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旅の終わりはどこか?

旅行記の金字塔として燦然と輝く『深夜特急』を読み終えた。

巻末の対談を抜きにしても、6冊の文庫本を5日で読み終えたのだから、相当熱中していたことは間違いない。

何番煎じかも分からないほど多くの人が書いたであろう個人的感想を、ここに記そうと思う。


旅の負の側面

『深夜特急』は筆者の沢木耕太郎さんが、インド・デリーからイギリス・ロンドンまで乗合バスで行く旅路を記したものだ。

が、その中で際立つのは旅の負の側面だ。

旅における疲労感、虚無感、絶望感……

それらは旅のトラブルによって引き起こされるものではない。
自身の内面を見つめた結果の「慣れ」と「憂慮」から来るものだ。

「慣れ」とは経験を重ねることによる刺激の低減、「憂慮」とは自分が定まっていないことへの不安と焦燥だと捉えた。


そしてもっと矮小な規模ではあるものの、沢木さんが感じた「慣れ」と「憂慮」を僕も感じている。
去年、僕も終わりの見えない旅を始めたからだ。



僕は3ヶ月ずつ日本各地のゲストハウスに住み込みで生活していた。
新しい土地、新しい人、新しい出来事には興奮し、感動し、熱狂した。

だが次第にそれにも慣れ、もっと悪く言えば飽きてきた。そして別の場所に移ってまた熱狂しても、3ヶ月が終わる頃には飽きてきた。

最終的には多くの時間を1人で過ごし、ひたすら自分と話していたように感じる。
外からの刺激に無感動になり、別にしたいわけでもない内面との対話に意識が向くようになった。


憂慮に関しても同じことで、楽しむために出てきたこの「終わりのない旅」がいつ終わるのか、終わった時に満足しているのか、終わったところで元の生活に戻れるのか、そもそも戻りたいのか……

周囲の友人は結婚して子供ができて、文字通り地に足をつけているのに、自分はこのまま漂い続けるのか……

答えの出ない問いがグルグル頭を回り続ける。



自分の中に知らず知らずのうちに溜まっていた "濃い疲労" が精神も身体も蝕んでいく感覚をハッキリ感じたのは、一旦実家に帰ったタイミングだった。

別に大変な仕事も大変な日々も過ごしていないのだが、実家に帰ると泥のように眠り込み、深く深く眠りの海に沈んだ覚えがある。

そして起きて初めて、こんなにぐっすり眠れたのは久しぶりだと、こんなに疲労が溜まっていたのかと気付かされのだった。


つまり旅人というのは、心から安らげる場所を持ち得ない人なのかもしれない。
そして漂う自分の将来を憂いながら次第に虚無に陥るのかもしれない。



そんな自分自身の実体験と沢木さんの感情を重ねながら読んでいると、全くもって他人事とは思えなかった。



読み物としての『深夜特急』

話は変わるが、とある記事で、「『深夜特急』は前半は面白いが後半は失速する」という意見を読んだことがある。

記事を書いた人は「そんなことはない、後半こそ面白い」と言っていたが、僕もそう思う。

というより、『深夜特急』の性質が徐々に変化していると感じた。


前半は主に熱狂や狂騒を描いていて、未知への憧れを掻き立てる旅行記としての側面が強い。

が、読み進めていくに従い、意識は外界よりも内面へと向かっていく。
そこには先ほど述べたような「慣れ」が理由としてあり、やがて「憂慮」が見い出されるようになる。


単に「未知の世界を知りたい」「物語として楽しみたい」ということであれば、やはり前半の方が魅力的に感じると思う。

一方で、独白・随筆・人間心理に迫るとすれば後半の方が読み応えがあるように感じた。

事実、物語としてこれを読んでいれば「え、これで終わり?」という感想は拭えないと思う(僕は最終章はエピローグだと思っている)。


それほどまでに、なんというかあっけなくて、それでいて10月の晴天のような笑いが起こってくる。


最終章は蛇足だと思う人もいるかもしれないが、僕は最終章の終わり方も結構好きだ。

以前の記事にも書いた『旅のラゴス』のラストを想起させる(或いは「ラゴス」がオマージュしたのかもしれない)。


旅人の決意

何はともあれ、読了して僕が思ったことがいくつかある。

1つは、やはり旅を続けること。


僕にとってワーホリは通過点でしかない。
というか正確に言えば、去年の旅の延長上でしかない。

多くの人にとってそうだと思うのだが、運命の出会いでもない限り、いずれは日本に帰って会社勤めをして、結婚して子供をもうけて、働いて退職して老いて死ぬ、というのがボンヤリとイメージしていることではないだろうか。

そういう意味では、ワーホリはまさに「大人の夏休み」であり「一時的な非日常」と言える。
いかに長くワーホリしていても、一生ワーホリであることはあり得ないからだ。

つまり、悪く言えばこの「お遊びタイム」はいつか終わる。
そしてあえて言うが、それが真っ当である。


その点、残念ながら僕はその真っ当にして王道のルートを去年外れて、レールの外の「旅人」として生きることを決めた。

そして案の定、沢木さんも感じたであろう「憂慮」をやはり僕も感じている。


その憂慮を解決する手段は二つあると思っている。


1つは「満足するまで旅を続けること」
その満足がいつ来るかは分からない。
なんせそもそも目的がないからだ。

それでもどこかで、「ああ、もう充分だ」と思える瞬間が来るような気がしてならない。
これは希望的観測かもしれないけど、そう信じたい。


もう1つは、些か陳腐な上に恥ずかしいのだが「愛」だと思う。

恋と愛の違いについては多種多様な意見があると思うので割愛するが、「この人のためなら旅をやめられる」という出会いは存在する。

そしてそんな人に出会い、それが成就した際には「旅人」のレールから「王道」のレールへと戻って来れるのだと思う。

アラサー青春野郎もそうでありたかった。


話が逸れたが、旅人の憂慮を解決するのは「満足」か「愛」で、そのためには旅を続けるしかないと思ったのが1つ。


もう1つは、旅は、少なくとも長期にわたる最初の旅は、1人でするべきではないか、ということ。

旅の憂慮は1人でこそ生まれるものだと思う。
道連れがいるのは心強いし楽しさも倍増するのだが、より深く自身の内面と向き合うのであれば1人の方がいいと言える。

何より、将来もしくはすでに結婚しているパートナーと一緒なのは、孤独も憂慮も低減される。

そんなもの感じないで楽しく旅をしたい、と言うのであれば是非パートナーと行くべきだとおもうが、それは2度目の長期旅でもいいのではないだろうか。


一度、徹底的に自分を知る。
当然時と共に自分の価値観も移り変わるが、それをして損はないのではないだろうか。

よく「自分探しの旅なんて無駄」という人がいるが、その人にとって無駄でも他の人には無駄でない可能性がある。

もちろん無駄になる可能性もあるけど、そんなものやってみないと分からない。



つまり何が言いたいかというと、これを読んでいる若者よ、こんな記事すぐに読むのやめて深夜特急を読みはじめましょう。
そしてそのまま世界一周航空券でも取りましょう。

若者の定義はあなたに任せます。
例え70代であろうとも、自分を若者と思うならまずは深夜特急を読みましょう。



いつも以上に乱文・駄文で申し訳ございません。
ここまでお読みいただきありがとうございました。



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