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人生も長くはない。
そろそろ無謀なチャレンジしよう。
一緒にやりたい人、募集。
来るものは選び、去る者は追わないスタイル。
https://youtu.be/TiSgZpdTctI
人生も長くはない。
そろそろ無謀なチャレンジしよう。
一緒にやりたい人、募集。
来るものは選び、去る者は追わないスタイル。
https://youtu.be/TiSgZpdTctI
つまり、そういうことだ 22.5
これは私が日常的に実践して感じていることだ。
瞑想は、意図的に意識を覚醒から眠りの中間の状態に向かわせ、認識に存在からのメッセージを受信させる行為。
それに対し祈りは、ふだん眠っている潜在的な意識(存在)を意図的に覚醒させ、状況、環境を巻き込んで自分の生命を目的に近づくように運行させる行為だ。
瞑想はやがて祈りとして覚醒し、祈りは集中するほどに瞑想へと近づく。
この二つを明確に立て分けるこ
つまり、そういうことだ㉑
存在は「認識の外」に、その大部分がある。
認識は、存在の一部を表現している「デバイス」に過ぎない。
認識とは、おまえのことだ。存在とは、もっとおまえのことだ。
おまえは、認識というデバイスの画面に映る動画やポップアップ通知を自分そのものだと信じているが、それはおまえじゃない。
デバイスを見つめている存在こそがおまえなのだが、画面の情報に没入しすぎて、認識を自分そのものだと思い込んでいる。
それこそ
世界はルールを変えた
先ほど世界は、ルールを変えた。
今朝のことだ。
なくなったんだよ、カード類が一式ごっそり全部。
まあ失せものには慣れっこだ。昨晩、カード類一式をテーブルの上に出して見ていたのは憶えているが、そこから何処に仕舞ったのか分からない。
そのへんにあるだろう、と探しはじめたが見つからない。財布の中身もカバンの中身をすべて出した。
上着のポケットを探っていて「おっと、昨日着ていた服はこいつじゃない」と気づ
つまり、そういうことだ⑲
精神的な、というよりも存在的な価値観の土台をつくる「教育」が無いことに、わりと子供の頃から愕然としていた。
存在について、分かるように教えてくれる人は(少なくとも自分のまわりには)いなかった。
散々考え、調べ、実験を繰り返しては思索した挙げ句、「これはもう死ぬまで分からない」と諦めていた。
それがこの年齢(四五歳)になって、ようやく感覚としてつかめてきた。
体験を通じて少しずつかき集めたヒントが、
つまり、そういうことだ⑯
このリンゴを使って、また別の角度から、おまえと存在について考えてみよう。
リンゴを上から下に落とす。
上から下に落ちたリンゴが、おまえには見える。
では、光がいっさい届かない真っ暗闇でリンゴを落としたらどうなるか。
上から下に落ちる音をおまえは聴く。
では、さらに音がいっさい響かない、空気が振動しない真空状態で落とせばどうなるか。
上から下に落ちたわずかな振動をおまえは感じる。
では
つまり、そういうことだ⑮
存在の遊戯において、ラスボスはおまえ自身だ。
おまえが大切に、大切に磨き、鍛え、守ってきた「おまえ」。
そのおまえを「ちゃんと使えるか」が、存在の遊戯のクライマックスだ。
自分自身の「全使用」。「フル搾り出し」。「マックス捧げ切り」。
これが存在の遊戯における、クライマックスシーンである。
これこそが、大歓喜だ。
おまえがどんな生き方をしても、最終的に「おまえの軌跡」は、天網恢々疎にして洩らさず
つまり、そういうことだ⑭
では「もっとも、おまえを味わい尽くせる生き方」とは何だろう。
先述した、大歓喜というやつだ。
大歓喜とは「おまえ以外の人の歓喜を喚び起こすこと」と言った。
何故か。
存在が、「おまえ一人」という感覚器官から味わえる歓喜は、たかがしれているからだ。
おまえは、おまえの枠を超えて、おまえよりも大きなものを体感するときに、もっとも歓喜するようにつくられている。
言い換えれば、おまえは自分個人の都合より大