでこの記事を拡散しながら例を挙げてほしい。

【2019年1月13日に追記】

この文章を書いてからしばらく経って気づいたのだが、もしかしたら『ラ・ラ・ランド』も「カタワレ系」かもしれない。

Twitterで「うちゃか」さんと齋藤あきこさんの会話があった。

出典:https://twitter.com/sayakaiurani/status/1083659366539046913

出典:https://twitter.com/akiko_saito/status/1083927923365564416

ところで、Internet Exploreではnoteに挿入したツイートを見ることができないという不具合があります。この上にうちゃかさんと齋藤あきこさんのTwitterが見えない人は、Google ChromeやFirefoxなどの他のブラウザを使ってください。


齋藤あきこさんは「君は砂漠かリア充か 「ララランド」に感動する方法」というタイトルで『ラ・ラ・ランド』に感動できなかった旨をnoteに書いたことがあった。

また、WIREDにおいても、「『ラ・ラ・ランド』を、擁護してみる」というタイトルで『ラ・ラ・ランド』の欠点と優れた点の両方を考察する記事があった。

以上2本の記事から察するに、やはり『ラ・ラ・ランド』は「ストーリーがない」、「人物が描けていない」、「曖昧」、「説明不足」と批判されているらしい。

齋藤あきこさんは『ラ・ラ・ランド』に感動できなかった、としながらも、感動した人たちの感想を「映像がキレイで有名な俳優がいい演技をしていてせつない恋物語で最初と最後にバーンって音楽があったから文句なし」とまとめた。『ラ・ラ・ランド』でも、シチュエーションと雰囲気が重視されるのだ。

『ラ・ラ・ランド』と『君の名は。』は似ているだろうか?『ラ・ラ・ランド』は「カタワレ系」だろうか?


以上で『君の名は。』についての考察を終える。ここまでが第1章だ。

第1章をおさらいしよう。

「カタワレ系」は次の4件をすべて満たす性質、または性質を有する作品である。

1件目に、根拠や理由の解明を目指さない。

2件目に、論理性、合理性、人の個性を重視せず、状況を重視する。

3件目に、その状況内だけで成立する前提を無抵抗に受け入れる。

4件目に、その状況に対応した感情を抱く。

以上が「カタワレ系」の定義だ。

もう一度書こう。私は『君の名は。』とRADWIMPSを批判したいわけではない。私は『君の名は。』を最高に素晴らしい映画だと思っている。


第2章 社会のあちこちに「カタワレ系」が見えてくる


私は『君の名は。』からヒントを得て、社会の様々な現象を解釈する手法を作りたい。『君の名は。』とは無関係の事柄を考えるにあたっても、『君の名は。』で学んだことを活かせるのではないか?

いくつか例を挙げてみよう。

2018年にはポカリスエットのCMで中高生がダンスをした映像があった。

出典:https://www.youtube.com/watch?v=ASE9x7pGLwg

まず私が抱いた第一印象は、「制服は動きづらそう」だった。激しく動いたら破けるんじゃないか。汚れるかもしれない。暑そうだ。革靴でダンスをしたら足が疲れる。なんでスポーツウェアやダンス用の服装じゃないんだろう?

だがそんな感想を抱いた私はきっと少数派だろう。青空の下でたくさんの中高生が制服を着て音楽に合わせ元気よく動きを揃えて踊るというシチュエーションが重要なのだ。その場のノリ、雰囲気、エモいことが重要なのだ。

皆様はCMを観てどう思っただろう?

なお、『君の名は。』でも登場人物が制服で走るシーンがあった。その登場人物はなぜもっと動きやすい服装を選ばなかったのだろう。

もしかして、ポカリスエットCMは、「カタワレ系」なのか?

テレビのCMは、ある意味では現実、ある意味では虚構なのだが。

「カタワレ系」は、映画や漫画やアニメに限らず、現実世界にもあるのではないか?


大昔から散々批判されてきたことだが、毎年夏なると甲子園で高校球児たちが炎天下で野球をする。同じ高校の生徒が応援に駆けつけ、大声を出し、楽器を演奏し、踊る。その光景をテレビで見るたびにいつも私は「暑そう」と思ってしまう。しかし甲子園においては「そういうことになっている」のだ。

同じ高校のみんなで甲子園に行って夏空の下で一丸となって闘い応援するという状況が大切なのだ。これは嫌味や皮肉ではない。

もしかして、これも「カタワレ系」だろうか?

高校生たちは、その時間のその場所だけの特別な体験をしている。夢中になって力を出し尽くしている。私はそんな高校生たちの姿を見ると、「野球をやめるべきだ」と断言はできない。もちろん暑さへの対策は必要だと思う。


私の考えでは、「カタワレ系」は「盛り上がることが大切」という意味ではなく、「特別なシチュエーションが大切」という意味でもない。『君の名は。』でも、主人公二人が入れ替わらない時間があるからこそ、入れ替わっている時間の異質さが際立つのだ。かたわれ時(=昼と夜の中間)ではない時間があるからこそ、かたわれ時の美しさが際立つのだ。

「カタワレ系」においては、時と場所に応じて「落ち着いて、空気を読み、波風を立てないこと」も大切なのだ。

いま流れているスムーズな「空気」を相対化したり、それに疑問を呈したり、あるいはそれをひっくり返したりする振舞いは、「コミュ力」のユートピアでは「コミュ障」とされてしまいかねない。
「コミュ障」と呼ばれないためには、極力「野党」的な振舞いをしないように気をつけなければならないということになる。
スマートにやることで、彼らは感じのよい振舞いをディスプレイする。
この「感じのよさ」の基準からすれば、法案に反対してプラカードを掲げる野党議員や、暑い夏の日に、タオルを巻いて座り込みを続ける人たちの評価はどうしてもよいものにはならない。

以上の文章は、野口雅弘氏が書いた「「コミュ力重視」の若者世代はこうして「野党ぎらい」になっていく」という記事からの引用だ。これは2018年7月13日に公開され、当時はかなりの反響があった。

出典:https://gendai.ismedia.jp/articles/-/56509

これ以降に書くことは、野口雅弘氏の考えではなく私の考えなので注意してほしい。

政治的なデモに嫌悪感を抱く人もいるだろう。嫌悪感を抱く理由は非常に複雑で、ここで私がすべてを説明することはできない。人によって様々だ。しかし、嫌悪感を抱く人の中には、こんな考えの人もいるのではないか?

エビデンスはないが、私の仮説を述べよう。

その人たちは「道路で政治的な意見を主張してはいけない。うるさくしてはいけない。道路は移動するための場所だから、通行の邪魔をしてはいけない」と考えている。理由は「そういうことになっているから」だ。「デモをする方法、権利、義務は、どの法律にどのように書いてあるか」を知ろうとはしない。しかしその人たちは「スポーツの優勝パレードなら道路でしてもいい」と思っている。優勝パレードなら大音量で騒ぎ、道路を塞ぎ、通行の邪魔になってもいい。「政治的なデモと優勝パレードは別問題だから。そういうことになっているから」と思う。その場所のその時間の状況を重視する。

これも「カタワレ系」だろうか?

もちろん、デモへの嫌悪感には他の理由も大量にあるだろうが、ここですべてを書き尽くすことはできない。

別の例を挙げてみよう。

公園でホームレス生活をする人を排除する人がいる。排除する理由も人によって様々で、デモと同じく、私がすべての理由を書き尽くすことはできない。しかし、ホームレスの人を排除する人の中には、こんな考えの人もいるのではないか?

その人たちは、「公園で生活してはいけない。そういうことになっているから」と思っている。「公園で生活をする人がいる」という今目の前の状況だけを見ている。

しかしそのホームレス生活をしている人は、代替不可能な個人であり、名前と個性がある。仮に山本さんとしよう。

「公園で生活してはいけない。そういうことになっているから」と思う人は、山本さんをただ「公園にいるあの人」としか思わない。「山本さん」の個性を見ない。名前がない。ホームレス生活をしている山本さんが今までにどんな人生を生きて、なぜホームレス生活に至り、これから将来はどうやって生きていくのか、そんな山本さんの時間の流れを考えようとしない。その人は山本さんと対話をしない。

これも「カタワレ系」だろうか?

私はこれを書くにあたり、こちらの白饅頭さんの記事から着想を得た。有料記事だが、デモとホームレスについて書いてある。

白饅頭日誌:12月5日「フランスのデモについての雑感」

https://note.mu/terrakei07/n/n07deeae2af27

繰り返しになるが、もう一度書こう。「カタワレ系」は次の4件をすべて満たす性質、または性質を有する作品である。

1件目に、根拠や理由の解明を目指さない。

2件目に、論理性、合理性、人の個性を重視せず、状況を重視する。

3件目に、その状況内だけで成立する前提を無抵抗に受け入れる。

4件目に、その状況に対応した感情を抱く。

以上が「カタワレ系」の定義だ。

ここで第2章を終える。次章では、私がまだ明瞭に言語化できていない大胆な仮説と今後の課題を述べる。


第3章 「カタワレ系」とKYの違い、日本文化との関連性、時間意識とバタイユの至高性、個性とキャラ性、「エモい」について


さて、ここで議論を整理しよう。様々な現象、表現、文化を解釈するために、古今東西、様々な言葉と概念が作られてきた。これまでの言葉と概念では説明不可能だったことが、「カタワレ系」で説明可能になるのではないか?これまでに見逃していた事柄が、「カタワレ系」によって再発見されるのではないか?そう考え、私は「カタワレ系」を提案している。

ここから先は、私の大胆な仮説と、今後の課題である。かなり曖昧で大雑把な議論になってしまう。


今となっては死語だが、2007年~2009年近辺には「空気を読まない」を意味する「KY」という言葉が流行した。

たしかに「カタワレ系」と「空気」「雰囲気」は似ている。重なる部分もある。しかし「空気・雰囲気を読むこと」はコミュニケーションに重点を置いており、「カタワレ系」は場所と時間に重点を置いている。この意味で、「空気・雰囲気」と「カタワレ系」は違う。


これはネットで話題になったことだが、映画『君の名は。』を外国の映画館で観た日本人たちは、外国人と日本人の感性の違いに驚いたらしい。映画館で日本人の観客が感動して泣きそうなとき、外国人の観客からは笑いが起きたそうだ。いったいなぜ笑いが起きたのだろう?はっきりとした理由は分からないが、私の仮説を述べよう。

『君の名は。』におけるストーリーの盛り上がりは、シチュエーションに依存している。しかしシチュエーションと感情の対応関係が日本人と外国人で異なる。日本人と外国人では、泣くシチュエーション、笑うシチュエーションが違う。だから『君の名は。』を観た反応が日本人と外国人で異なっていたのだ。

『君の名は。』には「カタワレ系」の性質がある。日本と外国では、「カタワレ系」の内容がどのように違うのだろう?そもそも「カタワレ系」は日本の文化に特有の性質だろうか?まだ私には分からないが、考察を深めるために、ここで社会学と哲学の力を借りよう。

2016年10月30日に放送されたNHKの番組「ニッポンのジレンマ」のテーマは「文化と効率性のジレンマ大研究@京大」だった。

番組の中では、社会学者である柴田悠氏(しばた はるか、京都大学 大学院人間・環境学研究科准教授、ただし番組放送当時)が、真木悠介(見田宗介の筆名である)が書いた『時間の比較社会学』という本の内容を解説した場面があった。

京都大学ウェブサイトの、柴田悠准教授のページはこちら。

私は『時間の比較社会学』を読んでいないので、番組内の柴田悠准教授の発言から要点をまとめることにする。

――――――――――――――――――――

現代人は「役に立つこと」つまり「有用性」を重視している。しかし「有用性」は現代人の時間意識に伴って使われる概念であり、人間の時間意識は時代、地域、宗教によって異なっている。

日本人の場合、平安時代には「黄昏時」(たそがれどき。誰そ彼とも書く)という概念が生まれた。黄昏時は、その前後とは質的に異なっている、そのときだけの異質な時間である。黄昏時は今(2016年)ヒットしている映画『君の名は。』でも使われている。『君の名は。』には日本人が感動する要素が散りばめられている。「異質な時間には世界が変わる」という時間意識にフィットするから、『君の名は。』はヒットする。

現代は「役に立つこと」つまり「有用性」と結びつく時間意識があるが、その時間意識だけでは黄昏時のような「質的に違う時間意識」が出てこない。現代人が有用性だけで生きてしまうと、人間が感動し幸福を感じる可能性を失ってしまう。

たとえば、フランスの哲学者であるジョルジュ・バタイユは「有用性」を批判し、「至高性」という概念を捉えた。バタイユは「人間は未来を考えずとも時を忘れて感動したときに涙を流す」という意味で「至高性」を捉えた。有用性のオリにとらわれずに至高性を意識することが大切である。

――――――――――――――――――――

以上が柴田悠准教授の発言の要点である。番組内で柴田悠准教授は『君の名は。』と「至高性」の関係について発言しなかった。しかし全体の文脈から総合的に解釈すると、おそらく、柴田悠准教授は「映画『君の名は。』では「至高性」が表現されている」と肯定的に考えているはずだ。間違っていたら申し訳ない。

私はジョルジュ・バタイユが提唱した「至高性」については詳しく知らないうえ、番組内の柴田悠准教授の発言だけでは難しいので、分かりやすくするために戸谷洋志(とや ひろし)先生の本から引用しよう。

戸谷洋志先生は哲学研究者であり、『Jポップで考える哲学 自分を問い直すための15曲』の筆者である。

本のAmazonページはこちら。

先生のTwitterとresearchmapはこちら。

『君の名は。』の公開が2016年8月26日だったが、『Jポップで考える哲学』の発売が2016年9月15日なので、ほぼ確実に『君の名は。』の公開前に書かれたはずだ。よって、本の中で『君の名は。』については触れられていない。これ以降に私が引用する部分は、『君の名は。』について書いたわけではないので注意してほしい。

『Jポップで考える哲学』では、一瞬の価値を重視した哲学者として、ジョルジュ・バタイユが挙げられた。長くなるが、以下に引用する。

バタイユは、こうした目的と手段の関係では捉えることのできない価値をもった瞬間のことを「至高性」と呼びました。
(中略)
バタイユに拠れば、「至高性」とは日常生活から切断された瞬間的な時間であり、そこには有用性によっては計ることのできない価値があります。
 ただし、「至高性」をもつ瞬間が何かに役立つものではなく、また二度と繰り返さない時間である以上、私たちはその時間のなかで力を使い果たしてしまいます。何かに夢中になっているとき、私たちは明日のために余力を残すことなど考えられません。こうした、一瞬にすべてを使い果たすという性格を、バタイユは「蕩尽」(とうじん)と呼びました。バタイユに拠れば、「蕩尽」こそが現在に固有の輝きを与え、目的と手段の関係に囚われた日常生活に亀裂を生じさせ、私たちの現在を回復させる力を持つのです。私たちにとって現在が特別な意味をもって体験されるのはこうした瞬間であるといえるでしょう。
(戸谷 洋志『Jポップで考える哲学 自分を問い直すための15曲』P.196-197、2016年、講談社)

その後のページでは「特別な時間にずっと接し続けることはできない。いつかは日常生活に戻らなければならない。死なないためには食べないといけない、食べるためには働かないといけない、働くためには就職しないといけない。日常生活は目的と手段の関係から成立している」と述べ、次の章では死について考察を深めていった。

『君の名は。』の主人公も、「かたわれ時」の特別な時間を体験したが、やはり日常生活に戻り、就職活動をしなければならなかった。そして映画を観た私たちも、映画を観ている最中は特別な時間だったが、映画館を出たら日常生活に戻るのだった。

さて、私が名づけた「カタワレ系」と「至高性」には似ている要素がある。しかし同じではない。「至高性」は「有用性」と対を成す概念であり、時間に注目している。「カタワレ系」は時間だけでなく場所(道路、公園、山頂、野球場など)も含めた状況・シチュエーションに注目している。また、「至高性」は特別な時間だけを指すが、「カタワレ系」は日常的な時間も含めている。「平凡で日常的な時間と場所を維持すること」も「カタワレ系」なのである。バタイユは「至高性」を良い意味で使っているが、私は「カタワレ系」を良い意味と悪い意味の両方で使っている。

さら別の論点もある。「カタワレ系」と「至高性」は、現代のネット文化と時間意識と、どのような関係にあるのだろう?

現代はスマホの性能とネットの通信速度が向上し、SNSでは即時的な反応が得られる。YouTubeなどの動画配信サービスでは短時間の動画が好まれる。ユーザーはおもしろいかつまらないかを即座に判断し、即座に反応する。じっくりと長い時間を掛けて作品と向き合い、他者と向き合うことは、難しくなっているようだ。だから根拠や理由を深く考えたりせず、「そういうものだから」とあきらめ、ノリと雰囲気を短時間で味わうことが求められるのだろうか?「カタワレ系」は、現代のネット文化と親和性があるのだろうか?だから『君の名は。』が大ヒットしたのだろうか?「至高性」は現代のネット文化と親和性があるのだろうか?ないのだろうか?

私の理解はまだ浅いので、読者の皆様からのご批判を受け、この文章を加筆修正したい。


次に、キャラ性と代替不可能性についても考えたい。

飯田一史氏、齋藤あきこ氏らは、ここまで引用したように、『君の名は。』のキャラクターには魅力が乏しいことを指摘した。これも「カタワレ系」の重要な側面だ。

ポカリスエットCMを例にすると、たしかに青空の下でみんなでダンスを踊ればかっこいいが、それは踊る人が鈴木さんでも高橋さんでも佐藤さんでもだれでもいいことだ。「鈴木さんのダンスはかっこいい」とはならない。「CMに出た人は」という大きな主語で捉えられる。鈴木さんは代替可能な存在になり、「かけがえのなさ」がない。

ホームレスを例にすると、「ホームレス生活をする人を排除する人たち」はホームレスの人たちを個人として捉えず、「ホームレス」という大きな主語で捉えている。山本さん、田中さん、伊藤さんという個人を知ろうとしない。

もしかして、「カタワレ系」は、他者との対話につながりづらいのだろうか?「カタワレ系」は、自分とは異なる性質を持つ他者を排除することにつながるのだろうか?まだ私の考えを整理できていない。

「カタワレ系」と「大きな主語」「太宰メソッド」には関係があるような気がするのだが、これについても私の考えを整理できていないので、ここには書かないでおく。

代わりに私が去年公開した文章へのリンクを載せることにする。

「大きな主語」を本気で批判してみた

https://note.mu/yokogao/n/n95df7f5a6eed


最後に、「エモい」について考えてみよう。「エモい」という言葉の流行が始まったのは、2016年以降だろうか。『君の名は。』を観た感想として、よく使われる表現が「エモい」だ。あいにくアンケート調査などの数値は知らないが。

「カタワレ系」と「至高性」は、どちらも「エモい」と関係があるような気もする。「エモい」は日本の文化に特有だろうか。

『君の名は。』とは無関係だが、Twitterで拡散した投稿が興味深かったので、挿入しよう。


出典:https://twitter.com/misskeio201802/status/1026825644414447618

出典:https://twitter.com/fera_lady_Z/status/1027161654302138368

出典:https://twitter.com/Vmotherfucker/status/1027475702457593856


第3章をまとめよう。ただし、どれも曖昧で大雑把な仮説にすぎない。

「カタワレ系」は空気・雰囲気を読むこととは違う。

「カタワレ系」はバタイユの「至高性」と似ている要素がある。

「カタワレ系」においては、人が代替可能である。その人だけの特別な個性と物語がない。


次の問いが今後の課題である。

・「カタワレ系」は、日本の文化に特有の性質なのか?

・「カタワレ系」は、現代のネット文化や反応の即時性とどのような関係か?

・「カタワレ系」は、他者との対話につながらず、自分とは異なる性質の他者を排除することにつながるのか?

・「カタワレ系」は、「エモい」とどのような関係か?


ところで、RADWIMPSをきっかけにこのページに辿り着いた方もいるかもしれない。去年私はRADWIMPSについて文章化したことがあったので、そちらもお薦めしたい。このテーマでこれほど広く深く書きネットに公開した人は、私の他にほとんどいないだろう。天体観測、3月のライオン、初音ミク、3.11、棒人間、新海誠監督までを網羅した、2万6千字の大ボリュームである。全文が無料だ。

BUMPとRADは似てるのか?綾波レイと君の名は。

私は「BUMPとRADは似てるのか?綾波レイと君の名は。」を書くにあたり、戸谷洋志先生がnoteに投稿したBUMP OF CHICKENの文章から多大な影響を受けた。戸谷洋志先生からは、また今回のnoteでもヒントをいただいた。感謝申し上げます。


以上です。最後まで読んでくださり、ありがとうございました。ぜひこのページを拡散し、ご意見、ご感想を発信していただきたいと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?