見出し画像

【エッセイ】孤独のほうを向く【別れの作用】

🌸孤独の方を向く


 季節はいつの間にか、年度替わりのときを迎えそうになっており、おそらく、年明けよりもしんみりとしながら、そして緊張の走る時期がやってくるのだろうと思う。

 この時期が、私はあまり好きではない。やはりそれは卒業とか、引退とか、止めようのない別れが絶対的に迫るからだ。

 人間は、独りでは生きていけない。「人」という漢字は――で有名な言説が陳腐化しながらも、私達の心に根付いているのは、その言説がコモン・センスなものだからなのだと思う。

 だから、独りに近づくことは、僕らにとってどうしても恐ろしいものなのだと思う。
 いくつになっても、どのような形でも、離別、死別は人を変える力を持っている。

 広い視野で見れば、生き物は常に別れて出会う。その繰り返しを続けながら生きているはずだ。自分よりも先に生まれた人間のことは、家族であっても、うんと昔の人まではわからないように。別れの跡はどこにでもある

 それでも、一人の人間にとって、「別れ」は重要なのだ。そこに、孤独と向き合う機会――いや、向き合わなければどうしようもない時間があるからだ。

👋別れの作用を考える

 独りを実感するのは、やはり「別れ」の瞬間なのだと思う。
 その存在と出会うまでは、別に居なくても何事もなかったはずなのに、一度出会ってしまったらば、その存在のことを理解してしまったらば、離れることは心的苦痛を伴う。

 私たちは、互いにつながろうとするのだ。思念や情念を結び合わせ、半ば共同体として暮らしてきたからこそ、離れるというのは、「その存在が固有に持っていた思念」が自分と共有されないことと、「自分の託したもの」が遠くに行ってしまうことの苦しみを覚えるということなのではないだろうか。

 ここまで観てみると、別れにはいいことがないように思う。
 ――おそらく、実際にいいことはないのだ。
 新しい気持ちを作ることができるとか、次の出会いを求める機会となるとか、色々とあるけれど、それは私にしてみれば、別れの苦しみからの逃避――とまではいかないけれども、非常に非常に副次的な要素だと思う。
 それに、これらは別れた人間の創意によるものだろう。その人間が受けた苦しみ自体は残るものだと思う。

 私は、このように苦しみの代替手段が提示されることにあまり安心というようなものを覚えられない。やはり、苦しみそのものへの理解を深めるほうが、自分にとって落ち着くように感じられる。

 別れの作用とはなんだろう。
 別れが生じると、自分の中に孤独が生まれる。それ以前は感じることのない過剰な虚ろの気分。
 「ぽっかりと空いた穴」と形容される孤独とは、別に元々空くようなスペースがあったわけでも、埋められるわけでもない。
 ただ突然に、存在しなかった空間がビッグバンのごとく生まれ、そこが虚ろで満たされるのだ。

 虚ろとは、渇望だ。埋めたくてしょうがないもの。存在し続ける限り、腹が空いたように苦しく、前に進むことのできない。そのように、強力で人間を変えるものだろう。

 別れは、つらい。それは、つながっていた思念が離れて、拠り所を失うような感じがするからだ。
 しかし、もっと人を苦しめるものがある。それが、別れの後に生じる孤独だ。
 生まれた空虚感に振り回され、満たそうとして、しかし満たされず、自壊に走ることもある。それらは全て、虚ろを埋めたくてしょうがないからだろう。

 一方で、先ほど批判してきた代替手段を振り返ってみよう。「新しい気持ちを作ることができるとか、次の出会いを求める機会」が生まれるというのは、虚ろを埋めるための創意だろう。先ほどもそう指摘してきた。

 創意とは。人間の力だろう。何かを生み出し、活用しようとする力。大体の場合、これは正の方向に働く。創意工夫といって、絶望した人間が行うようなものには思えないだろう。

 しかし、別れの作用として生じた孤独、虚ろ、空虚感――それらを埋めようとする渇望に対して働く「どうにかしなければいけない」という創意の思念は、負の方向に働いているだろう。

 誤ってはいけないのは。この創意は、どのような方向にでも転ぶ。酒や暴食、あるいは堕落的なことに向かってしまえば最後、おそらく元には戻らない。体だけが朽ちて、孤独は紛れもなくそこに残り続けるだろう。

 それに、創意があまりに先を行き過ぎて、やみくもに自分を忙しくさせて、時間や物事が流れようとも、孤独をごまかすことはできないし、おそらく飛びすぎた創意にそれほど効果はないだろう。

 では、この創意を、良い方向に進めるには何が必要なのだろうか。あるいは、孤独を埋めるにはどうすればいいのか。

☔虚ろを見つめる。その時を待つ。苦悶に耐える。

 孤独による創意は、暴走しやすい。負の方向から発せられるそれが、よいものになることは、直感的にも受け入れがたい。

 大事なのは、止めがたい全身に苦しみながら、虚ろと向き合うことなのだ。「孤独と向き合う機会――いや、向き合わなければどうしようもない時間」とはそういうことである。

 孤独に苦しみ、絶望し、自分から離れたなにかを追い求めようとしながら、しかしぐっと堪える。――実際には、抑えられない衝動はいくつかあるだろうから、それはもはや、受け入れざるを得ない。

 しかし、その虚ろへの抵抗感と向き合えば、人は、孤独をどうにかしようと絶望しながらも冷静に考えることが期待できる。
 いつになるのか、あるいはどれほどまで苦しめられるのか、それはもう分からない。ときに、精神が負けて、渇望を埋めようと負の創意が働いたり、体を壊すかもしれない。しかし、最終的には皆、内なる孤独と向き合っていくものだと思う。

 ……そうでなければ、孤独から生まれた創意を器用に使うことは難しい。

 先ほどから私は、孤独を埋めるものだとして論じてきた。これは実際には正しい言い方ではない。孤独は埋めるものではない。ブラックホールのように、深淵で、吸い込む力しかない。虚ろが渇望といったのは、そういうことである。多くの場合、渇望は満たされないものだからだ。

 孤独とは、最終的には自分のものとして所有し、創意によって別の良いものへと加工せねばならないものなのだ。
 結局のところ、世の中がいうように、孤独はなにかに転化しなければならないものだと、そういう考えに至った。

 しかし重要なのは、それを目的として生きてはいけないのだ。
 「最終的には」孤独を受け止め、創意を喚起し、行動し、孤独を別の、おそらくより良いものに変えていくべきなのだろう。

 だが、それは孤独の苦しみに耐えることを考慮していない。まず人は、孤独に苦しみ、耐えなければならないのだ。

 しかしこれも、考慮が足らない。孤独とは耐え難いのだ。人を容易に変えてしまうのだ。突然に、孤独に耐えろと言われて、誰が勢いづくだろう。

 私がいいたいのは、孤独の方を向くのが、まず人に与えられた方策だろうということだ。
 孤独を受け止めるかどうかはともかく、創意を働かせるかもどうでもよく、しかし、渇望に踏み入れることなく、「そこにあることを実感する」のだ。それは、人によって様々なタイミングがあるだろう。決してすぐそうするようなものでもない。
 しかし、孤独があることを前提として、そちらの方を向くことは、今までに比べれば幾分楽である。

 恐ろしい存在をずいぶんと遠くから観てみる。観察する。それをどうすればいいのか、それを考えるのは次の段階だろう。しかしそれを考えられれば、孤独を転化させる機会はすぐそこにあるのだろう。

 それまで、渇望に飲まれないように。
 それだけは、守らなければならない。
 私がこの時期にいいたいのは、そういうことなのである。

🤝孤独の方を向く。過去に揺蕩う。

 本稿はこう見えて、孤独に苦しむものへの、私なりの論考である。助言というには無責任であるから、ただ、論考を置いておくのだ。

 ――挫折は経験しておいたほうがいいとか、失敗が人を強くするというのは、苦しみをなにかよいものへ転化することができるから言われているのだろう。
 だが、孤独というものだけは、特別重たいような気がする。なぜなら、自分ではどうしようもないことだからだ。

 だが、孤独もまた、よいものへ転化する力を持っている。おそらく今はとてつもなく苦しいのだろうけれども、孤独の方を向くことができれば、あなたの力でそれは何かしらに変化させることが期待できる。

 今は孤独の方を向けなくとも、それはそれでよいのだ。あなたの内に生じたものは、外側から変わることはない。むしろそれは、守られている。あなた自身が解き放つそのときまで、じっとしてみるのだ。必要があれば、観察してみてほしい。

 さて。余談だが、私は今学生時代に熱唱した合唱曲を聞きながらこれを執筆している。なぜなら私も、孤独に向き合っているからである。
 孤独を埋めたくてたまらないのだが、ぐっと堪えて、とにかく自分の中にある孤独を見つめ続けている。そうしていたら少し転化する余裕が湧いたので、この論考を書いている。

 うんと過去の思い出は、孤独に対してずいぶんと優しい。後ろ向きと批判されるかもしれないが、これは大事なことだと思う。
 なぜなら、私を支えてきた過去のぬくもりに揺蕩いながら、孤独と向き合う時間を少しずつ増やしていくことができるからだ。

 万人の救いになることを、人は伝えられない。そういうものは万人のために与える者のなせる技だろう。
 しかし、糧となることを伝えることはできる。これが一日の力となることを祈って。


フォローが励みになると言って、卑しいと思う人などいないと信じたいものです。あなたとつながることが嬉しくないわけがないのです。

読後にスキを。|炉紀谷 游

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?