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1935年、芝浦スケートリンク
いよいよ1935年11月25日から、第6回全日本フィギュアスケート選手権がはじまった。これで翌年、ドイツのガルミッシュ=パルテンキルシェン冬季五輪に出場する代表選手が決定する。
ず11月25日に山王リンクでジュニアの男子と女子のスクール競技(規定)。
翌26日には新宿の伊勢丹スケート場にて男子の選手権クラスと男子と女子がスクール競技。
27日に芝浦リンクで全選手の自由演技という予定が
第5章 喜劇王チャプリン来日
「えっちゃん、チャプリンが来るんやて。港まで見に行かん?」
ある日、小学校で同級生たちに言われた。
「すごい!本物?あかんねん。うちスケートの練習があるんやもん」
喜劇王、チャーリー・チャプリンの映画は、日本の配給会社は名前を憶えてもらえないかもと思い、最初は「変凹(ヘンペコ)くん」とか「よいどれくん」という名前で公開されていた。が、すぐにチャプリンの名前で親しまれるようになった、
第4章 大阪歌舞伎座ビル
「朝からスケートをやる。戸外で食事をして愉快になり、滑りそこねて、水中に落ちた」と書いたのは、ドイツの詩人、28歳のゲーテだった。
日本では明治になってすぐゲーテの名が紹介された。たちまち「若きウェルテルの悩み」がブームになり、島崎藤村、尾崎紅葉、堀辰雄らに大きな影響を与えた。
悦子の毎日は文学ではなく、スケート一色だ。
ABCリンクに少し遅れて、大阪難波新地に7階建て、地下2階の歌舞伎
第3章レイクプラシット五輪
1932年は、米国のレイクプラシットで氷上オリンピックが開催され、日本からはじめてフィギュアスケート選手の老松一吉と帯谷龍一が送り込まれた。2人ともそれぞれ前年度の全日本1位、2位である。
大阪本社4階の会館でも、グルノーブル五輪のビデオ試写会を催し、帰国した選手たちによる凱旋公演も行われた。
競技初日の2月8日は、6種類の課題をこなすスクール(規定)が行われ、8か国12選手がこれに挑んだ。
第2章 1932年 大坂朝日新聞社ビル
悦子がフィギュアスケートと出会ったのは、小学校2年生のとき。きっかけは大阪朝日新聞が建設した自社ビルだった。
もともと大阪ではライバル、大阪朝日新聞が信じられないほどスポーツに力を注いでいた。日露戦争の頃からすでに大阪湾を利用して、長距離水泳大会や市内のマラソン大会を企画。これが大当たりして、新聞の発行部数を伸ばした。プロ野球の東京巨人軍ができるより10年も早く、「大毎野球団」というセミプロ
第一章 1924年 大阪
稲田悦子は関東大震災の翌年、1924年2月8日に大阪で誕生した。
3人姉妹の末娘。大正13年、十干十二支の最初の組み合わせに当たる甲子年(きのえねのとし)で、60年に一度の縁起がいい年でもある。(ちなみに僕の曾祖父の阿部信行は、このとき48才。ドイツとオーストリアで武官生活を終え、少将に昇進したばかり。関東大震災では関東戒厳参謀長に任じたそうだ。)
母方の家業は貴金属商で、母のハツ
ヒトラーと握手した少女 稲田悦子物語
〇あらすじ
ナチスドイツの総統アドルフ・ヒトラー総統と唯一、握手したことがある日本人の少女、それが稲田悦子でした。
オリンピックに先だってドイツの首都ベルリンではヨーロッパ選手権が行われ、開会式でスピーチをしたヒトラーが、「あの日本人は何をしにここに来たのかね?」と側近に質問したのがはじまりです。
オリンピック強化選手になってからは、国会議事堂の隣にあった山王スケート場で練習した彼女は